第2話
オサキと縁を結んでからというもの、大抵の連休を京都で過ごすことが増えた明子は、この街にある数々の観光名所をほとんど踏破してしまっている。この街を住処にしている恋人は、よくよくと観光案内を買って出てくれ、その度に化粧の異なる仮面を被り、不可思議な奇人の姿で観光客を驚かせていた。夏の仮粧を感じさせる竹林の道や、秋へと景色を変えていく嵐山に、歴史的著名人を生み出した鞍馬山や比叡山も、明子は既に足を向けている。仕事に疲れた明子を気遣って湯の花へ温泉旅行に出かけたこともあった。
だから、ひとまずと立ち寄った二条のバーで、タケキリに「どこか行きたいところはありますか?」と訊ねられた明子は、ノープランでふらりとやってきた自身を少しだけ恥じた。近頃は、旅行先であるはずの京都が、まるで故郷のように感じられてしまっている。産寧坂の風景も、祇園へと続く小路も、以前は見えなかった領分の異なる者達が見える風景すらも、明子の中には日常として組み込まれてしまい、旅行という特別な感覚の先にある行きたい場所や、観光という目的が、すっかり抜け落ちてしまっていた。
「せやったら、今回はゆっくりしはったらどうです? 私も夜は店を開けなあきませんし、今は神無月やから一人で出歩くんは、ちょっと危険ですから」
「あ。それ、オサキさんも言ってました。神無月だからって」
旅行に来る前の恋人の電話を思い出し、明子は目を瞬かせる。出雲にいるだろう恋人は、随分と、十月に明子が京都に来ることを警戒しているようだった。
キャリーを店の奥に置きながら、明子は小首を傾げる。タケキリは、令嬢の姿のままカウンターの中に入っていた。明子と視線を合わせると、恭しい手つきでカウンターの一席を勧めてくる。長旅の疲れもあって、明子は素直にカウンターに腰を下ろした。
「神無月言うんは、カミサマが出雲に行きはるでしょう?」
「はい。語源俗解だと思っていたので、本当だったんだと驚いています」
「まあ、生きてるもんには見えへんことですからねえ。カミサマが一箇所に集まるということは、出雲以外は当然のようにカミサマが留守にしはるんです」
「神無月の語源ですね」
「ええ。この街は生死の境が曖昧でしょう? 私や、オサキはんみたいなんが、普通に闊歩してますし、他にもようさん色んな者が、作法を守って我が物顔で遊んでますし……あ、紅茶で良かったですか?」
「ありがとうございます」
薄い湯気の立ち昇るカップが、カウンターの向こうから差し出され、明子は小さく頭を下げた。昼間にこのバーに足を踏み入れるのも新鮮な心持ちだったが、アルコール以外のものをカウンターに座って飲むのも、なんだか不思議な感覚だった。暗い路地の奥のあるこのバーは、いつも夜の中にあり、店内も間接照明の薄暗い店内に、沈殿するようなジャズで作られた空気が充満しているからだろうか。
カップを傾けながら、明子は話の続きが気になってタケキリを見上げる。いつもは柔和な笑みを浮かべる好青年がカウンターの向こうにいるはずだが、今日は何度見ても愛らしい令嬢だ。声も顔も全く違う。それなのに、立ち振る舞いや話し方は、聴き慣れたタケキリのものであるのが、不可思議で面白い。
明子の視線に答えるように、自身のために淹れた紅茶を飲んでいるタケキリは、再び口火を切った。
「この国か、この土地かは分からへんのですけど、とにかくここは私らのようなもんが居着きやすい場所なんです。人間もそうでしょうけど、住み心地がええというのは、案外大事なもんで」
「なんとなく分かります」
「そうは言うても、この街かて、最初からそういう場所やったわけやないらしいんですけどねえ。昔は色んなもんが衝突しはってて、妥協の繰り返しで、今の形に落ち着いたんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。オサキはんも、キイチはんも、龍神はんも、昔はよう喧嘩したって笑いはりますから」
古くからこの街に根付いているという領分の異なる者達の名に、明子は少し驚いてしまった。オサキと出会ってから顔見知りになった天狗や龍神は、オサキと同じく明子に親切だった。文句を言い募ったり、癇癪を起こしたりするが、顔を見合わせてお喋りに興じると、不思議と会話は弾むのだ。このバーで、友人のようにオサキと言葉を交わしている彼らの姿を、明子は何度も目にしていたし、軽口を叩きながらも酒を嗜むオサキ達は、人間で言うのなら、まるで悪友のような空気を醸し出していた。無遠慮な言葉で相手をからかいながらも、本気で喧嘩しているわけではない。時々、手が出るような事態になることもあったが、次の瞬間には忘れたようにアルコールを啜っていたりする。
「まあ私らは、人間と違って同一のもんがほとんどおりませんから。お手々繋いで仲良くなんてのはどうにも……今だって、山一つ、川一つ、街の区画一つが、暗黙的にきちんと治められてるんです」
驚く明子に苦笑しながら、タケキリは優雅にカップを傾けている。オサキから聞いたことのない京都の話に釘付けになっている明子は、無意識にカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ前のめりになって興奮を隠せないでいた。
「皆さん、実は野心がお強いんですか?」
「んー……どうなんでしょう? どっちかっていうと、獣に近いんちゃいますかねえ。テリトリーの問題やと思いますよ」
「でも、それだと人間は一番邪魔なんじゃないですか?」
「いやいや、私らは所詮、生死の理から外れたもんです。この店だって、本来ならここにはないもんですから」
「ああ、そうでした。立っている領分が違うんですよね」
現在の自身が曖昧で忘れかけていた、と明子は恥じ入るように笑みを浮かべる。
本来の、二条の路地の中に、タケキリの経営するバーは存在しない。数ヶ月前の明子は、自身の意思でこのバーにたどり着くことが出来なかった。同じ道を辿り、同じ路地の角を曲がっても、そこにバーは存在せず、ただの住宅街が広がっている。領分の異なる奇人と恋人になり、命を預けたからこそ、明子はこの街の不可思議を自身の意思で眺めることが出来るようになった。事実として同じ場所に立っているはずなのに、彼らの足は異なる領分の土を踏んでいる。それはこの世の中に存在しないと同義だ。カメラで撮したところで写真には残らない。人間から見れば、彼らは頬を撫でていく風や、降り始めた雨や、見えもしない感情と同じものだ。恋人であるオサキですら、そこにある土地や空気そのものだと言えるのかもしれない。
自身もいつかは同じ領分へと潜っていくはずなのに、まだ明子は、彼らが不可思議で仕方なかった。
「そういう領土争いが、長い間あったらしいんですけど、あんまりにも決着がつかんもんで、そのうち飽いてしもうたそうですよ」
「……飽きたんですか?」
「最初のうちは、やる気満々やったみたいですけど、そういうことしてる間に、どんどん土地の風景も変わってもうて、そっちを眺めてる方が面白うなってしもうたんでしょうね」
「想像がつきます」
なんだかんだと言いながらも気紛れで、人間に興味を示すオサキを思い出し、明子は目を細める。オムライスを食べると美味しいと笑い、携帯機器のしくみに興味深く頷き、テレビを見ると真剣だったりする。街行く人を眺めては「面白いなあ」と唇で弧を描く姿は、すっかり見慣れたものだ。
「それで妥協があって、今の作法になったんです。まあ、こっからが本題なんですけど、カミサマがおらんというんは、つまるところ、治めるもんが不在になるんです」
「山とか、川とか、街の区画の?」
「ええ、主のおらん住みやすい土地ってなってしまうと、留守を狙うもんがようさん来るんですよ」
「つまり、内輪揉めじゃなくて、外敵に狙われるってことですか?」
「そういうことです。無作法もんが多くて、明子はんみたいに、今はまだ曖昧な立ち位置におるもんは危ないんです」
タケキリには珍しい生真面目な声に、明子はひっそりと息を呑む。
それはオサキや、この街で出会ったような領分の異なる者に襲われてしまうかもしれないという警告に近い言葉だった。明確な目的を持った悪意に晒される可能性は、案外足を竦ませてしまうものであるらしい。それに、無関係だとは決して言えないだろう。オサキとの縁を途切れさせないために、明子は彼に命を預けること選んだ。今はまだ、人間としての生活を基盤に置き、会社や友人や家族がある。それでも、いつかはその全てを投げ捨てて、人間という皮を剥がすことになるだろう。そのことに後悔はない。人間ではない者を愛してしまった明子は、きっとオサキがいなければ、もう立ち行かない。それほどに彼に救われている自負がある。
しかし、それでも、今の明子には「もしも」に対抗出来る力がないことも明白だった。言葉が通じることと、言葉を聞いてもらえることは別問題だ。不可思議な彼らの世界は、人間の普通よりも、少しばかり暴力的で遠慮がないことも、明子はもう見聞きしている。
旅行前の電話で、憂慮を持て余す恋人の声の意味を知り、明子はほう、と溜息を吐き出した。
「オサキさん、言ってくれればいいのに……」呟きを溢しながら、少し温度の下がった紅茶を喉に流し込む。
「明子はんの楽しみを奪いたくなかったんでしょうねえ。やから、わざわざ私に声をかけていきはったんですよ」
「すみません。本当にお世話になります」
随分と無茶なお願いをした恋人の代わりに、明子は深く頭を下げる。何かあれば、必ずお荷物になるだろう明子にも、タケキリは相変わらず柔い笑みを浮かべてくれていた。
「いいえ。役得みたいなもんですし、一応オサキはんの留守神ですから」
「るすがみ?」
次々に出てくる聞き慣れない単語に、明子はまた首を傾げた。
「オサキはんの留守を守るお役目です。おかげさまで、私はここのマスターをさせてもらってるんですよ」
「そういえば、マスターは狸なんですよね」
「ええ。丸っこい毛玉です。せや、折角ですし、私とオサキはんの話はどうでしょう? あの方は過去に拘らんから、あんまり聞いてないんとちゃいます?」
「良いんですか?」
「かまいませんよ。折角旅行に来はったのに、退屈を持て余すんも勿体ないですから」
どうやらタケキリは、今回の明子の旅行をもてなそうとしてくれているようだった。元より観光目的でなかったにしろ、身の危険があると分かったのだから、ふらふらと出歩くのも得策ではないだろう。明子は留守神というものが、どのような役目であるのかは見当もつかなかったが、この旅行はタケキリの傍にいる方が安全だということだけは理解している。それに夜になれば、このバーに訪れる奇々怪々な客たちと顔を合わせ、なんだかんだと騒いでしまうだろう。
それにオサキのことには興味があった。恋人は千里を見通す双眼で、明子の全てを丸裸にしてしまうのに、オサキ自身のことを話すのが、あまりにも下手くそだった。タケキリの言うとおり、拘りも思い入れも持ち合わせていないようで、何から話せばいいのか分からなくなってしまうらしい。だから、タケキリの申し出は、明子にとって未だに不可思議な恋人を知るチャンスでもあった。
タケキリがカウンターの向こうでポットを持ち上げる。明子のカップが空になっていることに気づいてくれたらしかった。差し出される手に促されるように、新しい紅茶を注いでもらう。
「では是非。マスターの業務と、タケキリさんのお役目のお邪魔にならない程度で」
「お気遣い痛み入ります。せやなあ、どこから話しましょうか」
にこやかな笑みを浮かべたタケキリが、熱い紅茶の注がれたカップを、再びカウンターの向こうから差し出してくれる。ついでについてきた小皿には、お茶請けになるだろうチョコレートとクッキーが乗っていた。
「……まずはそう、昔、この街におった商才に優れた女性の話からしましょうか」
カップと小皿を受け取ると、令嬢が優しく笑いかけてくる。
見慣れたタケキリの表情を残す双眼は、まるで何処か遠い思い出を見つめるように、労わりの込もる愛情の眼差しで、うっとりと細められていた。
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