第6.5話 火の国の魔人スルト、銀糸の中で惑わせられること

「さて、犬よ。次の手は一体何があるのかな?」

 そんなふうに大見得を切ったことを、〈火の国の魔人スルト〉は覚えている。いや、見得ではなかった。実際、〈神々の宝物〉が通じる炎の巨人相手ならともかく、スルトの炎に対して抗える人神じんしんなどあり得ないはずなのだ――あの憎き〈原初の三人〉と〈世界樹ユグドラシル〉を除けば。

 だから〈魔狼フェンリル〉がその銀の糸でスリュムヘイムの街を包み込んだところで、《穿錐イーヴァルディ》の針を失ったとなれば、もはや抵抗など叶わず、せいぜいが時間稼ぎしかできないはずなのだ。


 だが、実際はどうだ。


 銀の繭の中に踏み込むと、視界はせいぜい手の届く範囲に限定されるようになった。糸は柔らかかったものの、手で払った程度では切れない弾力性を備えており、となると切断するか焼くかするしかないのだが、そこら中で糸が絡まりあっているため、三日月斧状の巨大な《炎斧レヴァンティン》を振り回すのは困難だ。とはいえスルトが〈火の国の魔人〉であれば、こんな糸など溶かすことなど容易なことだ。この《銀糸グレイプニル》という糸は、本体は臓腑に絡みつく糸玉だが、一度寄生が始まるとその体組織を使って糸を伸ばしていくという代物だったはずだ。つまり、身体の外に出ている糸は半分はもとは筋肉や脂肪といった部分であり、〈神々の宝物〉ではない。ゆえに《炎斧》でなくとも焼くのは簡単だ。

 実際、焼くのは簡単だった。だが、焼き尽くすのが簡単かというと、そうではなかった。

 スルトの指先に触れ、火の点いた《銀糸》はぐるぐると丸まっていき、引き千切れる。さながら自然死アポトーシスして他の細胞を活かすかのような機構で、スルトは僅かに親近感を持った。

 とにかく、炎が通らない。火が点くのに、だ。点いたそばから千切られてしまう。炭化した糸はいつの間にか他の糸先で回収されてしまったので、もしかするとまた元どおりの糸にするための養分に使われるのかもしれない。


 それでも前に進みながら焼き続ければ、いつかはスリュムヘイムの中心にでも出るだろう、と思っていたのだが、燃え盛る手で糸を退けながらたどり着いた場所は、最初に入ってきたはずのスリュムヘイムの関所だった。どうやら歩いているうちに方向感覚を狂わせられてしまったらしい。

「ふむ」

 意外とやるものだ、とスルトは感心した。犬だ犬だと見くびってはいられない。


 考えを落ち着けるために、一度深呼吸をして周囲にばら撒いた炎の巨人たちの動向を探る。ほとんどは銀の糸壁の中に入るやいなや〈魔狼〉の錐に貫かれてしまった。新たに何体か放ってもみたが、銀糸に貫かれるか、でなければスルトと同様に繭の中で迷わされてしまい、入ってもすぐに外に出てきてしまう。

「方位をはっきりと定めて歩かなくてはいかんな」

 独り言ち、改めて歩み始める。繭の中に一度入ってしまえば、右も左も上も銀の糸で囲まれてしまい、太陽の位置すら定かではなくなる。だが、スルトには目を瞑り、耳を塞いでもなおその場所がはっきりと探知できるものがあった。〈世界樹〉ユグドラシル。この九世界に巣食う異物であり、スルトが敵対するその存在は、最大の敵対者であるゆえにどこからでもその位置を感じ取れた。感じ取れるのに、手を出せないこの力を歯痒く思わずにはいられないときもあったが、いまはこの能力がありがたい。


 いまいる場所からもっとも近い地上に出ている〈世界樹〉の根は、向かって左斜め前の方向にある。スリュムヘイム近くのバリだとかいう名の森がある方向だ。つまり、このもっとも近い根を少なくとも左方向に取っているうちは、反転して元の位置に戻ってしまうこともないはずだ――そう判断して、実行してみる。

「ふむ」

 スルトは口の端を持ち上げた。如何に視界を銀色の糸が覆おうとも、スルトの能力を防ぐには至らない。やはりこの方法なら、問題なく進める。進めるが――スルトは眉間に受けた衝撃で尻餅をついた。頭をぶん殴ってきたのは糸の塊だ。熱でその糸を変形させることはできるが、一瞬で溶かすには至らない。糸の塊は軽いはずだが、随分と衝撃があったのは、中に何か入っていたか。《穿錐》の柄かもしれない。

「この先には行かせたくないというわけか」

 とはいえ警戒さえしていればこの程度の妨害程度は防げる――そう思って前方に注意を向けていたスルトは、今度は足を後ろに引きずられて転ばされた。頭をしたたかに打ち付ける。痛い。〈火の国の魔人〉であるスルトにも痛みはある。足に熱を込めて糸を燃やそうとするが、その前に糸はスルトの身体から逃げていってしまう。

 気を取り直し、手をついて立ち上がろうとするが、その手を銀の糸が引きずって起立を阻んだ。


「くそが」


 スルトは身体を包む熱量を上げた。こうすると九世界への負担が上がるが、もはやそんなことを構ってはいられない。あの糞犬に、これ以上手を煩わされるわけにはいかないのだ。

 あの犬に、これ以上邪魔されるわけにはいかない。スルトは目標を変えた。先ほどから、糸の矛先が一方向からになっていた。スルトが糸に惑わされずに進み始めたのが予想外だったかもしれない。糸の攻撃は突発的なものだったのだろう――であれば、糸が飛んできた方向にあの犬はいる。一度方位がわかれば、〈世界樹〉の方位との対比で方位が理解できるので、もう惑わされたりはしない。

 

 熱量を上げた以上、もはや糸が飛んできてもそれらはスルトに触れる前に融解してしまう。《穿錐イリーヴァルディ》は柄を断ち切ったのでまともに機能しないだろう。もはや、何もできることなどない。

 一歩一歩、犬の方向へと近づいていく。時折糸は飛んできはするが、束ねられた糸でさえもスルトに触れるまえに蒸発した。

 近くにつれ、スルトには生物の熱量の位置を理解し始めていた。巨大な生物はこの付近には一体しかいない。〈魔狼〉。

 さらに歩みを早くしていく必要はなかった。スルトは見つけた。


 場所はスリュムヘイムの中央広場かもしれない。かつては人神が行き交う大通りがの十字路の中心であったのであろうそこには人工の池があったらしく、小さな石垣が円状に組まれていた。水はなかったが。そして、その中心にそれはいた。

 まさしくそれは巨大な繭だった。

 高さでいえばスルトの作り出す〈炎の巨人〉よりも大きいかもしれない。幅も人工池からはみ出すほどにあり、楕球状をしている。

 とはいえ、どれだけ巨大だろうと、どれだけの異形だろうと、スルトの熱の前には関係ない。

「さて、犬よ……」

 スルトは《炎斧レヴァンティン》の矛先を振り上げて、三度問いかけた。

「次の手は一体何があるのか――」


 最後まで言い切る前に、スルトは何かを浴びせられたことに気付いた。それが人工池を満たしていた水で、繭の中で蓄えられていたものだと気づくまえに、繭を突き破って現れた〈魔狼〉の大顎がスルトの身体に食いついた。

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