第6.16話 竜殺しのシグルド、戦乙女と契約を結ぶ過去のこと
月が出ていた。
「正直言ってね、驚いたよ、シグルド。まさか〈神々の宝物〉を手にしただけで、たったひとりの人間族が〈
耳朶を打つ子どもの高い声に反して、周囲の光景は凄惨だ。シグルドの周囲には罪人の監視役や処刑人たちが横たわっているが、いずれも喉を切り裂かれ、あたりは血の海と化していた。周囲には血に濡れた剃刀がふわふわと浮いていた。
〈
実際、オーディンがしたことといえば、剃刀を投げただけだった。宙を浮いた剃刀は、一瞬にして処刑人たちの喉を描き切ったのだ。
(〈神々の宝物〉か………)
この子どもにしか見えない独眼は、いったいどれだけの〈宝物〉を所有しているのだろう。少なくとも〈
「一瞬でも《
オーディンは引き摺るように持っていた長物をシグルドに向けて放り投げた。豪奢な装飾の入った長剣。《聖剣グラム》。少女が変化した〈
〈火竜〉を殺したシグルドは、しかし同族の人間族たちに追われることになった。竜殺しのシグルドを追いかけてきた兵――アッティラ王の兵たちだった――が言うことには、竜を殺した者はまた竜になるのだという。シグルドは逃げた。逃げに逃げ続けた。そして捕まった。だから今、こうやって捕らえられ、首を吊らせられる直前となっていた。
「《
とオーディンが問うのは、シグルドがその言葉を信じずに少女の指輪を抜き取ったからだろう。あの指輪を抜いた直後、少女は竜と化した――それは事実だ。だが果たして、本当に少女は竜だったのか。むしろ《竜輪》だとかいう指輪こそが装着者を竜と変化させるもので、抜き取ることでその効果が発揮されるのだ、という考え方もできる。
そう思ったからこそ、シグルドは指輪を外さなかった。どんなにか力をかけても抜けないその指輪は、《聖剣》で殴れば変形するので取り外せるようになるということは知っていたが、そのままにして逃げた。指輪はシグルドから力を吸い続けたが、それでも竜になるよりはマシだ。捕らえられてから幾度となく指輪を奪われそうになったが、兵たちは剣で指輪を殴ろうなどとはしなかった。指を切り落とそうとする者はいたが、それは功をなさなかった――指輪は指の切断された部分を癒着させるように変形し、結局取り外されることはなかったのだ。おかげで、いちおう今もシグルドの指はすべてくっついている。だいぶ動かしにくくはあったが。
「シグルド、ぼくは……ぼくたちは万能じゃない。ぼくたちはこの世界にはあまりに大きすぎて、きみたちは小さすぎる。きみたちは早すぎて、きみたちの命は短すぎる。だからぼくたちはこの世界の流れ作り出すことはできても、細かな操作をすることはできないんだ――ぼくたちは結局、〈
とオーディンは独り言のように、シグルドには理解できない単語を言った。〈悪魔〉? なんだ? どういう意味だ?
(いや、どうでもいいか………)
どちらにせよ、シグルドはもう終わりだ――死にかけている。何度も殴打され、腕は後ろ手で縛られ、身体は自由にならないままで、〈
「シグルド、ぼくには、きみがどうして〈災厄〉たちを倒そうとしていたのかは知らない。だが、まだ〈災厄〉たちは残っている。ぼくたちはあれらを封印しなければならない」
なぜ、だと?
シグルドが〈災厄〉を討伐していたことに大きな理由はない。ただ、ただ――あれは世界を脅かす存在だった。シグルドが生きているこの世界を、だ。だから倒そうとするのは当然だ。自分の世界を守るために。
「シグルド、きみは本当に無口だね」
オーディンは溜め息を吐いたので、シグルドは返答をしてやった。
「おれは……おれは、いつ〈
「火は燃え移る。〈火竜〉は殺した者に宿る。殺されなくても寿命で死ぬ場合があるがね、そういう場合は近くにいる者に宿る。シグルド、きみは〈火竜〉を殺し、その火種が宿った。だから普通なら、数日と経たずにきみの身体は焼かれ、〈火竜〉と化していたはずだ」
とすらすらとオーディンは答えた。今考えた作り話をした、というふうではない。事実を語っているか、妄想か、あるいは用意していた嘘かだ。
「でも、さっきも言ったけど、きみの指には未だ《竜輪ニーベルング》が嵌められている。それが〈火竜〉と化すのを阻んでいる。もう指を切り落とそうが何をしようが、《竜輪》は外れない――きみが以前にやったようなやり方は想定外ではあったけど、考えられる方法については対処するようになっている。指を切っても、すぐに再生する」
「そうか」
「シグルド、ぼくと来てくれるね?」
「断る」
オーディンはひとつきりの瞳は大きくなり、驚愕の表情になった。絶望かもしれない。可愛らしい子どもの顔で浮かべられるとたじろいでしまうが、シグルドは意思を曲げなかった。
「おまえのことは……信用できない」
「ぼくは何も嘘を言っていない」
そうかもしれない。それでも……それでも、だ。オーディンのことを、シグルドは信用できないでいた。
そうか、とオーディンは悲しそうな表情で頷いた。それから浮いていた剃刀を掴んでから投げた。剃刀はひとりでに踊り、シグルドを縛っていた縄を切断していく。首にかけられていた絞首縄がなくなると、ずっと抱え込んでいた死への恐怖がだいぶん和らいだ。
「じゃあ……じゃあ、ね。また会おう。指輪を外したり、死なないようにしてね、シグルド。きみが死んだら〈火竜〉がまた暴れ出してしまうから………」
オーディンは自由になったシグルドに背を向け、その瞬間に掻き消えた――少なくともシグルドには、そう見えた。
絞首台から解放されたシグルドはアッティラ王の城から逃げ延び、〈
アッティラ王はシグルドのことを――つまり〈火竜〉のことを諦めていないらしかったが、時折訪れる兵たちは簡単に跳ね除けることができた。《竜輪》の力は未だシグルドの能力を抑え込んでいたものの、もはやそれには慣れてしまっていたのだ。
そのうちにアッティラ王の死の報せも届き、シグルドのことは忘れられたらしかった。時は流れたが、シグルドは齢をとらなくなっていた。ただ人から離れて暮らした。
唯一、シグルドを訪ねてくるのは独眼の子どもだけだった。オーディンだ。誰も伴を連れることのない小さな来客は、髪の長さや服装が変わることはあれど、その年齢はシグルドと同様に変わらなかった。
「〈
「〈
オーディンはシグルドの庵を訪ねるたびに、〈災厄〉に対する状況を報告してきた。シグルドは特にその話には反応はしなかったが、茶だけは淹れてやった。オーディンが〈災厄〉に対処しようとしている執念だけは理解できた。
オーディンはまた、シグルドの身に封印された〈火竜〉を気にしているらしかった。
「もう一度封印しようとしても、簡単にはいかないからね……ファヴニルが最も強大で、厄介な敵だったんだ」
そう言って、シグルドの嵌めた指輪の状態を確認していた。
そんな日がずっと続いていた。だがある時、オーディンは深刻な表情で訪ねてきた。
「シグルド……きみには恋仲の女性がいるか?」
相変わらず幼いオーディンの口から発せられる単語として、恋仲の女性というのは相応しくはないように感じた。シグルドは肯定も否定もせず、ただオーディンを見返した。
独眼は相変わらず、何を考えているのかよくわからない。だがその瞳には、シグルドと出会ってからの歳月だけの重みがあるように感じられた。
「残りは六柱。その中で、特に〈
オーディンの話の内容はがらりと変わったように見えた。だが、おそらくはこの話も、先の恋愛沙汰の話に関連しているのだろう。
「……シグルド、改めて聞きたいが、ぼくに力を貸してはくれないか?」
「おまえのことは、信用できない」
シグルドの答えは昔と同じだった――ずっと昔、為政者が何度も入れ替わる以前よりも昔と。
だがそれは嘘だ。今では、オーディンが無理矢理〈火竜〉を呼び起こそうとしているなどとは思ってはいない。シグルドを殺せば〈火竜〉が目覚めるというのなら、オーディンは簡単にそれを実行できるからだ。それをしないということは、事実オーディンは嘘を言ってはいないということなのだろう。
シグルドが恐れているのは、今や死だけだった。己の死そのものではない。死によって、〈火竜〉が解放されてしまうこと、それだ。
オーディンとて、それは恐れているはずだ。この独眼の子どもは、何度も何度も言っていた。〈
「〈
「おまえはおれの力など必要としていないだろう。おまえは化け物だ。いくらでも魔法が使える。いくらでも〈神々の宝物〉を持っている」
「この世界のエネルギーは有限なんだ。ぼくたちは結局、〈
オーディンはときどき、シグルドには理解できない単語を使う。今も仔細は理解できなかったが、オーディンがシグルドの力を欲していることは察せた。
それでもシグルドが首を縦に触れなかったのは、結局は怖かっただけなのかもしれない。
オーディンの去り際、発した言葉だけが耳にこびり付いていた。
「シグルド……ぼくのことが気に入らないのなら、ぼくではない誰かがきみの元を訪れたら、力を貸してくれるかい?」
それがオーディンに出会った最後だ。季節が一巡りする前には訪ねてくるはずのオーディンが姿を見せなくなった。それでもシグルドは庵を離れることなく、ただ〈火竜〉を身に封じ込めて生きた。
平穏――あるいは退屈なとある日、シグルドの庵に訪ねてくるものがあった。それは小柄な独眼の子どもではなく、武装した兵士たちだった。人間族の兵士たちは、現在の〈
シグルドは拘束され、絞首台へと連れていかれた。思い出せないほど昔と同様に。
そして救い主が現れたのも、昔と同じだった――違ったのはそれが小柄な独眼の子どもではなく、女だったことだ。
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