神無月の狸

陽本明也

第1話

 定時で帰宅した日には、電話を片手に夜を過ごすことが習慣になっている。晩御飯を済ませて風呂に入り、テレビや読みかけの文庫本を開いたり、爪を切ったりしながら、まるで普通の恋人の声に耳を寄せるように、気長なお喋りに興じている。少し不思議な感覚は、明子が人間よりも少し外れた場所に立っているからかもしれず、もしくは機械の苦手なオサキが現代人の必需品となった携帯機器に話しかけているからかもしれない。

 話題は次の連休のことだった。京都に住むオサキに会いに行くために、明子が大抵の連休を京都旅行に費やすのも、ここ最近身についた習慣のようなものだ。

「あ。じゃあ、十月は京都にいらっしゃらないんですね」

『ああ、この時期は毎年出雲に出向かねばならなくてね。折角君が来るというのに』

 諦念したような声に、明子はくすり、と肩を揺らした。残念がってくれていることが嬉しくもあり、なんだか少し気恥ずかしい。それに心配されているのが伝わってくる。

「こちらこそ、前に教えてもらってたのに、すっかり失念していました。新幹線のチケットを取ってしまったので、遊びに行っても良いですか?」

『それはかまわないよ。まあ、口惜しいけれど。だが、一人というのはいただけないなあ』

「もう京都でも一人で大丈夫ですよ。元から一人旅行も趣味の一つですし」

 子供ではない自覚を持て余し、明子は気軽に言ってみせた。オサキに出会った頃は、まだ京都の町が珍しく、観光地を回るにも苦労して案内が必要であったけれど、何度も足を運んでいるうちにすっかりと慣れてしまった。広大のようなでいて、案外狭い。土地というのは、そういうものなのかもしれないと明子は思う。だから大丈夫だ、と胸を張ってみせたのだけれど、オサキの歯切れはすこぶる悪かった。

『……いや、迎えにはタケキリを寄越すよ』

「オサキさんは、心配性ですね」

『うん。君をなるべく大事にしたい』

 甘露のような囁きに、頬が熟れていくような気がした。


◇◇◇


 秋の京都駅は大変な混雑に見舞われる。新幹線の車中でも、橙や赤の葉をつけた木々が次々と流れていった。観光名所ともなる寺社仏閣を保有する京都は、春は桜が満開となり、秋は紅葉が見所でもある。降り立つと背筋の伸びるような感覚に身を委ねながら、日本の伝統的な建造物と共に四季を感じ取れるのも、この街の一つの特徴なのだろう。

 観光客の波におしくらまんじゅうを喰らいながら、明子はヨロヨロと改札を抜けると、変わらずに天井の高い京都駅に迎えられた。駅ビルと直結したコンコースは、大きなガラスが陽光を取り入れながらも、曲線や幾何学模様の抽象的なオブジェが入り組んだアートのようでもある。一見風変わりな駅で、ひとまず記念撮影をする外国人を横切って、明子はきょろきょろと首を回した。いつも明子を迎えてくれるはずのオサキは、すでに出雲へと旅立ったらしい。今頃は、飲めや歌えやどんちゃん騒ぎに巻き込まれながらも、人々の縁を眺めては、面白半分に糸のような縁を結んでいることだろう。

 今朝、東京を出るときに連絡をしてみると『一ヶ月も酒を飲んだら、肝臓が悪くなってしまうかもしれないな。道中、気をつけて。良い旅を』と返事がきていた。肝臓などないくせに、と明子はまた笑ってしまった。

 恋人に会えない旅行は、多少なりとも残念ではあったけれど、京都行きをやめる気にはなれなかった。第一の目的がいなくとも、この街には既に何人かの友人が出来ているし、近頃は連休を自宅で過ごすのが面白くなくなってしまって、気づけばこの街に来たいと願っている。だから、夫とは別の友人と旅行に行く奥様のような気軽さで、明子は京都駅に降り立った。

 オサキの話によれば、遠方からの来客である明子を気遣って、友人の一人であるタケキリが迎えに来てくれているらしい。タケキリはオサキと懇意にしている狸で、化術とサービス業に辣腕を振るうバーのマスターだ。京都を訪れる度に、美味しいお酒を振舞ってくれるマスターの顔を思い出しながら、明子は構内をぐるぐると見渡してみたけれど、駅の中に見知った顔はいなかった。キャリーを引き摺って隅に寄りながら、どうしようか、と考える。迎えにくるはずの恋人の友人は、約束を反故にするようなタイプではない。ううん、と首を捻っていると、不意に対面の壁に背を預けながら、明子を凝視している女性がいた。

 淡い茶色の混じった黒髪を丁寧なサイドテールでまとめあげている。清楚なワンピースに身を包みながら、ふわふわとした髪がまるで狸の尻尾のように揺れている。悪戯をする子供のように唇で弧を描き、眼鏡の奥の瞳が意地悪に目尻を下げていた。まるで見つめ合うように、明子は女性を暫く凝視すると、少しだけ憤慨しながらも、キャリーを引っ張って女性に近づいていく。

「マスター。人が悪いですよ」と、明子は挨拶よりも先に文句を吐き出して、女性の前で足を止めた。

「おや、よう分かりはりましたなあ。随分と目ぇがようなってますねえ」

「やっぱり。もう、私が気づかなかったら、どうするつもりだったんですか?」

「その時は、ちゃあんとお声をかけましたよ」

 くつくつ、と肩を揺らしながらも、女性はまるで令嬢のように柔い笑みを浮かべている。ほう、と明子が嘆息すると、「すみません」と反省した顔をした。

 恋人であるオサキを筆頭に、明子が京都で出会った者達は揃いも揃って、人間を驚かす悪戯が大好きなようだった。それは人ならざる「領分の異なる者」の趣向を凝らした遊びであるらしい。彼らに言わせてみれば、長い時間を眺めているだけでは飽いてしまう。時々、遊びに興じなければ、世界は退屈だ、ということらしい。人間ではない領分を立ち位置とする者の考えは、既に片足を突っ込んだ明子にも、未だ解明出来ない不可思議でもあった。

「お久しぶりですねえ、明子はん」

「お久しぶりです。今日は随分と可愛らしい姿なんですね」

 いつまでも拗ねていても仕方ない。明子は苦笑しながらも、小さく頭を下げる。キャリーを持とうとしたタケキリに手振りで断りを入れながら、はじめて見た友人の姿をまじまじと見つめた。

「お嬢はんのお迎えに、むさ苦しい格好はあかんなあと思いまして」

「あはは、お気遣いありがとうございます」

「でも、ホンマによう分かりはりましたねえ。案外見破られん自信があったんですけど」

「目を凝らす方法を、オサキさんに教わりました」

「ああ、流石オサキはん。きっちり先手は打ってはるんやわあ」

 少し胸を張って明子が言えば、タケキリは令嬢たる柔和な笑みを浮かべた。

 コンコースを抜けると、大きなバスロータリーが目の前に現れる。人々を観光名所に運ぶバスは、京都駅から乗り込むと時間に関係なくラッシュのような有様で、人の体温に押し潰されて溶けてしまうだろう。バス停には向かわずに、同じロータリーに連なるタクシー乗り場に並ぶ。こちらも行列の有様だったけれど、その分待機しているタクシーの数も多く、すぐに順番が回ってくるだろう。

「この姿は、この時期だけの限定なんです」

「じゃあ十月はずっと?」

「ええ、まあ有事の際は化けてなどおられへんから、慣れてるほうに戻すんですけど。大抵は、この格好でおるんですよ」

「理由がおありなんですね」

「ええ、昔、ある人と約束したもんですから」

 柔和な笑みは見慣れたタケキリを思わせるが、なんだか懐かしそうに微笑む横顔は、まるで文明開化の頃の華々しい令嬢のようだった。

 約束の内容を聞く前に、明子達の前でタクシーのドアが開いた。いつの間にか来ていた順番に驚きながら、いつもそうしているように順番に座席へと乗り込んでいく。行き先を「二条に」と琴の音のようで言ったタケキリの横顔を、明子は流れていく京都の景色と一緒に眺めていた。

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