第6.3話 魔狼フェンリル、竜殺しと最後の会話をすること
慟哭が響く。
〈
(早く、行かなければ)
フェンリルは《銀糸グレイプニル》の糸を腹から後ろ足へと這わせた。焼け朽ちてしまった足の切断面は、不幸中の幸いでもはや痛みを感じない。しかし痛みを感じないということは感覚がないということだ。おまけに炭化して砕け、短くなった後ろ足ではまともに走れそうにもない。かと言って前脚だけで這って進むのでは、この場から逃げることはできそうにもないし、己の目的も果たせそうにもない。
考えついた手段を実行しようとしていたとき、フェンリルの耳は前方から走ってくる
スリュムヘイムの街路を駆け抜けてフェンリルの眼前に現れたのは、もはや狼の被り物をしていない〈
「なんでここにいるんだ」
とフェンリルは問いかけた。
出来る限り、イドゥンたちには足の傷は見せないようにしたつもりだが、シグルドとブリュンヒルドはフェンリルの後ろ足が半ばから焼け焦げて使い物にならなくなってしまったことを知っている。
シグルドとブリュンヒルドはフェンリルとは明らかに違う。ヘルやヨルムンガンドのようにきょうだいではない。イドゥンのように友ではない。かといってウルやエリヴァーガルに対するものほど関係が希薄というわけではなかったが、彼らは彼らなりの目的を持っており、だからこれまで行動をともにしてきたのだ、とフェンリルは気づいていた。ブリュンヒルドはともかく、シグルドは持っている〈神々の宝物〉も含めて並の人神ではないのだから。
だがフェンリルが「なぜここにいるのか」と尋ねたのは、彼らの目的とフェンリルを助けることがそぐわないから、という理由ではなかった。彼らなら、見ただけでフェンリルを助けることはもはや叶わないということを理解できたであろうと思ったからだ。
逆にいえば、助けられるなら助けてくれるだろうとも思っていた――だから、フェンリルは彼らに託した。ヘルを、ヨルムンガンドを、そして、イドゥンを。ふたりにとっては足手まといでも、助けてくれるだろうと、そう思った。だから託したのだ。そうだ。それなのに――。
「みんなのところへ戻れ。見ての通り、おれはもう駄目だ。死ぬ」
言いながら、じわり、とフェンリルは己の瞳に涙が浮かぶのを感じた。死ぬ。理解していたその事実を口にすると、急に感情が湧き出てきた。恐怖ではない。悲哀だ。もちろん死への怖さもあるが、それ以上に、死ぬことによってもはやロキにもイドゥンにも触れなくなることが悲しかった。
そんなフェンリルに対し、シグルドは何も言わなかった――あるいは言えなかった。彼は、そうだ。そんな人間だ。出会ってから一度たりとも言葉を発さない――発せない。
だが常に彼の行動は、雄弁に彼の意思を伝えてきた。〈
そしていま、彼はフェンリルの身体の下に潜り込むや、その巨体を持ち上げようとしていた。
(こいつ、こいつは………!)
馬鹿なのか。《竜輪ニーベルング》の戒めから解き放たれたフェンリルはもはや小さな犬ではない。〈魔狼〉だ。大柄な巨人族でさえもひと飲みにしてしまうほど巨大な化け物なのだ。それを、いかに屈強とはいえ、ただの人間族が持ち上げられるものか――。
そんな当たり前の考えは、しかし現実的な行為によって覆された。フェンリルの巨体は徐々に浮いていき、ついにはシグルドの背に担ぎ上げられた。だらりと垂れ下がった四肢は地面に着いていたが、それでもフェンリルの体重は完全にシグルドの肩にのしかかることになっていた。
「おまえ………」
これまでシグルドが苦戦をしたところなど見たことはない。得体の知れない〈白き〉や燃え盛る炎の巨人相手でも、だ。また、スリュムヘイムまでの旅の中でどれだけ重い荷物を背負わされたとしても、けろりとしていた。
だからシグルドが息を切らせ、あらん限りの力を振り絞っているのを見るのは初めてだった。持ち上げられているために顔は見えないが、息を切らせ、力を総動員し、苦悶の表情を浮かべているであろうことは想像できた。
そうしてシグルドは、フェンリルを持ち上げたまま歩きだした。地下の避難通路の入口がある方向へ向けて、一歩、二歩と。その歩みは幼児よりも遅い。だが彼は歩き続けた。フェンリルを放り出すことなく。
「だが入口に辿り着けても、逃げられないんだ。忘れたのか? あそこは狭いんだ」
《銀糸》を伸ばす。重苦しい足取りのシグルドの脚へと向けて。下を見ていないシグルドを転ばせるのは簡単だった――その結果としてフェンリルは顔面から石畳に叩きつけられることになったが。
急に転ばされたことで、シグルドはフェンリルを睨んだ。ま、当然だろう。何をするのだ、馬鹿野郎、とそんなことを言いたいのだろう。
「おまえは強いんだろ。だったら、あいつらを守ってやってくれ」
フェンリルは絡ませた《銀糸》をそのまま水平に振り回した。〈魔狼〉の体格からすれば、シグルドの身体は軽すぎる。よくもまぁ、これだけ小さな身体でフェンリルを持ち上げたものだ。こいつは本当に強いのだな。
頭上で数回転させたところで《銀糸》の端を離すと、シグルドの身体は弧を描いて飛んでいった――このくらいの飛距離、あの男なら怪我などすまい。フェンリルは〈狼被り〉が消えていく空を見送った。
シグルドはフェンリルがこの場から逃げ出す助けにはならなかった。どだい、フェンリルは死にかけているのだから、逃げるも何もないのだ。
だがふたつ、贈り物をしてくれた。ひとつは彼が助けようとしてくれた行為そのもの。フェンリルをあくまで助けようとしてくれたその行為には勇気づけられたし、あれだけの体格差がある人間族がフェンリルを持ち上げるとは想定していなかった。あの男なら、イドゥンたちを守ってくれるだろう。
もうひとつは、彼が持っていたもの。シグルドを投擲する直前、フェンリルは彼の懐から、あるものを引っ張り出していた。
それは、人神の掌で握れる程度の小さな錐。エリヴァーガルを連れ去ろうとした巨人族、アルフリッグが持っていたものだ。
(母さんから昔聞いたことがある)
ロキはフェンリルに、いくつもの寝物語をしてくれた。その中に、第七世界ニダヴェリールの小人たちの物語もあった。霜の巨人ユミルの身体から九世界を作り出した〈最初の三人〉ことオーディン、ヴィー、ヴェリらが、小人たちに依頼して〈神々の宝物〉を作り出すお話だ。その中に、狙った場所を的確に突き刺し、一度刺されば簡単には抜けなくなる魔法をかけられた錐も登場していた。お話の中では、〈神々の宝物〉を作るだけ作らせたあとに小人たちに対価を払わずに蛇になって逃げ出そうとしたオーディンの身体を押さえつけるため、小人たちは新たに作り出したその錐で刺したのだ。
名は、確か《
《銀糸》の先に《穿錐》を握ると、その切っ先を背後へと叩きこんだ。狙ったのは背後から接近していた炎の巨人の頭部だ。錐の先端が炎の巨人の頭部を穿つと、巨人は倒れ、炎は徐々に小さくなっていった。
フェンリルは安堵の吐息を吐いた。身体と一体化してしまった《銀糸》は焼かれてしまい、後ろ足に絡む《縛鎖ドローミ》と《封錘レージング》は怪我で振り回せなくなってしまったが、この小さな《穿錐》でも〈神々の宝物〉であれば、炎の巨人を撃退できる。
まだ、まだ終わらない。
フェンリルはもうすぐ死ぬ。だが、まだ死んでいない。
全身の毛が逆立つのを感じる。腹から伸びる《銀糸》が延びていく、延びていく。ブリュンヒルドによれば、この糸はフェンリルの臓腑に同化しているらしい。ではいったい、どれだけ伸ばせるのだろう。際限なく延ばしていく。
徐々に薄れる意識の中で、フェンリルはふと思い出した。母が話してくれた寝物語だ。幾つもの寝物語の中で、フェンリルが好んだのは男が美女を助ける話だった。その主人公の男はどこかの国の王だったり、王子だったりして、美女は姫だった。そして敵は、醜悪な竜や化け物だった。
フェンリルは化け物だ。王子ではない。だが、イドゥンは可愛らしくて、だから姫だと、そんなことを思いながら、腹から伸びる糸は徐々に、徐々に、スリュムヘイムを包み込む繭のように拡大していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます