第6.4話 火の国の魔人スルト、聳え立つ白い壁を見ること

「う、上! 上!」

 と抱えているイドゥンが後方上空を指差さなければ、突如の事態には対応できなかったに違いない。それは空から降ってきた。

 落ちてきた勢いそのままに、それは納屋の脇の地下通路への入り口を塞いでいた岩にぶち当たった。岩は割れ、地下通路へと通れるようになった。なんと幸いなことだろう。そう思ったのはおそらくブリュンヒルドだけで、ウルやヘルなどは驚愕と恐怖が入り混じった表情をしていた。たぶん、落ちてきた物体が〈狼被り〉のシグルドで、岩にぶち当たった彼の身体は抉れ、血と肉が周囲に飛び散っていたからだろう。

 しかしそのことは気にも留めず、ブリュンヒルドは物言わぬ物体となったシグルドに声をかけた。

「シグルド、事情を説明すると、エリに避難通路まで連れてきてもらったのだが、入り口が塞がれていて入ることができず、往生していた。そこにおまえが降ってきて入り口をぶち壊したわけだが、おい、生きているか?」

 もちろんブリュンヒルドは、〈竜殺し〉が死んだなどとは思ってはいなかった――それがシグルドという男だからだ。


 事実、落ちてきた衝撃や血塗れになった身体などは意に介したふうもなく、シグルドはむっくりと起き上がった。その身体には、もはや落着のときの怪我はない。イドゥンの身体を固まっているウルに押し付け、ブリュンヒルドは腰に巻いていた布地で彼の顔を拭ってやった。狼の被り物が脱げてしまったがために露出している編んだ長い黒髪や傷だらけの上半身にはまだ血糊が付着してはいたが、昔の負傷以外の傷跡はもはやどこにも残ってはいない。

 シグルドの表情は平素のそれに近かったが、彼が飛んできた方向からは背を向けたまま、じっくり考え込んでいるようにも見えた――といっても、彼はだいたい何も考えていないような表情で、いまもそれとは大きく逸脱していないわけだが。


 フェンリルだ、と予想がついた。人神としては大柄な彼をここまで投げ飛ばせるのは彼以外にはいない。

(フェンリルが本当にシグルドをぶん投げたんだったら………)

 空高くまで投げ飛ばされてなお生きているかどうかというのは、強いだとか弱いだとかの概念を超えている。人神であれば普通は死に、運が良くても少なくとも足と腕が折れるだろう。シグルドが死なないと知っているのは、ブリュンヒルドだけだ。もちろんフェンリルは知らないはずで、それなのに彼をこれだけ高くまで投げ飛ばしたのは、もはや彼には冷静な判断をするだけの体力が残されていないということか、それとも――追い詰められたことで本能的に〈竜殺し〉の力を見抜くほどに研ぎ澄まされているということか。


(どちらにせよ……フェンリルは死ぬ)

 それだけは、間違いない。イドゥンたちをスリュムヘイムの外に連れ出すためにブリュンヒルドはフェンリルがいるであろう方向に背を向けた。フェンリルの最後の願い――イドゥンたちを無事にこの街から逃がすこと――を聞き届けるために。


   ***

   ***


 目の前で、両断された三つめの頭の双眸がぎょろりと動く。その瞳の先にあるのは己を殺す存在だ。頭を割られてなお、狙いは外さない。四つの手が同時に動く。だがそのうちみっつは半ばから断たれるか、真ん中で胡瓜のように両断されるか、炭化するほどに焼かれているかで警戒する必要はない。

 だから火の国の魔人スルトが警戒するのは、たったひとつの腕だけで良かった。《吼角ヒミンヒョールト》を持つ腕を。


 騎乗のままで、スルトは《炎斧レヴァンティン》の切っ先を迫りつつある拳に向けて構えた。それだけで良かった。拳圧はスルトの黒髪を揺らしたが、それだけだ。《炎斧》に触れた先から拳は半ばから断たれていく。《吼角ヒミンヒョールト》ごと、だ。レヴァンティンの前では〈神々の宝物〉など、ただ少し硬いだけの武具でしかない。亡者の拳が鋭かっただけ、さながら大根の皮を剥くかのように、するすると刃は亡者の腕に入っていく。

 縦二つに両断された腕を足場にスルトの馬は肩上へ飛び移った。醜い三面に向け、駆ける。もはや四つ腕のうちのひとつも機能しないとなれば、頭にたどり着くのは簡単だった。先の一撃では頭を割ってやったが、それでは足りなかったらしい。今度は確実に仕留める。


〈火の国の魔人〉の三日月斧は巨大な亡者の太い首すらも意に介さず、赤熱した刃は天の吠え手ヒュミルの首を両断した。首が落ちるまえに、〈天の吠え手ヒュミル〉は一言だけ呟いた。

「エリ………」

 ぐらりと頭が揺れ、それから落ちた。もはや手にも足にも力はなかった。切断面からは血が噴水のように吹き出した――巨大な亡者なだけ、爆発したかのような勢いだ。血飛沫はスルトにも降り注いだが、身体の熱が一瞬にしてその血を蒸発させた。


 エリという名は知っている――ほんの少しだが。スルトは己が生み出した炎の巨人が知覚した情報について、その残滓を吸収すればできる。その情報収集の精度は炎の巨人の残滓の大きさにも依存するため、完璧とは言い難いが、このヒュミルなる亡者がエリという巨人族の女を妻として連れていたことや、女を逃がすために〈魔狼〉に託してこの場を守ったことなどは知ることができた。

「また巨人族の女か」

 また、というのは目の前の死した亡者に関してではない。以前の記憶の出来事だ。九世界誕生以来、悠久ともいえる歳月を生きてきたスルトにとって記憶の混濁は激しかったが、心に焼きつくほどの出来事だけは鮮明に思い出せる。


 妖精王フレイ。此度の〈力の滅亡ラグナレク〉で最初に出会った男は、巨人族の女を守ろうとした。あの男は面白かった。魔法を使い、憎き〈世界樹〉の根でスルトを拘束しようとさえした。事実、その行為は半ばまで成功した。

 フレイの拘束は大したものだった。〈世界樹〉によって閉じ込められてしまえば、この九世界の物質に対しほとんど絶対ともいえる力を持つスルトでさえも、逃げることは叶わない。実際にそうならなかったのは、フレイの作り出した世界樹の檻が完璧ではなかったからだ。隙間があり、そこをどうにか広げて抜け出すことができた。あの男がもっと慎重に檻を作ろうとしていたら、スルトは完全に封印されていたことだろう。

(あの男、いったいどこへ逃げたのやら)

 魔法を使うならば、それは九世界を害する者ということになる。〈呪われた三人〉などに比べれば罪は軽いが、それでもスルトの処罰対象であることには変わりはない。あの男は焼き殺す。できればスルト自身の手で、だ。どちらにせよ、炎の巨人程度ではあの男を捕らえるのは難しいだろうが。


 少なくとも炎の巨人が監視する限りにおいては、スリュムヘイムという名のこの街には、残念ながらフレイの形跡はなかった。だが変わりに得たのは、フレイの妹だという少女がいるという情報だった。名はイドゥンとかいったか。

《金環ブリーシンガメン》という〈神々の宝物〉を持っているそうだが、ただの〈宝物〉所有者さえ処罰するほどにスルトは狭量ではない。もちろん目につくところに〈宝物〉があれば破壊するだろうが、わざわざ追って焼き殺したりはしない。だがフレイの妹ということなら、追いかけて利用するだけの価値はありそうだ。


 スルトが炎をばら撒けば、その火種は炎の巨人となる。炎たちは既にスリュムヘイムをぐるりと取り囲み、中央に向けて進行をしている。どうやら〈神々の宝物〉を持つ者が街の中にもおり、数体は倒されたらしいことを感じ取りはしたものの、時間の問題だろう。スルトの力は、この九世界が死なない限り、無限だ。

 だが巨大な亡者の死体をあとにしてスリュムヘイムの街中に入ったスルトは、眼前の光景に目を奪われた。

(霧か………?)

 眼前にあった白い塊の高さはスリュムヘイムを囲う壁の半分程度だが、炎の巨人よりはずっと高い。もちろん人神と同程度の上背しかないスルトに対しては、視界を覆い隠すには十分だ。霧にしては、しかしあまりにも形がはっきりしている。ふわふわとした外観を他に表そうとすれば、虫の繭だろうか。スリュムヘイムを囲う他の炎の巨人たちによれば、どうやらその白い壁はスリュムヘイムをほとんど覆い尽くすように全方位に展開されているらしい。

「ふむ」

 得体は知れないが、恐るほどのものではないだろう――そう考えてスルトは再度炎の巨人たちに進撃指示を送った。亡者を焼け、宝物を壊せ、そしてフレイの妹を捕らえろ、と。


 だが白い壁に近づこうとした炎の巨人の身体は止まり、ぐらりと揺れて倒れた。そのまま形を失い、炎は己自身を焼きつくし、そして消えた。

(なんだ……?)

 いま、一体、何が起きた?


 もう一度、炎の巨人を近づけさせてみる。今度は集中して、炎の巨人たちの動向に注目する。すると、何が起きたのかが見えた。炎の巨人たちが壁に一定距離まで近づこうとした刹那、白い壁が歪んで何かが飛び出してくるや、炎の巨人の頭を正確に穿ったのだ。

(短刀……いや、錐か)

 握りに糸を付けられた錐は、炎の巨人を撃退するのだから〈神々の宝物〉であると考えて間違いなかろう。〈神々の宝物〉の中には、あのようなものもあった。《穿錐イーヴァルディ》だったか。狙った場所へと正確に突き刺さる錐だ。

「これでは何体炎を送り出しても無駄だな」

 一通り試してみて、スルトはひとちた。多方面から複数の炎巨人を同時に接近させても高速で射出回収される《穿錐》にすべて貫かれてしまい、逆に炎巨人を連結させて巨大な炎巨人を作り出してみても、錐を防ぐには至らない。ただ、巨大な炎巨人を作って白い壁を上空から見たとき、その白い壁が半球状の形状をしており、上空から見た形は正円というよりは楕円であるということがわかった。

(おそらくは楕円の中心に、あの錐の所有者がいるのだろうな)

 錐を引き抜いていた糸から考えるに、〈魔狼フェンリル〉だとかいう犬の姿をした亡者だろう。取るに足らない獣だ。スルトは炎巨人たちを一度己の中に引っ込めて、馬を繭の近くまで近づけた。

 予想通り、一定距離まで近づいたところで錐が白い壁を突き破って飛んできた。一撃はスルトの乗っていた燃え盛る馬――ローギの眉間を穿ち、次にそれはスルトを狙った。彼女はそれを避けるでもなく、受け止めるでもなく、ただ突き刺さるままに任せた。錐の先は、正確にスルトの額を射抜いた。


火の国の魔人スルト〉は外見がどれだけ人神に似ていようとも、人神ではない。もちろん亡者でもない。九世界を生かすために存在しているシステムだ。ゆえに額を錐で貫かれた程度では死なないし、痛みもない。

 錐は容易に引き抜くことができなかったが、《炎斧レヴァンティン》で《穿錐》の柄を切断してやると簡単に抜けた。柄に刻まれていた魔力が切断されたことで効果を及ぼさなくなり、所有者以外には引き抜けない魔法が解けたのだろう。


 崩れ落ちた馬から身体を起こし、スルトは宣言した。

「さて、犬よ。次の手は一体何があるのかな?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る