第6話

 百合子の元に、ハルと清司が婚姻したとの知らせが舞い込んできたのは、タケキリが人成を得てからすぐのことだった。

 オサキに師事して学んで暫くは、人間の姿を模しているはずなのに顔だけが狸のままであったり、毛に覆われたまま二本足で立つ怪物が出来上がったりした。どうにも上手くいかない期間が続き、タケキリが失敗を繰り返すたびに、くつくつ、と笑うオサキに連れられて、京都四條南座に足を向けるようになった。人間という見本を瞼の裏に焼き付けるためだ。

 人間というのは、実にへんてこなものだった。果実を砕く程の顎もなく、毛で覆われていない皮膚は大気を直接感じ取り、毛皮の代わりに衣服を必要とする。特にへんてこなのは、二足歩行であるということだ。走ることに適していない足の数は、ノッポな視線を有する割に不安定で、まるで案山子のように頼りない。バランス感覚が難しくて、タケキリは狸の姿であった頃よりも毛玉のように転がって、よく尻餅をつく羽目になった。

 しかし、へんてこな人間の姿に化けられるようになり、タケキリは当初の目的である百合子と友人になることが出来た。南座の一席で、ひょんなことから百合子の夫である正が声をかけてきたのだ。正は見るからに裕福そうな装いを好む鼻持ちならない男であったが、慎ましい格好のタケキリが、頻繁に南座に足を運ぶのを不思議がっていたらしい。

 タケキリは「お前も歌舞伎を見ると良い」というオサキの言葉に従っていただけで、特別に歌舞伎を好んでいたわけではなかったが、澄まし顔で気安く声をかけてくる正に「へえへえ」と頷いてばかりいたら、何故だか正の邸宅に招かれるようになっていた。

 正は、タケキリを苦学生だと思い込んでいるらしかった。まるで書生のようなボロの着物と袴は、動きやすいからと選んで化けた衣服であったが、いざ観劇と洒落込むと、大抵の観客たちは美しい絹や凝った刺繍の着物を着込んでいたし、男たちは洋装が基本であるようで、こぞって洒落たシャツに袖を通していた。

 正は気前の良い男であったものの、随分といい加減で、南座で出会う時には、必ず商談相手だという異なる女性を連れていた。しかし思議なことに、百合子の姿は一度も見なかった。そうして正は、タケキリに何枚かの紙幣を握らせると「内緒にしてくれ」と、悪気もなく笑みを浮かべるのだった。

 タケキリが「へえへえ」と頷くたびに正は気を良くして、遂には正の仲介がなくとも、彼らの巣に入り込むことが出来るようになった。ボロを着ていたのも良かったのだろう。品位の欠片もないタケキリと、美しい商家の娘である百合子が、どうこうなるということを、正は想像もしていないらしい。事実として、狸と人間が色恋にどうこう出来るわけもないのだから、正の見立ては概ね正しかったといえるだろう。

 百合子は勤勉で瑕疵がない夫人と成長していた。タケキリが唐突に晩酌に上がり込んでも、嫌な顔一つせず、せっせと働き夕餉を出してくる。食べ終えた食器を片付けて、暖炉の前で正が晩酌を始めると、自然と近くの床に座り針仕事を始め、正やタケキリの言葉に頷いて見せた。快活に野山にやってきたお嬢さんの姿は影に潜み、実家でのめり込んでいたフランス文学の書物は消え失せていて、トルストイですら見かけることは出来なかった。微笑を浮かべ、所作の美しい姿だけが、まるで形取られて、百合子の姿をして佇んでいるようにすら見えた。

 正の信用を得たタケキリは、事あるごとに百合子の家を訪れた。夕刻の陽が沈むまでに、二条に趣いて、野山で採れた果実や山深い川で取った新鮮な魚を届けた。自身が狸であることを秘匿したままのタケキリは、とにかくも百合子に命を救われた礼がしたかったのだ。

「毎日、こんなにもろうてしもうてええん?」と、百合子は山菜や茸の入った籠を受け取って、申し訳なさそうに目を細めている。

 タケキリの根城にしている山の中には、秋の実りが息づいている。少しばかり人間に分けたところで、どうということはないだろう。最近では、人間の匂いをプンプンさせて帰ってくるタケキリを睨む野生の仲間も少なくなった。化術を学んでからというもの、どうやらタケキリは山の中で、狸としての格を上げてしまったようだ。「可笑しな狸」と言われることはあっても、一つの摂理を飛び越えたとして、声高に罵られることはなくなった。

「気にしないで下さい。正様にも、百合子さんにもお世話になっていますから」

「また野山に出掛けはったんです?」

「ええ、今年は良い塩梅で、実りが多そうです。あれなら冬も越せるでしょう」

 いつものように居間に通されたタケキリは、適当に言葉を選びながら、既に定位置となっているローテーブルの前に陣取る。正は歌舞伎を好む男であったが、その他にも家財には拘りがあるようで、百合子の邸宅には珍しい海外の家具が並んでいた。フランスを真似た西窓からは陽射しがよく入り込み、モロッコ革の長椅子が暖炉の前に置いてある。文明開化を目一杯に散りばめた豪奢な室内は、タケキリにとって、やはり珍しいものだった。四角く長い漆塗りのちゃぶ台が、テーブルと呼ばれていることも、百合子に教わったのだ。

 百合子はいつも、このローテーブルの前で針仕事をしているらしかった。彼女のための小さな椅子は、この部屋では随分と控えめだ。タケキリが訪れる頃には、尻を落ち着ける人のいない椅子の上に、今日は真っ白な書簡箋が置いてあった。片付けの得意な百合子にしては珍しいと、タケキリはなんとなく、その手紙を見つめてしまう。

「ああ、それは幼馴染が婚約したいうて、連絡をくれはったんですよ」

「ご学友ですか?」

「ええ、ハルと清司はん言うんですけど、女子大学を出るまでは、仲良うしてたんです。それが式を挙げる言うもんですから……」

 籠の中の実りを取り分けながら、百合子は嬉しそうな、しかしどこか寂しそうな声で言った。それは、百合子が自身の結婚を、一匹の狸に話していた口調とよく似ている。

 タケキリは記憶の中に、檻の中から見上げていた学生帽の青年と、よく百合子について回って、ふにゃふにゃと笑っていた少女の姿を描いていた。あの頃の百合子が予言した通りに、ハルと清司は丸くすっぽりと収まったらしい。

 百合子は、二人の式には行かないと決めたようだった。二人は大阪にある清司の従兄弟に世話になるようで、正の仕事の状況や、夫を持つ夫人の身の上としての遠慮もある。

「でもせっかくのお祝い事じゃないのですか? 正様だって、そんなことで目くじらを立てたりは……」

「せやねえ。でも、ええの。私がちゃあんと二人を祝えるか分からへんもの」

 その言葉が百合子の口から出てきてしまったことに、驚いたのは百合子自身だった。彼女は勤勉に動かしていた手を止めて、信じられないような顔をしてタケキリを見た。長い睫毛の乗った黒々とした丸い瞳が、これでもかというほどに開かれて、半開きに開いた唇がハクハク、と続けるべき言葉を探している。そうして、百合子は恥じ入るように笑みを浮かべた。

「嫌やわあ……なんでやろう。タケキリさんと話してると、いらんこともポロポロ出てしまうんやもの」

 気取った夫人のように努めて明るい声を出しながら、百合子の手が再び山菜を摘まみ上げる。

「実のところ、私は話しやすいと、南座のあたりでは好評を頂いてるんです。それに口も堅い」

 これもまた嘘ではなかった。不思議なことに出会う人間たちは、タケキリを相手にすると、するすると秘密を喋っていくのだ。例えば、先日南座で隣の席にいたご婦人は、夫に内緒でへそくりをしていること、パイプを咥えていた大学教授がとある女学生に恋をしていること。正が、百合子以外の夫人の腰を抱いていたり、祇園に出入りしていることも、本人の口から漏れ出した秘匿だった。

「なんやの、それ。可笑しな人やねえ」

「可笑しくて変なものは良いものです。それは未知であり、こちらがそっぽ向かない限りは、新鮮で面白い」

 タケキリは胸を張りながら、奇妙な仮面をつけたオサキを思い浮かべていた。不可思議で面白い山の主は、一匹の狸には到底思いつかない考えを持ち合わせ、まるでこの世の中はおもちゃだ、と言いたげに薄く笑っている。

 得意げな口調のタケキリを、百合子はくすくすと上品に笑った。それはまるで、ハルや清春と話していた学生の頃の百合子の笑顔でもあった。瑞々しくて、若々しい。遠のくことのない気品の中に、無邪気さが溢れている。檻の中から眺めていた百合子の笑みを見たのは、久しいことだった。しかし、百合子はあの頃から、罪のない笑みを浮かべたあとに、何もかもを悟ってしまったような、冷淡さを持って目を細めるのだ。縁側に座って空を眺めている時のように、じっと何かを見据える視線が、はじめてタケキリを捉えた。

「正さんのことも、面白いん?」と、百合子は言った。全てを知っていると、澄ました視線は鋭くあるのに、責めてはいない。

「百合子さんは、何もかも分かってらっしゃるんですね」

「だって、私のことは一回も歌舞伎に誘ってくれへんもの」

 ほう、と溜息を吐き出した百合子の眉が下がった理由を、タケキリを汲み取ることが出来なかった。憂いた百合子に、タケキリはぼんやりとした疑問を浮かべている。

「それは百合子さんにとって、悲しいことなんですか?」

 狸は孤独を感じないわけではなかったが、群れで生きる者もいれば、孤高の狸となって一匹で上手くやっていく者もいる。タケキリも、家族という群れと離れて、伏見を寝座にしてからは一匹であったが、悲しさも、寂しさも、特に感じてはいなかった。故郷の母狸は泣いていたかもしれないが、きっと兄狸達がなんとかしているだろう。それに亀岡で竹を鳴らしていた頃よりも、人里に近くある伏見は面白い。面白すぎて、ついには人間に化けるようになってしまった。

 タケキリの素直な双眼が不思議そうに丸まると、今度は百合子の瞳がきょとんと静止する。二人は視線を交わしたまま、何度か瞬きを繰り返した。まるで睨めっこをする子供のように見つめ合っていると、百合子は小さく息吹いて、唇で弧を描く。

「ほんまに可笑しな人やねえ。ここは私が同情されるとこやないの」

 文句を言いながらも、百合子の瞳はまるで猫が笑っているように細まっていき、心底可笑しいと肩を揺らしている。

「これは申し訳ない。上手に汲み取れませんでした」

「ええのええの。ホンマは、そんなに悲しんではないんよ」

「そうなんですか?」

「元から愛のある結婚やなかったし、正さんは調子のええ人やけど、ちゃあんとお家の為に働ける人やもの。ただ、ちょっと寂しなってしもうただけ」

 笑いながら、百合子は言った。

「寂しいんですか?」

「ハルと清司はんは結婚して大阪に行きはるんやって。私はずっとここ。ここで、正はんや、時々帰ってくるやろうハルと清司はんを待ってる。大学を卒業してから、ちょっとずつ色んなものが遠なっていくみたいで……」

 百合子の伏した眼差しが床を見つめていた。

 一匹で生きていけるタケキリは、独りが寂しいと語る百合子の胸中を掬い上げることが出来ない。どんなに共感を試しても、一匹の毛玉に過ぎないタケキリには、人間の考えなど分からない。だから、百合子は美しいのだろう。何年経っても変わらずに、誰かを想い続ける百合子は、楚々とした佇まいをしているのだろう。野生に帰してしまえば、生きていけなさそうな細腕も、山を駆け上がるには脆弱な足も、ここにあると健かで美麗な夫人となる。

 涙を零すわけでもなく、床を見つめる百合子にタケキリは、覚えたばかりの人間の言葉を探していた。

「私は、寂しさというものは、よく分からないのですが」

「えっ?」

「百合子さんのイランことも、きっと私なら聞けると思うんです。なにせ、好評の聞き耳と閉じ口ですから」

 聞いてもらうだけで楽になるのだ、と南座で出会った誰かが言っていた。人間は、話を聞くことすら苦しくなってしまうそうだ。狸と違って同調が激しいからだろうと、タケキリは思っていた。基本群れで生きる人間は、個人の想いを抱えているくせに、同じ人間の感情に触れると、酷く共鳴するのだ。それでも生存戦力なのかもしれないが、誰かが妻の悪口を言い出すと、誰かもまた同調し競い合う。誰かが不幸話を肴にし始めると、負けるものかと苦労話が口を開き、感染病のように、いつの間にか不幸と苦労が蔓延している。

 その点において、狸は実に屈強だ。

 何せ同調という生存戦略が存在しない。狸は群れるのも、一匹で生きていくのも自由であるのだから、気に食わなければ孤独を愛することも出来るし、それこそが面白いのだと胸を張る。狸の中には、孤独を突き詰め過ぎて、物言わぬ石に何十年も化けたまま偉業となった毛玉もいる。何よりも、毛玉の心配事は、いつも冬を越せるのか、生存という名の子孫を残せるか、そうして面白いかどうかである。愉快さを競うことには長けているが、苦悩の競争はしたことがない。

 タケキリがまた胸を張ると、百合子はまた花のように笑った。

「頼もしいことやわあ。それと、イランことちゃうよ。いらんこと」

「イランコト?」

「いらんこと。関西人はちょっと厳しいんよ?」

 イントネーションを繰り返す百合子が、くすくすと笑う。百合子の話す言葉は、この街に住む人間にとっては普遍のようであったが、南座で出会う様々な人間達を思い出すと、少しだけ独特な響きのように聞こえる。観劇に来る客たちの中には、大阪や江戸からやってくる者もいるからかもしれない。人間は土地によって、言葉まで変わるのだ。

「いらんこと。なるほど、勉強します」

 タケキリは方言も、また面白可笑しいものだと頷いた。

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