第6.17話 火竜ファヴニル、解き放たれること
「人間族たちよ、下がれ」
街中の広場に設置された絞首台は人々に取り囲まれていたが、その人垣は女の声で簡単に開いた。
姿を現したのは、薄衣のような衣装しか身に纏っていない女だった。長い銀髪に灼けた肌はそれだけでも人目を引くが、そうでなくても目立つ容姿だ。一言でいえば美女だった。戦いに似つかわしくはない装束ながら、手には長い剣を携えていた――《聖剣グラム》。かつてシグルドが〈竜殺し〉となった剣を。
誰もの視線を集める中、その闖入者は手に持っていた長剣を振った。剣はかつての剃刀と同様、ひとりでに空を翔けてシグルドを吊るそうとしていた絞首台の縄を断ち切り、シグルドを拘束から解き放った。
空翔ける剣に手を伸ばすと、まるで吸い付くように柄は手に吸い込まれてきた。シグルドは襲い掛かる死刑執行人たちの武器を退け、女の元へと向けて走った。
女の身体を抱き上げて、そのまま市街地に逃げ込む。
「なんだ、それだけ動けるのに、なぜあの兵士たちに捕まった?」
抱えられたまま、なぜか偉そうに《聖剣》を持ってきた女は言った。
「おまえは………」
「ブリュンヒルドだ。主神オーディンより遣わされて来た」
女の身体を下ろし、改めてその姿を観察する。褐色の肌に銀髪という容姿は〈
「左目を……」
「なんだ?」
「左目を、見せてみろ」
ブリュンヒルドを名乗る銀髪の女は、首を傾げてから左目にかかる髪をかきあげた。そこには碧眼がある。オーディンの独眼とは違う。
「もういいか?」
という疑問に、頷いて返してやる。
「オーディンより遣わされて来た、だと?」
「その通りだ、〈竜殺し〉。おまえの様子を見に、な」
「オーディンは、まだおれの力が必要だと言っているのか」
「否」
てっきり肯定されると思っていただけに、女の言葉は意外だった。
「もうオーディンはおまえのことは諦めた。自由に生きろと、そう言っていた。ただ、死んではくれるなよ、と」
「だが、あんたは――」
「わたしが来たのはおまえに危機が迫っていたからだ。〈竜殺し〉があの程度の数の人間族に捕まるとは、お笑い草だがね。あれだけ動けるのなら、捕まりはしなかっただろうに」
その通りだ。最初から本気で戦えば、たとえ相手がどれだけであろうと、ただの人間族がただの武器を持っているのであれば、負けなかっただろう。生き続ける中で、シグルドの身体能力は《
「……オーディンは以前に、残る〈災厄〉は六柱だと言っていた。それは事実か?」
切り裂くもの、〈
腐らせる病、〈
亡者を蔓延させる、〈
あらゆるものを喰らい尽くす、〈
風化をもたらす、〈
そして〈
「そうだ。〈
「人の身に封じているということか?」
「おまえとは少し違うがね……そんなところだよ」
「残り六柱。それなのに、オーディンはおれの力は必要ないと言ったのか?」
「そうは言ってはいない。ただ、〈独眼の主神〉は……いまは身を隠さなければいけなくなった。これまでならば、おまえを戦士として戦わせて災厄退治を助けることができただろうが、主神がいないのであればそれもできない。であれば、〈火竜〉を身に宿すおまえは戦わさせぬほうが良いと判断しただけのこと」
「オーディンが、身を隠す? どういうことだ」
「理由は言えない。隠れている場所も言えない。おまえから漏れては元も子もない」
「言え、女」
胸倉を掴もうとしたが、ブリュンヒルドは薄衣のような布しか身に纏っていないため、それを掴むと引き千切れてあられもない姿になってしまいそうだったので、声で脅すだけに留めた。
「言えん」
だがブリュンヒルドは頑として跳ね除けた。彼女の足が震えているのが見えたが、どれだけ脅し透かしてもオーディンの居所を喋ってはくれないように感じた。
「オーディンは、〈災厄〉の討伐を諦めたのか?」
とシグルドは怒りを露わにした。自分が生を諦めて〈火竜〉を世界に解き放とうとしていたことは棚に上げていた。
「そうではない。〈災厄〉は対処しなければならない問題だ。だが………」
「おまえに協力する」
「なんだと?」
「〈災厄〉を討伐する。残り六柱だ。そうだろう? おれの身体には確かに〈火竜〉が宿っているかもしれないが、死ななければ何の問題もない。だから、おまえたちに協力させろ」
ブリュンヒルドは唖然とした顔をしていたが、しばらくしてから質問を投げかけてきた。
「ひとつ、質問がある——かつて〈独眼の主神〉にはわからぬことがあった。おまえのことだ。おまえはただの人間族でしかない。それなのに、なぜ〈災厄〉を討伐しようとしていた? 討伐しようとする? おまえと〈災厄〉との間に、何があったのだ?」
「ここはおれが生きている世界だ。それを脅かす災厄を退けようとして、何か問題はあるか」
シグルドは正直な気持ちをぶつけた。
***
***
シグルドはそれから、ブリュンヒルドと九世界を巡った。
〈災厄〉を討伐するにあたり、ブリュンヒルドからは4つの力を与えられた。
一つ目は《聖剣グラム》。かつて〈火竜〉を討伐するときにも使ったこの剣は、驚くほどシグルドに馴染んだ。
二つ目は《狼套ウーフヘジン》。これは本来〈
三つ目は《竜輪ニーベルング》。既に身に付けていたが、徐々にそれは機能をしないようになっていっていた。いや、正確にいえば、機能はしているのだが、シグルドの中の〈火竜〉がだんだんと強大になっていったのだ。だから《竜輪》の数を増やした。指では足りなくなれば、髪にも結んだ。指輪の数を増やすたびに、シグルドの身体的な機能は衰えたり、感覚を失っていった。代表的なのは発声能力だったが、もともと口数が少ない部類なので大した影響はなかった。体力の衰えは、すぐに慣れた。
四つ目は、不死の力だ。
ブリュンヒルドはシグルドの身にルーン文字を刻んだ。魔法の文字だ。〈神々の宝物〉の魔法の力を発生させている文字だ。つまり、シグルドはブリュンヒルドの道具になったというわけだ。
戦った。彼女の剣となったシグルドは、戦い続けた。
〈
〈
〈
〈
〈
ひとつの〈災厄〉を封印するたび、シグルドは世界に関する新たな知識を得た。この九世界が〈霜の巨人〉ユミルの死体だというのは、単なる御伽噺ではなかった——そう、死体は腐るものだ。死体には虫がたかるものだ。死体は焼かれるものだ。そうなのだ。
残りは一柱。〈
あまりに長い——時間の感覚を忘れるほどの長い旅ではあったが、唯一この〈災厄〉だけは出会うことがなかった。かつてオーディンが大きな傷を負わせたというので、それが元で死んだのではないかとさえ思った。「そうかもしれない」とブリュンヒルドは言った。だが、死体を確認するまではシグルドとブリュンヒルドの旅は続いた。
そんな最中、〈
シグルドとブリュンヒルドは、これまで何度も〈力の滅亡〉を体験してきた。亡者や災厄に起因して、火の国の魔人スルトが現れる。スルトの目的は、シグルドたちと似ている。災厄たちの排除だ。だが〈
それなのに今回の〈力の滅亡〉でスルトの前に姿を現してしまったのは、〈魔狼〉と〈世界蛇〉をきょうだいに持つ〈半死者〉の少女をシグルドが助けようとしてしまったからだ。だが元はと言えば、そもそも亡者や災厄に呼び寄せられるはずのスルトが〈
原因は〈第一平面〉であまりにも多くの魔法が使われたためだろう。亡者や災厄と同様、魔法もスルトにとっては敵だ。
だがなぜ、魔法が使われる事態になったのか。〈世界蛇〉が飛び込んで来たこと、〈雷神〉の怒りが巻き散らかされたこと、〈魔狼〉の束縛と解放、〈
(いや………)
もはやそれを考えている余裕はない。目の前で起きているのは、浄化の炎による破壊だ。このままでは〈
シグルドの不死の
だが、ブリュンヒルドが生きているのであれば——たとえシグルドが〈火竜〉と化しても勝機はある。
シグルドは己の髪を断ち切り、髪に結んでいた指輪をすべて解放した。剣で打ち、指に嵌めていたものも外した。すべて。
果たして自分がブリュンヒルドを助けようとしているのは、打算的な——ただ〈火竜〉を野放しにしたくはないという理由だけだろうかと自問する。わからない。わからないまま、胸に燃えていた炎はシグルドの全身を焼き尽くした。
かくて〈竜殺し〉は〈火竜〉と化し、立ち尽くしていた〈火の国の魔人〉を飲み込んだ。
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