第7話

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「タケキリさんの方言は、練習されたものだったんですね」

 明子は何本目かの煙草を指に挟みながら、驚いたような顔をした。何杯目か分からなくなった紅茶と、幾つ食べたのか数えていなかったお茶請けが、変わらずにカウンターの上に置いてある。長い話を聞いているはずなのに、不思議と退屈も、座りっぱなしの苦痛もなく、小気味の良い物語を耳にしているような感覚で、明子はすっかりバーに馴染んでしまっていた。

 まだ人間として現代を生きている明子には、人とは異なる領分に立っている彼らの話は、いつも不可思議で耳を傾けてしまうからかもしれない。生命を持ち合わせていない彼らの永遠の一端は、まだ二十数年しか世の中を知らない明子にとっては、時代性があまりにも違っていて、遠くて儚い。もしかしたら、もっと気の利いた言葉をかけるべきなのかもしれないが、それは野暮のような気がした。

 この街で過去を語る彼らは、誰もが充足した面持ちで佇んでいる。かけるべき言葉すら、本当は存在しないかのように思えた。

「ええ、そうなんですよ。訛りはおもろいもんで、ずうっと使ってるのに、なかなか馴染んでくれへんのです」

「そんな。全然不自然じゃないですよ」

「いやいや、地元人にはエセ京都弁って言われるんですよ」

 柔和な笑みを浮かべる婦人の姿をしているタケキリは、表情と同じ柔い口調で言った。

 明子が次の言葉を発しようと唇を動かそうとした時、鞄の中に入れたままの携帯機器が、連絡がきたぞ、と音を鳴らす。遮られたような心持ちになりながら、タケキリを見上げると、美し婦人は「どうぞ」と柔和に笑う。小さく会釈をして礼を伝えてから、手の中のディスプレイを見下ろすと、出雲にいるだろう恋人からの連絡だった。

『タケキリには無事に会えたようで何よりだよ。こちらは変わりなく、相変わらず酒に塗れている』

 まるで見えているかのような文面に、明子はくすりと笑った。事実として、オサキは遠い出雲から、明子を眺めているのだろう。人と領分が異なる恋人は、カミサマを名乗り出雲へと出かけている。その瞳は千里を見渡していて、一歩を踏み出すだけで、その気になればこの街に帰ってくることも容易い。心配性のオサキは、きっと神無月の京都にやってくる明子を、宴会の片隅で見守ってくれていたに違いない。それは裏を返せば、明子の日常をほとんど丸裸に出来てしまうのだが、明子には、見張られているという感覚も、嫌悪感もなかった。持ち合わせた力を自由自在に操るオサキは、カミサマを名乗りながらも、明子の恋人だ。数ヶ月前まで、まだ人間として生きていた明子の常識を、オサキは壊したりはしないだろうと、信頼している。

 今回が、たまたま一人旅行であるからと、身を案じていただけなのが、文面から伝わってくるのも不思議だった。

『タケキリさんによくしてもらっています』

『今の彼は可笑しな格好をしているだろう? それは百合子という女性だよ』

 明子は意地悪そうなオサキの薄笑いを思い浮かべながら、ハッとカウンターの向こうを見上げる。恋人には、どこまで見えていたのだろう。脳内で疑問を浮かべると、返事をしていないのに、新しい短い文面が画面の中に浮き上がる。

『過去の俺を、勝手に喋ってるんだ。小さな仕返しだよ』

『オサキさん。意地が悪いですよ』

『明子を独占しているのだから、これぐらいは許されるよ。それに、特段隠しているわけでもない』

 出雲のどこかで、長寿の狐がにんまりと、蜜のような笑みを浮かべている姿が見えたような気がした。悪戯好きの恋人は、慣れない携帯機器を片手に満足そうに酒を飲んでいるのだろう。人間のあれこれに関しては、多くの譲歩を容易く選択してくれるオサキは、この街のこととなると、途端に意地が悪くなる。まるで子供のようだと、明子は嘆息した。

「オサキはんですか?」カウンターの向こうのタケキリは明子と視線を合わせたまま、「どうせ、変なこと言いはったんでしょう? あの方は、拗ねると意地が悪いですから」と、楽しげに笑った。

「そうなんですけど……」

 明子は、歯切れも悪く思考する。

 意地の悪いオサキの寄越した情報は、確かに興味を唆るものでもあったが、なんだか聞いてはいけないような気もしたからだ。複雑で繊細な壊れ物のような思い出に、無理に触れてしまうようで、明子はモゴモゴと考える。

 カウンターの向こうにいる婦人姿のタケキリを見つめながら、物語の中に出てきた京都弁の美しい女性を思い描く。艶やかな髪が頬にかかり、ワンピースから伸びる細くも柔らかそうな白い手足が健康的に艶やかで、どこか活発なようでいて慎ましい面影は、浮かべる柔らかな笑みによく見合う。

 過去に一匹の狸が出会った女性は、現在とは異なる時代を生きた人間だった。その事実だけを呑み込むと、明子の胸中に少しばかりの寂しさが、秋風のように通り過ぎていく。それは、いずれ明子にも訪れるだろう寂寥の想いだ。生から死への一本径を抜け出してしまった者に、等しく訪れるひと時の孤独は、想像するだけで恐ろして、悲しくもある。それでも、と選んだを道を、明子は後悔することはなくとも、きっとその瞬間だけは孤独感に満ちて泣いてしまうのかもしれない、と覚悟している。

 タケキリは明子の視線の意味さえも読み取ってしまうようだった。美しい笑みを浮かべていた眉が、少しだけ寂しそうに下がり、小さく頷いて口火を切る。

「お察しの通り、これは百合子さんの姿ですよ」

「そうなんですね……」

「形見のようなもんなんです。あの人が死んだんは、今のような秋の深い神無月やったもんですから」

「追悼、ですか?」

 言葉を選ぶ明子に対して、オサキの言ったようにタケキリは怒っている様子はない。いつものように、カウンターの向こうから客との会話を楽しんでいるマスターのように、軽快な口調だ。それでも、瞬間的に細められる双眼には、鈍い寂しさの灯火と過去を懐かしむ色が浮かんでいた。

「それもありますけど。約束なんですよ」

 タクシー乗り場の会話を、明子が思い出したのは、数秒後のことだった。


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