第4話

 後ろ足の傷が癒えた頃になって、百合子は予告通りにタケキリを山へと連れて行く。タケキリは冬の間を百合子の元で過ごした。季節はとうに春を迎え、野山に敷き詰められていた枯葉は自然と土に還っていき、また新しい濃緑の芽が顔を出している。タケキリは寒さに震えることもなく、苦もなく食事にありつける生活にも満足していたが、久しく踏んでいない土の感触は心地良いものだった。

 冬の間に、百合子の縁談は恙無く進んだようだった。夫となる男との顔合わせも、両家による婚姻式の予定も、全ては両親の望む答えに首を縦に振り、女子大学を卒業すると共に、百合子は二条の新しい家へと引っ越すらしい。夫の名は正といい、商家の次男坊で婿養子として家督を継ぐことも決まっていた。百合子が手にするだろうと予想されていた全てが、正のものとなるのだろうことは、まだ毛玉であったタケキリにも十分に考えつくものだった。

「なんや寂しくなってしまうけど、長生きするんやで。もう人間に近づいたらあきませんよ」

 百合子は山道を踏みしめながら檻の閂を抜いて言った。そうであることが自然なことであるように、タケキリも何も不思議があるわけではなく駆け出して、再び野生へと帰ることになった。目指すは亀岡の竹藪だ。人間との生活も面白可笑しいものだったが、タケキリにも待っているだろう家族がいた。

 こうして、一匹と一人の出会いと別れはごく自然な形で終わりを迎えた。久しく野山を駆け回る開放感に身を委ねていたタケキリは、確かにそう思っていた。

 しかし、世の中には様々な掟があるものだ。人間社会のルールや法があるのなら、狸にも決まりごとが存在する。冬の間を人間と過ごしたタケキリが、故郷である亀岡の山に受け入れられることはなかった。はるばると帰ってきた一匹の狸を待っていたのは、「人の匂いをさせている」と神妙な顔をする山の長で、幾つかの弁解と、群れを形成していた家族達の抗議があっても、亀岡では、野生を生きる動物と、社会を構築する人間が交わることは前例のないことだった。何より人間は狸を食い、鹿を食い、野山の木々を奪っていく。絆されてしまっては山全体に関わる問題にもなりかねず、結果としてタケキリは故郷を追われる立場となった。母は酷く落ち込んでいたが、それも生きる者のルールだ。幸いにも雑食な狸であるから、二枚の鉄に足を掴まれた時よりも危機感は少ない。

「伏見訪ねるといい。あそこは人に近い山だからか、主は随分と変わり者で、人間がお好きだと聞く」

「鞍馬の天狗様の元には烏が集っているし、比叡も縄張りにうるさいらしい。行くなら伏見だろう」

「なに、お前は狸らしからぬ器用さがあるから、どこでもやっていけるさ」

 泣いている母を宥めながら、タケキリの兄弟達は口を揃えて言った。タケキリは強く頷いて、今まで育ててくれた母と兄達に礼を述べてから、山の主の言うとおりに、再び旅に出ることになったという。

 語り口調の思い出話に夢中になりすぎて、既に冷めてしまった紅茶を明子が啜る。空いた手には、火をつけたばかりの煙草が薄い紫の雲を立ち上らせ、ふわふわと天井に滞留していた。そんな明子を眺めるタケキリは、懐かしそうに目を細めている。

「狸の世界も厳しいんですね……」明子はほう、と煙を吐き出して小さく呟いた。

「野生のもんは、野生で守らなあかんもんがありますから」

「寂しくはなかったですか?」

「どうでしょうなあ。群れに嫌われたわけやないですし、それに私は亀岡のぬしさんの睨んだ通りに、人間に興味がありましたから。どのみちあのまま故郷にはおらんかったでしょう」

「百合子さんですか?」

「ええ。不思議とお顔が忘れられへんようになってました」

 まるで恥じ入る好青年のような顔でタケキリは柔和に笑みを浮かべる。造りは女性そのものであるはずなのに、見慣れたマスターの姿のタケキリがいるようでいて、見たことのない表情でもある。カウンターの向こうのバーのマスターであるタケキリしか知らない明子には、それも新しい発見の一つだった。

 珍しいものを見た心持ちで煙草を吸っていると、タケキリは思い出したように再び語り出す。

「せや、この頃にオサキはんに初めて会うたんですよ」

「変わり者で人間好きの伏見の主さん、ですね」

「当たりです。兄達の言うてたように、オサキはんは、あっさりと私を山に迎えて下さりました」

 明子の恋人であるオサキは、その頃から人間の姿を気に入っていて、可笑しな仮面をつけていたという。タケキリが丸い毛玉のままでオサキを見上げた時は、まるで当時の大学生のような格好をしていたそうだ。

 兄達の言ったとおり、オサキは一匹の狸を伏見の山に受け入れることを快諾してくれた。不思議なことにオサキは伏見の山の入口で、ぼんやりと団子を頬張っている最中だった。外套を肩にかけ、当時流行していたバンカラスタイルの気取っている。そうして、顔半分を隠す狐面をつけてのったりと佇んでは、時々山を登ろうと訪れた人間達が驚いて振り向くのを、こつこつ、と肩を揺らして笑っていた。

 タケキリは、自身が山を追い出された経緯を隠すことなく丁寧に語ったが、オサキはどうにも半分ほどは聞いていないように思えたし、特に興味もなさそうだと感じていた。ただ膝先で鳴き喚く狸を面白がるように、オサキは口元に笑みを浮かべ「好きにすればいい」と言いのける。

 あまりにもあっさりと許可が出て待ったことに戸惑ったのは、タケキリの方だ。まだ野生の狸であったタケキリは、狼狽しながらもつぶらな瞳でオサキを見上げていた。

「宜しいのですか? 自分で言うのもなんですが、私は人間の匂いをつけた狸でございます」

「可笑しなことを言う狸だなあ。人間の匂いなんて、そこらでしているだろう?」

「しかし、私は野生の狸で……」

「亀岡の主は気難しいからなあ。災難だったと思えば良い。それに飼われた狸よりも野生の方が多いだろう。俺はただの土地に過ぎないのだから、いちいち許可など必要もない」

「は?」

 まるでタケキリの方が可笑しなことを言っているのだ、というような面持ちで、オサキは小首を傾げている。素っ頓狂な声を上げたタケキリを見下ろしたまま、ほう、と一つ溜息を吐いた。

「土地なんてものは生きてるものが踏みしめるものであって、俺は過ぎいくのを眺めてるだけだ。お前が疫病や火事を持ち込むわけでもなし、一匹の狸が厄災になるわけでもなし、思うままに生きれば良いだろう」

 言い終えてから、オサキは外套の下の着物から煙草を取り出して火をつける。明らかに体を害する匂いが立ち込めて、タケキリの鼻が曲がりそうだった。

「失礼ながら、貴方様は山の主では?」

「俺は、獣でもあるが、この土地そのものでもある。かと思えば、こうして人の真似事もする。主とは、そのへんの妖やら獣やらが勝手に呼んでいるだけだ。まあ、作法として、土地を侵すのならば排除となるが、お前みたいな毛玉に、そんなことが出来るわけもないだろう?」

「それは、まあ。私は不変なく狸でありますから」

「なら気にかけることではないなあ。人間の匂いを嫌うのは、俺ではなくてこの山に先に住んでる者達だろう。そこは生きてる者同士で折り合いをつけると良い」

 オサキが紫煙を吐き出すと、山の奥でガサガサと音がした。それは狐や、狸や、野兎や、猪であって、伏見の山に先に住む者達だった。オサキとは違って、のこのことやってきた新参者を値踏みするような、はたまた警戒するような鋭い眼光で草葉の影から顔を覗かせている。

「ホラ、きたぞ。アレらを上手く言いくるめることだなあ」

 幾つもの視線に怯みかけたタケキリの頭上から、そんな言葉が降ってくる。もう一度見上げると、それは実に不可思議な光景だった。少なくとも、野生の狸であったタケキリには、物珍しい光景として、未だに目に焼き付いている。まだ世の中の領分が曖昧な頃であるはずなのに、オサキは当然のように、しっかりとした線引きを持っていた。それは野生でもなく、人の社会でもない。

 この世の何処にも踏み込んでいないような顔をして、奇抜な格好をした奇妙な男が、ただ煙を吐き出しながらニマニマと笑っていた。

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