「ロスト ネーム」
涼月一那
第1話「age 9~」
………位置について~、よ~い…ドーンっ!
担任の伊藤先生が空に向けて放つ、徒競走のスタートを合図する空砲の乾いた音が響き渡る。
皆、真剣な面持ちでゴール目指して駆け抜けていく。
そう、今週の日曜日はいよいよクラスの皆が待ちに待った小学校の運動会がある。
それを明日に控えた今、練習にも気合が入る。
「なぁなぁ、壬護。今日も勝負しようぜ」
「ん?何だよ一郎。今度は何だよ」
小学三年生の沖壬護は、徒競走の順番を待つ傍らから利発そうな少年に声をかけられて苦笑する。
彼の名は佐藤一郎。
壬護とは幼稚園の頃からずっと一緒で、家が近所だという事もあり、何をするにも常に一緒の幼馴染という間柄だ。
一郎は人懐っこい笑顔で壬護の肩に腕を回し、いつものように勝負事を仕掛けてくる。
二人の間での遊びといえば、こうして何でもいいから競って互いの優劣を決める事だった。
一郎はいつもどんな勝負をしても壬護に勝った事はなかった。
いつも勝負は壬護の勝利で終わる。
普通の中流家庭に育つ一郎とは違い、壬護の家は明治時代から続く医者の家系で、大きな病院を持つ大変裕福な家庭で育った壬護。
一時はそんな背景から一郎がわざと自分に花を持たせようとしてわざと負けているのかと疑った事もあったが、一郎はいつだって常に本気だった。
それが伝わっているからこそ、こうしてずっとつるんでいられるのだ。
「だからこの徒競走でどっちが早いか決めようぜって事だよ。当然やるよな?」
今日もちっとも懲りない様子で一郎は笑う。
それに壬護は勝ち誇ったような顔で頷いた。
「ああ。勿論だ」
どうせ今度の勝負も壬護が勝つに決まっている。
「はい。沖くん、佐藤くん、おしゃべりはそこまで。位置について~っ!」
今年大学を出たばかりの年若い伊藤先生の張りのある声に、慌てて二人はスタートラインに並んだ。
伊藤先生が深く息を吸う気配で緊張が高まり、鼓動の高まりを感じる。
やがて伊藤先生んがピストルを頭上に掲げた。
「よ~い、ドンっ!」
パンっという耳をつんざくような破裂音と同時に一斉に生徒たちが走り出す。
中でも壬護と一郎は誰もが目を疑うような速さでコースを駆け抜けていった。
他の生徒たちもそれを見て、また二人の勝負が始まったとばかりに二人に声援を送る。
「壬護っ、いいぞ。ぶっちぎれ~っ!」
「佐藤もいいぞっ!がんばれ~っ!」
二人は必死の形相で走る。
いつだってこの瞬間が一番楽しいし心地よい。
勝負の行方は二人とも並ぶ五分五分といったところだろうか。
やや一郎の方が頭一つ分先を行っているように見えた。
それを感じた一郎の表情にやや余裕のようなものが浮かんだ。
だがそれは壬護の作戦で、すぐにその一瞬の優越感は絶望に変わる。
「へへっ。お先っ!」
「あっ、壬護っ」
壬護は息すら乱す事なく一気にゴールにたどり着いた。
わっと歓声があがる。
「わぁっ、おめでとう。やっぱり沖くんは強いね」
「うんうん。佐藤くんも速かったけどね。惜しい」
女子たちがすぐに壬護の周りに集まり持てはやす。
少し遅れて一郎もゴールする。
「やっぱり壬護には適わないや。はははは」
一郎はそう言っていつもへらへらと笑う。
これがいつもの日常だ。
壬護は決して一郎に負ける事はない。
これはもう常識のようなものだ。
勉強でもスポーツでも、家柄でも何でも一郎は壬護に勝てた試しがない。
それが一郎にも分かっているだろうに、それでも一郎は壬護に勝負を仕掛けてくる。
それは彼が単にお人よしなのか、それとも本気で勝ちたいと思っているからなのかは分からない。
その関係はずっと続き、中学を経て高校へ進学しても変わる事はなかった。
そして瞬く間に月日は流れ、二人は高校卒業を間近に控えていた。
そんなある日の事だった。
それは突然やってきた。
二人の「最後」の勝負が。
卒業式を明日に控えた放課後。
たまたま部活で世話になった先生方への挨拶をするために久しぶりに登校していた壬護はメールで一郎に呼び出された。
「屋上で待ってる。大事な話がある」
一郎も進学先を既に決めていて、ほとんど登校する事はないのでその呼び出しはかなりびっくりした。
同時にこういう事は滅多にないので不安感も覚えた。
だが壬護は指定されたとおりに、校舎の屋上へ向かった。
いつもは施錠されているはずの扉はあっさりと開いた。
ギギギと錆びついた音をたてて扉を開く。
その向こうにはよく見知った制服姿が立っていた。
「ごめんな。急に呼び出して」
「いや。別に。それより何だよ。屋上で大事な話って、まさかオレに告白でもするつもりじゃないだろうな?」
ニヤニヤと茶化す壬護に一郎はただ透明な瞳でこちらを寂し気に見ているだけだ。
「おいおい。マジでどうしたんだよ」
「うん。あのさ。オレたち明日で卒業じゃん?」
壬護は鼻を鳴らした。
「まぁ、そうだな。でも今回ばかりは行く大学も別々だし、お前との腐れ縁もここまでって事だな」
「うん……。そうだね。結局オレは一度もお前に勝てなかったな」
壬護は冗談のつもりで言ったのだが、一郎は何故か傷ついたような表情をしていた。
どうも調子が狂う。
いつもの彼ではないかのようだ。
それが気になった壬護は一郎の顔を屈んで覗き込む。
「お~い。お前マジで大丈夫か?」
「ああ……うん。大丈夫だよ。別にどこか悪いわけじゃないから。あのさ…壬護。最後にあと一回だけ勝負をしないか?」
それは意外な言葉だった。
思わず壬護は肩透かしを食らったような顔になる。
「はぁ、勝負だぁ?お前まだやるつもりか~」
すると一郎はバツが悪そうに笑った。
「ははは。結局幼稚園から高校の今まで壬護に一度も勝てなかったからな」
「ふはははっ。オレ様は最強無敵だからな」
壬護は腰に両手を当てて笑い飛ばす。
一郎もつられて笑った。
「本当にそうだね。壬護は最強無敵だよ。いつだってね。だからさ、餞別代わりに最後の勝負をして欲しいんだ」
その時の一郎はとても真剣で目を逸らせない力があった。
「ああ。別にいいぜ。でも餞別なんて大げさだな。大学だって近いし家だってお互い実家から行くんだぜ。そう変わらないと思うぞ」
それでも一郎は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。壬護。本当に嬉しいよ。もう断られたらどうしようって思ってずっと不安だったんだ。だから最後の勝負。全力で頑張ろうな」
「何だよ、マジで告白みてぇじゃねぇか。キモいんだよ。それで何だよ最後の勝負は。もう決めてんだろ?」
この時点で壬護はまだ自分の身に何が起ころうとしているのか分からない。
ただいつも願うのはもしもここからやり直す事が出来たのなら、絶対にその勝負には乗らない。
するべきではなかったのだ。
つまりそれ程、この勝負は壬護の人生において極めて重いものだった。
やがて一郎は口を開く。
「最後の勝負は明日、長尾ミコトちゃんに二人同時に告白して、受け入れてくれた方が勝ちって事にしよう」
「はぁ?お前、自分が何言ってんのかわかってんのか」
壬護は今のセリフが聞こえなかったとばかりに困惑した様子で首を傾げる。
だが目の前の一郎は穏やかにもう一度繰り返す。
「だから明日卒業式の後、長尾さんに二人で告白してOKもらった方が勝ちだよ」
「いやいやいやいや、それはないだろ。ミコトはオレの彼女なんだぞ。お前もわかってるだろうが」
そうなのだ。
一郎の言う「長尾ミコト」とは、壬護が去年から付き合いだした同じクラスの女子の事だ。
陸上部に所属していた壬護はそのマネージャーをしていたミコトに告白されて交際をスタートさせた。
交際は順調で、高校を卒業後も彼女と離れるつもりはなかった。
それが一体どうしてこんな今更勝ち目のない事を勝負の対象にしようとしているのだろうか。
わけがわからない。
常識的に考えても現在彼女と付き合っているのは壬護なのだから、この場合どうしたって彼女は壬護を選ぶに決まっている。
それに一郎も同じクラスなのだが、一度もミコトと話しているところは見た事がなし、興味を持つ素振りもなかったはずだ。
一郎が何を考えているのかさっぱり分からない。
「な……なぁ、お前何を考えてんだよ」
「あ、勝負のご褒美なんだけど、それもオレが決めちゃっていい?」
「はぁ?何だよそりゃ。別にいいけどよ」
こんな最初から結果が分かり切った勝負だ。
今更ご褒美なのて決めたってどうでもいい。
そんな軽い気持ちで壬護はあっさりと了承した。
今まで壬護は勝負のご褒美で一郎を随分こき使ってきた。
掃除当番を変わらせたり、宿題や日記を代わりにやらせたり、奉仕活動をサボって一郎に行かせたりもした。
その他にも数え上げたらキリがない。
最後の勝負の報奨くらいは一郎に決めさせてもいい。
その程度の考えで壬護はそれを受けた。
すると一郎は何故か自信のある余裕たっぷりの笑顔を浮かべた。
「勝ったら負けた方の「名前」を貰える。なんてのはどうかな?」
「はぁああ?もう全く何が何だかさっぱりオレはわからねえぞ」
全くもって今日の一郎は理解出来ない。
一体どうやって名前なんか与えたり貰ったり出来るというのだろう。
だが、一番不気味なのは目の前で笑顔を浮かべている一郎だ。
「お前、道端で何かヘンなものでも食ったんじゃねぇの?」
「だから俺は大丈夫だって言ったでしょ。それよりご褒美はそれでいいよね?」
「ああ。もう好きにしてくれ」
「うん。ありがとう、壬護。明日はお互い頑張ろうね」
「はははは……。わかったよ」
くどいようだが、ミコトは壬護の彼女なのだ。
負けるべくもない。
しかし、その絶対の自信と十八年に及ぶ連勝実績は卒業式であっさり覆される事になる。
その日、卒業式の後で二人揃ってミコトを呼び出し、同時に彼女に告白した。
壬護にとっては今更な告白なのだが、勝負は勝負だと割り切って挑んだ。
結果は分かり切っていると思っていた。
だが信じられない事に、ミコトが選んだのは壬護ではなく一郎の方だった。
桜の舞い散る中、嬉しそうに笑う親友と「元」彼女を見ながら、壬護はまだその事実を受け入れられずにいた。
そんな壬護に更に追い打ちをかけるような言葉が親友からかけられる。
「さぁ、約束だよ。壬護。君の名前は今からオレのものだ」
満開の桜の花びらが壬護の視界を染める。
そしてこの日から沖壬護の名前は佐藤一郎のものとなった。
壬護は「名」を奪われてしまった。
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