第3話
「あの頃は、私もまだ丸い毛玉でした」
その頃のタケキリは、まだ小さな毛玉に過ぎず、母や兄弟と一緒に、亀岡の竹藪の中に住処を構えていた。ふわふわとした毛で世の中を闊歩し、瑞々しい地面を蹴って兄弟とじゃれたりしながら転がって、時々夜な夜な竹藪を鳴らして人間たちに悪戯を仕掛けたりしていた。当時のタケキリには、まだ生死の理がきちんとあって、この世におぎゃあ、と生まれてから、ゆっくりと死へと歩んでいく一匹の毛玉だった。
そんなタケキリが百合子と出会ったのは、夏が過ぎて、生温い空気が抜けていく頃だ。丁度神無月の季節であって、一匹の牡狸として、冬を過ごす番を探す旅に出ていた時だった。亀岡から京都市中に向かって気の合う牝を探していたタケキリは、つい油断をして、枯葉の隙間に仕掛けられた罠に足を取られてしまった。丁度農民の多い土地を横切るところで、当時はまだ狩猟の法などもなかったこともあってか、そういった罠は多かったという。
後ろ足を鉄に掴まれたタケキリは、瞬間的に死を覚悟した。足が動かなくなることも、それが人間の仕掛けた罠だということも、人間が狸を畑を荒らす害獣だと認識していることも、当時からタケキリは知っていた。じくじく、と痛む足が動かないことは、野生の獣にとっては致命的でもあった。引き摺って歩いてみようにも、足を挟んだ二枚の鉄は重く、土の中に埋目られているようで、動かすと非情な痛みが走ってしまう。まだ子も一匹も成していないタケキリは、生命としての役目を果たせないことだけを残念だと感じながらも、仕方ないと諦めて、その場に膝を折ることにした。動かなければ、痛みはそう大きくない。骨さえも砕いているだろう傷のまま逃げることは困難にも感じられた。
このまま頭上を飛んでいる烏達が、自身の死骸を啄きにくるか。それとも、この山に住む大熊の冬の肥やしになってしまうのか。はたまた罠を仕掛けた人間が、ふと様子を見に来て今夜は狸鍋だと小躍りするのか。
どちらにせよ、それもまた自然の一つの流れだ。生死の道は常に一本であって、遅かれ早かれ誰もが通る道なのだ。慎重さを欠いてしまった自身の負けだった。
ほう、と息を吐き出して、自身の死を見つめていたタケキリを掬い上げたのは、烏でも熊でも漁師でもなく、端正な顔つきをした百合子だった。その時は、夏の濃緑が秋の紅葉へと移り変わりいく姿を眺めたくて、たまたま山に足を踏み入れていたらしい。
「まあ、可哀想に」
百合子は罠にかかる狸を見つけると、手が汚れるのもかまわずに、細い毛深い足を挟み込む鉄を掴んだ。
本来のタケキリなら、鉄が外れた時点で脱兎の如く山野を駆け抜けていただろう。しかし、非情な痛みは後ろ足から消えることもなく、動く気力さえ奪ってしまった。鍋にされるのか、それとも皮を剥がされて中身を入れ替えられて装飾品となってしまうのか。新たな展開の死を眺めながら諦念を抱いていたタケキリは、じっとしたまま百合子の腕に抱かれていた。
百合子は女子大学で才媛の声を担う大変優秀な学徒だった。彼女はそこら一帯の大地主の娘であり、学内では卒業後の彼女の行方を誰もが噂をしていた。例えば、女でありながら両親の後を継ぐ手筈になっているだとか、その財産のほとんどは既に百合子の手の中にあるのだとか。
女子大学にいる間、百合子は澄まし顔でそんな噂に耳を傾けては、そうなればいい、と頷いてみたりした。しかし、百合子の囁かな展望は決して叶うことのない夢物語であることを、百合子だけは知っていた。
女子大学を卒業するにあたり、百合子の商才は、一種の教養として、夫となるべく男性の品定めの道具となり、後家を通して嫁いだ母の手前もあって、世間の習慣を無視することは難しかった。
タケキリが百合子のペットとして屋敷へ連れられた時には、百合子は女子大学を卒業する間近で、傷の手当てを受けながらも、小さな溜息をよく耳にしていたという。
百合子には恋をしている男がいた。大学生でありながら、早晩の作家として文壇に上がることを期待されていた幼馴染の清司だ。彼は大学の文科に身を置きながらも、当時流行だったトルストイズムにのめり込み、理想主義文学に没頭している青年だった。教養の一つとして、文学に触れる百合子は、幼馴染と大変馬が合うようで、よく文学論争などを口々に言い合った。最も、百合子はトルストイは好んだものの、その流行には批判的で、早口に理想主義文学を語る清司をフランス文学の真似事のような皮肉で言い負かしたりしていた。清司はタケキリがいる頃も、もう一人の幼馴染であるハルと一緒に、百合子の家に出入りをするほどに仲が良かった。文学論争を繰り広げる百合子と清司を、にこにことしたハルが眺めている光景が、タケキリの瞼の裏には未だに焼き付いている。
大地主の娘である百合子に対し、清司は魚屋の三男坊で、未だ名声のない物書きのはしくれだ。大学生というステータスを足したところで、釣り合いは取れない。しかし、快活な百合子と清司は、常に肩を並べて歩くこともあって、誰もがその未来を予想するものだった。まるで新郎新婦がそこにいるような眼差しを向ける者も少なくはない。百合子はまたそうなればいい、と願ってみたりした。それも叶わないことを知りながら、快活な笑みを浮かべ、地主の娘としてあらゆる才能を開化させ続けていた。
籠の中で傷を癒していたタケキリは、餌を頬張りながら百合子の溜息を聞くのが日課になり、そうしてある日、百合子はぼそり、と秘匿した思いを口にする。
「私の婚姻相手が決まったんやて。商家の息子さんで、経済のお勉強をなさってはるんですって」
百合子はタケキリに人参の切れ端を与えながら、頬杖をついていた。
ありゃあ、清司さんはどうするんです? とタケキリは聞いてやりたかったが、その時はまじまじと、百合子の陶器のような白くて丸みのある健康的な頬を見つめるしかなかった。しかし、百合子はまるでタケキリの言いたいことが分かってしまうのかのように、小さく苦笑した。
「お父様が決めたことやもの。それに、ハルも清司はんがお好きやから、二人の幸せを願わなあかんねえ」
アレでいてハルは奥手やから、と百合子を付け加える。
ハルと百合子は幼い頃から女学校で共に育ち、年数で言うのなら清司よりもずっと長く一緒にいる。快活な百合子の後ろをひょこひょことついてくるハルは、百合子にとって妹のような存在だったのかもしれない。清司にも内緒の話を二人でこしょこしょと話したり、同じ女学校に通っているはずなのに、お手紙のやり取りをして遊んだりもした。
ハルは穏やかな女性だった。清司と百合の後ろをついていきながら、いつもにこやかな笑み浮かべ、二人が論争になって白熱し、ハルのことを忘れていても悲しんだりはしなかった。それどころか、あまりに熱を上げていく二人に、紅茶を差し出して冷戦を言い渡すのも、ハルの役目だった。
女子大学に入学する頃には、百合子は大地主の娘である現実をすんなりと受け入れる。清司に恋をしたところで、多くの勉学に励んだところで、野山を駆け回ることを好んだところで、その大抵は叶わないことを悟っていたともいえるだろう。
「あんたを放す頃には、私も結婚やわあ」
百合子は快活に笑っていたが、その細めた瞳には小さな寂しさのようなものが灯っているように見えた。
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