第5話

 百合子の婚姻式は、無事に卒業と共に行われた。和洋の取り入れられた美しい着物は百合子に良く似合い、婿養子として夫となる正は、その晴れ姿こそが自身の財となり、幸福であることを確信したに違いなかった。二人は両親より与えられた二条の邸宅に住まうことになり、まずは夫婦らしく、手を取り合った。そうして家名を継ぐに相応しくなるために、正は百合子の家の商いの手伝いから始めることとなった。

 伏見山の一角に住処を構えたタケキリは、ちょくちょくと二条の足を向かわせたが、百合子と言葉を交わすどころか、顔を合わせることはなかった。もとより一匹の毛玉であるタケキリには、恩人の姿を盗み見ることぐらいしか思いつかなかったからだ。自身の傷を癒してくれた人間が、健やかに過ごしているかどうかを確認する日々は、狸には随分と面白いものでもあった。めまぐるしい発展を遂げていく人間の街は、木々の深い山奥に住むタケキリには万華鏡のように色形を変えていく不可思議さがあり、野生の狸として人間の営みなど何一つ知らなかったタケキリは、全てが真新しいものに見えた。

 新居へと移った百合子は、自慢の勉学を手放して、代わりに針仕事を覚えている。最良の妻として笑みを浮かべ、恭しく夫を迎えているようだった。健やかな頬の丸みは変わらなかったが、夫が仕事へと出かけると、家事の合間に縁側に座り込み、ぼんやりと塀の向こうを見つめることが多くなった。

「ほう、アレがお前の目当てか?」

 人知れずの塀の上で百合子を眺めていたタケキリは、ひっそりとした声をかけられて飛び上がり、毛を逆立てる。毛に覆われた顔を上げると、隣にはいつの間にかオサキがいた。

「こ、これはこれは、オサキ様ではありませんか。驚かさないで下さい」

「野生の狸のクセに無用心だなあ。アレが件の、お前に匂いをつけた人間か?」

「ええ。左様でございます。あの方が私を助けてくれたお嬢さんです」

 くい、と顎で庭に沿った縁側に佇む百合子を指され、タケキリは大きく頷いた。

 一匹の狸とへんてこな仮面をつけた男性が人様の塀の上で言葉を交わしているのは、大変可笑しなものであるに違いなかったが、不思議なことに通りには人が通る気配もない。冷や汗をかいていたタケキリは、それもオサキのへんてこな何かなのだろう、と自身を納得させた。何せ相手は自負がなくとも山の主たる御人だ。不敬があっては、また山を追われることになるかもしれない。まるで割れた硝子片を扱うように、慎重な心持ちが必要だった。

「どうして見ているだけなんだ? 恩人ならば、礼の一つでもすれば良いだろう」

「何を仰る。私は一介の毛玉に過ぎませんから、今度こそ鍋になってしまいます」

「アレはお前を鍋にするのか?」

「彼女でなくとも、他の人間に捕まれば、私は鍋か剥製行きですよ」

 人間と野生の獣は交じらないのが掟です、とタケキリが付け加えると、オサキは「ふうん」と興味深そうに頷いた。タケキリが伏見の山にやってきてから驚いたのは、山の主である白銀の狐が聞き及んでいたよりも、随分と変わり者であるということだった。

 オサキは、山の主と呼ばれているにも関わらず、よくよくと人間の街に人間の姿に化けて出掛けていく。朝と夜には、住処である山奥からひっそりと眼下に広がる世界を見下ろしているが、山中で出会うことはほとんどない。どうやら本人の宣言通りに、山の主たる自負は持ち合わせていないらしく、奇妙なお面で顔を隠したまま四条や烏丸を闊歩したり、時々鞍馬や嵐山まで足を伸ばし、人間を驚かせているらしい。山から一歩も動かずにどっしりと構えて、世界に睨んでいる主しか見たことのなかったタケキリにとって、オサキという山の主は不可思議そのものだった。

 時々顔合わせたタケキリが、そのことをオサキに問いかけると「わざわざ居座っている必要もないからなあ。俺には、大抵のことが見えている」そんなふうに唇で弧を描くものだった。

 オサキという狐である山の主が、過去も未来すらも見渡す千里眼の持ち主であることをタケキリが知ったのは、伏見を住処にして暫く経ってからのことだ。人間も不可思議だったが、オサキはへんてこだ。伏見にやってきてから、タケキリは不可思議ばかりを目にしていることを、随分と面白がっている。

「オサキ様は人間がお好きなんですか?」

「いや? 特に好ましくも疎ましくもない」

 タケキリの疑問に対し、仮面が小首を傾げた。

「人間のお姿を模しておられるから、てっきりお好きなものかと」

「アレらは、見目が同じ者には、とんと疎い。この方が何かと都合が良くて、脅かし甲斐がある」

「左様ですか」

 くつくつ、と脅かされた人間の顔でも思い出しているのか、薄い笑みを描いていたオサキの唇は更にねじ曲がり、肩を揺らしている。なんともへんてこな趣味なのだろう、とタケキリは少しばかり呆れていた。暇を持て余した子狸のようだとすら思う。伏見山の主は、随分と面白可笑しく時節を巡らせているらしい。そうして、オサキをへんてこだと感じることが、もう別の領分に立っているのだと、タケキリは知っている。大抵のことが見えてしまうオサキは、退屈を持て余している。

 感心するようにつぶらな狸の双眼が、山の主を見上げていると、オサキは笑みを浮かべたまま、思いついたように口許を動かした。

「アレに近づきたいのなら、お前も化ければ良いだろう? 狸なのだから」

 妙案だと言いたげに、狐面が笑ったように見えた。しかし、思ってもなかった提案に、タケキリは嘆息する。

「狸が化術を得意としていたなんて、いつの話でございますか。それこそ、今や長寿狸の妖術の類です」

「おや、そうなのか。狐狸は皆が化けると思っていた」

「昔はそうでしたが、今は野生が隔離されつつある時代ですから。啓蒙する者も途絶えたとか」

 狸は化けて人を驚かし、山の恵みを頂くものだった。狐と渡り合ったりして、山を賭けての大勝負も珍しくはなかったという。

 しかし、今やそれも伝説だ。どこぞの著名な狸は未だその術を持っているとも言われるが、それはもう狸ではない。化けることの出来る狸というものは、今の時代では化狸であって、妖怪の類と言えるだろう。狸は狸である。毛深く丸く、つぶらな瞳を持っていたとしても、自然の摂理に従って、与えられた姿で生きる者である。毛に覆われた四本の足で山を駆け、これまた毛に覆われた尾を振り回す。丸いだけが取り柄であるからこそ、群れることも孤独を愛することも厭わずに、コロコロと転がっていく。

 現在の狸の在り方を、丁寧な口調でオサキに説明する。隣に佇む山の主は、うんうんと小気味良く頷いてから、にまにまと唇で弧を描いた。そうして、人間と同じ形をした手のひらで、タケキリの頭を小さく叩く。

「なら俺が、お前を化けられるようにしてやろう。なに、化術一つでこちら側へ来られるわけもないのだから、安心して学べば良い」

「……はい?」

「ああ、そうだ。人に化けるなら名がいるだろう? お前は亀岡の狸だったな。あそこの狸は竹を切って人間を驚かすと聞いている」

「よくご存知で」

 いよいよ話が絡まってきた予感を感じながらも、名前に頓着のない狸は小首を傾げるしかない。

「そうだな。タケキリと名乗っておけば良い。なに、名など、どうせ俺達には無用の産物だ」

「オサキ様らしい、へんてこな名前ですねえ」

 名案だ、と今度こそ狐面が、その下で曲がる唇と同じように、ほくそ笑んだような気がする。とにかくも、その日から一匹の毛玉は、タケキリという名を今の今まで名乗り続けている。

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