第8話

 百合子が肺を患ったのは、正と結婚して十年に及ばない頃だった。

 その頃、正はあまり家に帰らなくなっていたが、タケキリに会うと密やかに「百合子を頼む」と苦々しい笑みを浮かべていた。百合子の実家である商家の行き先が、芳しくもないという噂もあり、どうやら正は駆け回っているようだった。

 夫の帰ってこない家で過ごす百合子は、時々弱音のようなものをタケキリに零すこともあったが、相変わらず凛とした佇まいで、美しい笑みを浮かべていた。百合子からは、南座で出会う女性達のような芳しい香りはせず、狸の鼻に優しい化粧石鹸の清新な匂いを身にまとっていて、タケキリは居心地が良かった。

 一匹の毛玉として、命の恩人に礼を尽くすための献上品と、京都弁の会話と教えてもらうことが日課になり、ふらふらと街をうろついては、百合子の邸宅を訪れる。二本足で歩くことにすっかり慣れ、言葉は随分と鈍るようになった。この街で生まれた人間だと嘯いても、誰も狸だと疑うことはないだろう。今日も今日とて覚えたわらべ歌を口ずさんで、歩き慣れた小路を行く。邸宅の前にある珍しい郵便受けの中に、美しい白い封筒を見つけると、滋養に良い山菜を入れた籠を放り出しそうになるぐらい、タケキリは心を浮つかせた。

 百合子の楽しみは大阪に引っ越したというハルからの手紙だ。まるで女学校時代の少女の密やかなやりとりのように、白い便箋に綴られた文字を読み終えると慎ましく笑う。床に伏せることの多くなった百合子の変わりに、タケキリがこうして郵便を受け取ることもある。白い封筒が郵便受けに入っていると、タケキリは自身の持ち込んだどんな礼の品よりも、心が躍った。

「こんにちは、百合子さん、お身体はどないです?」と、無遠慮にタケキリは百合子の寝室に足を踏み入れる。

 正の趣味だろう様式の豪奢なベッドの上で、捨てたはずだったフランス文学を読んでいた百合子が顔を上げる。最近の百合子の容態は思わしくないようで、それに比例するように彼女の指先が掴むのは針から、書物へと変わった。邸宅には何人かの使用人が宛てがわれ、タケキリの土産も百合子にではなく、彼女達に手渡すようになった。いつの間にか、百合子の寝室には、皮肉のように、あの頃のように本が積まれるようになっていた。

「タケキリさん。今日は少し気分がええんですよ」

「そりゃあええことですねえ。今日はお手紙のお土産がありましたよ」

 白かった百合子の頬に血色が戻ってくる。少女のように手を伸ばしてくる百合子に笑いながら、タケキリは白い封筒を差し出す。まるでほの暗い夜道に明りが灯るような笑顔が、タケキリを安堵させる。

 しかし、いそいそと手紙に目を通した百合子の手が僅かに震え始めたのを見たとき、タケキリは目を見開いた。いつもなら、白い便箋に綴られた文字を眺めているだけで、百合子は朗らかに笑うのだ。手紙を読み終えたあとは、その内容をまるで友人に話すような気安さで教えてくれる。タケキリは頷いて、彼女の言葉を聞きながら、遠くなった記憶の中で、檻の中から見上げたハルや清司を思い浮かべる。いつもと様子の違う百合子を見つめていると、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出てきて、タケキリはぎょっとした。堪えるように歯噛みして、それでも長い睫毛を濡らすほどに、頬に伝っていく。それは、タケキリが初めて見た百合子の涙だった。

「どないしはったんです?」と、タケキリが慌ててベッドに手を下ろした。

 次第に百合子は放心したように動かなくなり、丸い瞳を開いたままボロボロ、と泣いている。膝を乗せるとベッドが揺れたが、気に留めることもなくタケキリは、百合子の手の中にあった手紙を奪った。

 いつもなら、ハルの柔く丸い字が綴られている。今日の手紙も変わりなかった。

 いつもなら、大阪で世話になっているという清司の兄夫婦や、小説の成果、ご近所で仲の良い奥さんのことが書かれている。今日の手紙は、それが違った。

 読めるようになった人間の文字を、一匹の毛玉が眺めていく。読み取れる言葉の意味を瞬時に理解したタケキリは、眉を寄せていた。

『百合子さん――

 いつもお手紙ありがとう。貴女から届くお手紙だけが、いつもわたしの支えになっています。貴女がいない毎日に、私はどうしても涙を止めることが出来ないでいるの。でも、どうかお許し下さい。貴女の犠牲の上に幸福になるはずだったわたしが、こんなにもめそめそしていてはいけないと分かっているのに、わたしはいつも何も上手に出来ないのだから。

 思えば、あの時百合子さんはわたしのためにご縁談をお決めになったのだと、わたしが気づいたのは、貴女が二条に移ってからでした。百合子さんはきっと、わたしの清司さんへの気持ちに気づいていらっしゃったに違いないのだと、愚鈍はわたしは気づくことが出来なかった。わたしは死んでお詫びをしなければならなかったはずなのに、そんなことをしてしまったら貴女は本当に赦してくれなくなるような気がして、知らないふりをしてしまった。本当にごめんなさい。貴女がこんなにも心を尽くしてくれたというのに、わたしは清司さんを支えきることが出来ないかもしれない。

 清司さんが二度目の自害をなさってしまいました。一度目のときは、百合子さんにはどうしてもお話出来なかったけれど、今回のことはきちんとお話しなければならないと、このお手紙を書いています。あんなにも素敵だった清司さんの作家人生は、近頃まったく上手くいかなくなってしまいました。毎日毎日、あんなに紙に向かってらっしゃるのに、何も書けなくなってしまいました。わたしには、清司さんのことがわかりません。難しいことが分からなくて、百合子さんのように清司さんがお話することができなくなってしまった。同じ家にいるのに、わたしたちはまるで一人きりのように暮らしています。

 百合子さん、わたしは近頃あの頃が懐かしくて仕方なくなってしまいました。

 貴女がいて、清司さんがいて、お二人と一緒にゆらゆらと歩いていた日々が、わたしとって幸福だったのかもしれません。

 本当は大阪にだって来たくなかった。だけれど、お義兄さん達を頼れなければ、わたしたちはやっていけなかった。貴女のいる京都に帰りたい。清司さんの怪我が治ったら……いつか必ず、貴女も元へ清司さんを連れて帰ります。

 だから、めそめそしたお手紙を書いてしまうわたしを、どうか赦して下さい――』

 不幸と悲痛を綴る言葉の羅列に、タケキリは知らずのうちに便箋を握り締めていた。

 正や百合子に出会った頃のタケキリには、分からなかったことが理解出来る。人の営みを面白可笑しいと駆け回り、聞く耳を持って眺めてきたからだろう。百合子がきっと悲しんでいる。人間は、幸福を願った相手が不幸になると、途端に悲しくなる。不幸の競争をするくせに、群れてばかりの人間は、野生の狸には持ち合わせていない繋がりを、大層大事に胸の中にしまい込んでいる。そういうことが、タケキリには理解が出来るようになった。そうして、恩人や友人や家族が苦しんでいることへの苦痛を思い浮かべることが出来るようになっていた。それが毛玉にはない、人間の面白可笑しさでもある。

 手のひらに込めた力を緩めて、それからようやく百合子が泣いていることを思い出し、ベッドへと視線を向ける。肺を痛めている百合子が、ヒュウヒュウと、なんとか呼吸を繰り返しながら涙を拭おうとしている。

 タケキリは、そっと百合子の背を擦る。

 そうしてそっと百合子の横顔を見つめると、いつも整えられたように美しい顔が歪んでいる。額に刻まれていく皺や、歯を食いしばって乾いていく唇は、普段の百合子では思いつかないほどに見苦しい姿だった。それなのに、その大きな瞳から落ちてくる涙だけは、透き通るビー玉のように美しく、清新としていて、タケキリの双眼に焼きついて目を離すことが出来なかった。

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