第6.15話 竜殺しのシグルド、竜殺しの大罪人となる過去のこと

 灰被りの街で動くのは、まだ熱を持っている地面に温められた空気だけ。


 第五世界リュッツホルム西の街、ブルグンド。近隣で火竜ファヴニルの目撃情報があったこの街は、その情報が嘘偽りではなかったことを身を以て証明していた。

「ふむ、酷いな」

 とシグルドに抱きかかえられるようにして馬に跨っているオーディンが呟く。きょろきょろとあたりを見回して呟くことには「休めるところはなさそうだ」だった。


火竜ファヴニル〉の吐息がどれだけ熱いのかは知らないが、焼かれた大地が季節一巡りの間にも熱を持ち続けるなどということはないだろう。〈火竜〉がこの街を破壊したのはせいぜいが数日前のはずだ。竜の巨大な翼ののせいで、まだ遠くには行っていない、などと断じられないが。

(それでも、近くで目撃情報くらいはあるはずだ)

 炎を逃れた住民がいれば、話も聞けるだろう。逃げたおおよその方角がわかるのとそうないのではだいぶ違う。


 とりあえず壊滅した街を回ってみようと、そう提案しようとしたとき、オーディンがぴょんと跳ねるようにして馬から飛び降りた。着地して言うことには「手分けして生存者でも探そうか」ということだった。先ほど冷めた言葉を吐いていた人間の言葉とは思えない。

「そうしたほうが手早いからね。ここでぐずぐずしていたら宿にもありつけない」

 ではまた、とそのまま歩いて行こうとしたオーディンの小さな手をシグルドは掴む。

「待て」

「なに?」

「ひとりだと危ない」

 そう心配してやったというのに、オーディンはにやりと笑った。

「きみはぼくが誰かに害されることを心配しているということかな、シグルド?」

「そうだ」

 ふふ、と声を漏らした笑い方には子どもらしい愛嬌が見て取れた。

「まぁ、心配ないさ――どうしても心配なら、何があったら大声で叫ぶから、奴隷商に連れ去られて売られるまえに助けてよ。何か見つけるか、でなければ何も見つからなかったら、ここに戻ってくるよ」

 そう言って、シグルドの手を振りほどいて行ってしまった。


 灰被りの街である。風が吹くと塵灰が舞い起こり、ただでさえ砂嵐が激しい砂漠地帯の立地なので、視界は良くない。建物で声は遮られにくいが、風が吹くと障害となるため、いざオーディンが大声を出しても、それを聞いてやれるとは限らない。

 でなくても、オーディンである。端正な顔立ちに、あの銀髪だ。馬に乗っている間はずっと抱っこしてやっていたのに、性差があまり出ないような年頃のせいか、未だに少年なのか少女なのかがわかっていないが、何にしても奴隷商人にとっては隻眼であることを差し引いても上々の商品となりうる存在であることは間違いない。逆に言えば、奴隷商に出会ったとしても傷つけられて無理矢理に捕らえられることはないわけで、手間をかけて捕まえようとするだろうから、そういう意味では悲鳴をあげる暇もないほど急を要する事態というのは起こりにくいだろうが、それにしてもシグルドと一緒にいるほうが安全なのは間違いない。

 そう思ったのにそれ以上オーディンのあとを追いかけなかったのは、本人が言う通りにあの子どもが誰かに害されるとは思えなかったからだ――オーディンは、得体が知れない。屈強な男であるシグルドですら、ぞっとするような恐怖を感じることさえあるくらいだ。

(だが、やはり引き止めるべきだったな)

 オーディンの後ろ姿が見えなくなってから、シグルドはそんなふうに思ってしまった。子どもは子どもだ――どれだけ捻くれていようと。であれば、どんなに恐ろしげな存在に見えたとしても、背後に庇ってやるべきだった。


 別れてしまった以上、もはや後悔しても仕方がない。シグルドは廃屋の中にかろうじて残っていた木枠に馬を繋ぎ、念のために目立つよう旗も差し、当て所なく歩き始めた。

(そういえば………)

 オーディンと別れてから気づいたのだが、この《聖剣グラム》だとかいう〈神々の宝物〉の使い方を教えられていない。いったいどうやって使うものなのだろうか。案外、オーディン自身もそれは知らなくて、だから簡単に寄越したのではなかろうかという邪推もできてしまう。

 そんなふうに魔法ルーン文字が刻まれた刀身を眺めながら灰被りの街を歩き回っていたときだった。


「うぁ………」


 そのか細い声を、シグルドは聞き逃さなかった。剣を鞘に収めて周囲を見回す。辺りにはなんとか倒壊を免れている家屋がいくつかあるが、いずれも灰被りなうえに焼け焦げていて、触れればそれだけで崩れてしまいそうだった。しかし目に入るところに誰もいないのだから、家屋の中に声の主がいるに違いない。そう意を決して、手近な建物――既に壁も屋根も崩れて外と内の区別がつかなくなってしまっていたが――の中に入る。

 幸いにして、ひとつめの建物の中で声の主が見つかった。家の中も灰まみれではあったが、床の灰の上に散らばっている陶器の欠片が食器のように見えるので、おそらくは台所なのであろう。そんな部屋で、炎と灰に時間を止められていないものがひとつだけあった。倒壊した屋根に押し潰されていた人間族だ。

 シグルドは建物が完全に崩れないよう、慎重に屋根だった焼け焦げた木材を退ける。押し潰されていた人物を引っ張りあげてみると、まだ年若い少女だった。オーディンよりも少し年上だろうか、女性らしい身体つきではある。長い黒髪も褐色の肌も灰に汚れてはいたが、幸いにして大きな怪我はなさそうに見える。屋根には押し潰されてはいたものの、木材が焼けて中空になっていたためだろう。


「大丈夫か」

 灰を払いのけて、声をかける。はじめ、少女の目の焦点は合っていなかったが、皮袋の水を飲ませてやると、だんだんとシグルドに視線を合わせられるようになっていった。

(喋れないのだろうか)

 怪我のせいか、あるいは精神的外傷のせいだろうか、シグルドを呼び寄せた声以外に、少女は一切の声を発しなかった。こうなると、〈火竜ファヴニル〉の情報を聞き出すことも難しいかもしれない。

 少女の家族が生き残っていないかどうか家屋の中を見回ろうとしたが、奇跡的に形を保っていた台所らしき場所以外は、踏み入れぬほどに部屋が灰で埋まってしまっていた。少女の家族が〈火竜〉の炎の災禍を避けていたとしても、死んでしまったことは間違いないだろう。


 少女を担いで家の外に出ると、オーディンが腕を組んで立っていた。シグルドが家屋の中から現れても、驚きもしない。その低いところにある隻眼は静かな色を湛えたまま、シグルドを見上げていた。

 肩に担いでいた少女を下ろし、オーディンに相対させてやる。少女の足は覚束なかったが、シグルドが肩を抑えてやると両の足で立つことができた。向かい合って立たせてやると、やはり少女のほうが背が高く、そのぶんだけ年嵩のようだ――あるいはオーディンのほうが背が低いだけなのかもしれないが。

「知らないというのは恐ろしいものだね」

 オーディンが一歩、まるで気圧されるように下がって言った。

「何が、だ」

「シグルド、それは火種だ」

「は?」

「火種だ。休眠状態の〈火竜ファヴニル〉だよ」

「おまえ、何を言っている………」

 シグルドは直感的にオーディンが少女に害を加えようとしていると思い、背中に庇ってオーディンと向かい合った。


 オーディンは呆れたように溜め息を吐く。「魔法を知らないきみに理解できないのは詮無いことではあるがね………そんなに警戒しなくても良いだろう?」

 そう言いながら、オーディンは一度引いた足を一歩前へと進める。と、いつのまにかその手に槍が握られていることに気づいた。隠し持っていたのが意外なほどの長さの投げ槍ジャベリンだ――小柄なオーディンの体躯には相応しくない。シグルドは少女に向けられたその槍先を掴んだ。

「……シグルド、ぼくはその子を殺したりするつもりはないよ。その子に出会えたのは僥倖なんだ……わざわざきみのような人間族を使わなくて良くなったんだからね。害したりはしない。だから離してくれ」

 シグルドは離さない。なぜならば、オーディンはその言葉とは裏腹に、少女に対する明らかな憎悪の感情が見て取れるからだ。声はいかに落ち着き払っているとしても、独眼の色は誤魔化せない。少女はというと、きょとんとしているのだから、ふたりの関係についてはさっぱりわからないのだが――〈火竜〉だ? この何も考えていなさそうな少女が?


 ふぅ、とオーディンが見た目にそぐわない、老いを感じさせるような溜め息を吐く。

「これを使ってくれ」

 一歩下がってから放り投げてきたのは、黄金の指輪だった。内にも外にも刻まれた文様は《聖剣グラム》の刀身に刻まれたものによく似ている。

「《竜輪ニーベルング》……〈火竜〉の力を抑えるためのものだ。それをつけてあげて」

(〈火竜ファヴニル〉の力を抑える………?)

 オーディンはこの少女のことを「火種」だとか言っていたか。休眠中の〈火竜〉だと。オーディンがそれを信じているのなら、この指輪は――シグルドは己の指に指輪を嵌めようとした。繊細な作りの指輪は太い指には小さすぎるように見えたが、奇妙なことに嵌めようとした瞬間に指輪は膨らみ、指の根元まで入るサイズとなった。


 が、それ以上は何も起こらない。


 当たり前だ。魔法だ? 〈神々の宝物〉だ? そんな代物を、こんなただの子どもが持っているわけがない。オーディンが何を考えているのかはわからないが、何を言い訳にしても衰弱している少女に槍先を向けていいわけがない。指輪が膨らんだことは忘れて、シグルドはそんなふうに思った。

 武器を取り上げようとしたシグルドの指は、しかし槍からするりと抜けた。だけでなく、視線の位置が落ちた。膝をついてから、立っているだけの力が己の中から抜け出てしまったことに気付く。

「膝をつくだけなら立派なものだ。老いに抗えないように、魔法に抗う力はないのだから」

 投げかけられる声は高く、幼かった。だがその声の内に、その独眼の瞳の裏に、シグルドは老いた老人の姿を想像せずにはいられない。

「毒ではないよ。《竜輪》はそんなものではない。ただきみは少しばかり、動きにくくなっているだけだ」

 言いながら、オーディンは少女へと歩を進めた。ゆったりとした歩みでありながら、四つん這いの姿勢で、なんとか腹を地面につかずにいるのが精一杯というシグルドには止めようがなかった。


 オーディンは自分より背の高い少女に近づくと、無抵抗なその指に金色の指輪を嵌めた。ひとつ。ふたつ。みっつ。

 よっつ、いつつ、むっつ。ひとつ通されるたびに、少女の赤い瞳から色が光が消えていく。

 ななつ、やっつ、ここのつ――そして最後のひとつが小さな小指に収まる前に、シグルドはオーディンから少女の身体を奪って走った。

「まだ動けんだね。単に人間族だから魔法への抵抗力があるというだけではないな。シグルド、やっぱりきみに目をつけたのは間違いではなかったよ――結局は無駄だったとはいえね」

 オーディンの声は無視する。無視しなければ、走れない。足が重たい。重りを付けられているかのようだ。一歩、一歩と踏み出すだけでも意識しなければならない。大事なのは、その距離だけだ。離れている気がしない。必死でこちらは駆けている――駆けているつもりだというのに。あちらはただ歩み寄ってくるだけだというのに。


 少女の身体を確かめる。いまのシグルドにはずしりと重たい身体だ。息は、している。しているが、あまりに弱々しい。鼓動も弱い。瞳には何も映っていない。虚ろだ。死にかけだ。死んではいないというだけだ。

 十のうち九の指に嵌められた黄金の指輪に手をかけるが、抜けない。まるで一体と化してしまったかのように、指輪は指に吸い付いている。

「シグルド、《竜輪》は〈神々の宝物〉だ。抜けない。さて、どうするつもりだ? 指を切断でもするかね? その少女の指を。それだけの度胸があるかね? それで〈宝物〉が止まると思うかね? シグルド、きみには知識が足りない……魔法に関する知識が。ゆえに行動には――」

 歩み寄ってくるオーディンの言葉は無視して、シグルドは腰に挿していた短剣を抜き、その柄で指輪を叩いた。だが、びくともしない。ただの混ぜもの入りの金なら、破壊できないにしても歪むくらいはするはずなのに。

「それは〈神々の宝物〉だ。〈宝物〉は破壊しえぬものだ――きみは知らないか、シグルド?」

 シグルドは短剣を捨てた。

 代わりに抜いたのは、腰の長剣。刀身に見事な彫り物の入ったその剣の名は、《聖剣グラム》。オーディン曰く、〈神々の宝物〉である。

 シグルドはその剣先を、少女の指に叩きつけた。少しでも剣先がぶれれば、刃は指輪ではなく少女の指を切断するだろう。

 だが結果として、指も――そして指輪も切断されることはなかった。指輪のせいで衰えているとはいえ、両手で力いっぱいに剣を振るったのだ。それなのに、指輪は砕けないのだ。傷つきさえしない。

 しかし歪み、緩んだ。


「シグルド、やめろ!」


 出会って以来、初めてオーディンの声に焦りの色が浮かんだのがわかった。シグルドは止まらない。剣を叩きつける。《聖剣》でも〈神々の宝物〉はやはり破壊し得ないが、歪ませることならできる。小さな指輪に剣先を叩きつけるのは、少女の衰弱していくさまを見続ける容易だった。

 砂漠は追いかけてくるオーディンの足を僅かながら足止めするのに役に立った。すべての指輪を歪め、引き抜く。途端に、半ば死にかけだった少女の頬に赤みが差し、瞳にも光が戻る。体温は上がり、指にも暖かさが戻った。笑顔を見せ、口元には牙が見える。指は節くれだち、腕は伸びていく。髪はざわつき、燃えるように赤く染まった。口は裂けていき、いまや歯は剣先よりも鋭かった。背からは翼が生え、身体はシグルドの何倍にも成長していた。

 炎を吐き、街を焼くその姿は。


 火竜ファヴニル。


 それからひと月後、シグルドはアッティラ王の軍勢に捕らえられ、絞首台で死を待っていた。

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