第5.21話 天地創造 - 2
(殴ってしまった)
子どもを殴ってしまったという、そのことについてだけ考えれば、夕美は肯定的にも否定的にも考えない。子どもというものは得てして獣のようなもので、言葉が通じないことも多々あるだろう。であれば言葉より強いもので訴えなければ理解されない場合もある。それが教育的目的を持っているのではなく、己の癇癪の結果としてであれば問題であり、今回の由実の場合はその問題の結果だった。だが、いま由実が後悔しているのは感情的になってしまったことそのものについてではなかった。
(眼の手術をしたばっかりなのに……!)
その義眼がどう特殊なのかはわからないが、少なくともオーディンの新しい左目はものが見えているようだ。つまり、視神経が繋がっているのだ。でなくても、頭の手術をしたばかりなのだ――であれば、叩いたことでどこかの血管や神経を傷つけてもおかしくはなかった。軽率だったのだ。やはり、自分は感情的になっていたのだ。
「でも、大丈夫だったんでしょ?」
吐露した自己嫌悪を受け止めたのは淡々とした声で、感情的ではないその言葉はむしろ下手に感情を篭めた慰めよりも夕美のことを安心させてくれた。
「たぶん……うん、あの子たち、医学系の論文とかも書いているみたいだし、いちおう知識はあるはずだから……手術そのものは問題なかったみたい」
「じゃあひとまず、そのことは置いておこう」と夕美の対面に座った男はワイングラスを置き、両の手を垂直に立ててスライドさせるジェスチャをした。「きみがしたいのは、その子たちを助けることなんだろう?」
それはそのとおりだ。夕美は対面の男――リーグ・ヘイムダルの言葉に頷いた。
研究所で子どもたちに食事をさせ、寝かしつけてからの退勤であれば、夕餉には遅かった。しかしリーグは外科医で、彼も手術予定によっては夕飯が遅くなるのは少なくない。今日は互いに都合の合う日で、街のレストランに来ていた。つまりデートで、相手もそのつもりで誘ってくれたはずだ。食事は美味いし、ワインも美味しい。なのに彼の勤め先の病院からは少し離れているのであれば、リーグが夕美のために選んでくれた店なのだということはわかる。わかるが、夕美はその良い雰囲気をぶち壊すようなまったく色気がない話をしてしまった――話さずにはいられなかった。
オーディン。あの〈
オーディンが無事だった――失ってしまった眼球はもう取り返しがつかないけど、少なくとも命は無事だったし、後遺症もなかった――というのは素晴らしいことで、しかし夕美の管理不行き届きは問題にされた。それはかまわなかった。というのも、もうあの子たちに向き合っていく自信がなかったからだ。何をしでかすかわからない化け物のように感じられてしまったからだ。
だが研究所から言い渡された謹慎は、たった一日で解かれた。というのも、新しくあてがわれた世話役にオーディンたちが満足しなかったから、ということだった。
「とにかく、戻ってくれ。今後は二度とあのようなことがないように」
研究所から通達されたのはそんな簡単な言葉で、となれば仕事に戻らざるをえなかったのだが、子どもたちの住む部屋へと向かうと、オーディンがいの一番に飛びついてきて、謝ってきた。子どもたちから謝罪の言葉を聞くというのは初めてのことで、その言葉は彼らがけして化け物ではなく、心ある人間であるということを実感した。
(この子たちをどうにかしないと、駄目なんだ………)
オーディンたちは人間で、しかし十分な倫理観を持たない。十分な教育を受けていない。十分な人間と触れ合っていない。だから、だからあんなことを仕出かした。
このままでは駄目だ。
だから夕美は決めた。あの3人の子たちを、研究所の手から逃れさせることに。
そのために実際に何を為すべきかということについて、夕美は悩んでいた。ギンヌガガップ研究所の行為を糾弾するのは簡単だ。新聞社でもテレビ局でも、児童虐待や人権侵害といった犯罪には耳聡い。現代ではインターネット経由で特定されないように情報をばら撒き、夕美の仕業であると発覚しないように告発することもできるだろう。
だがそうした場合、子どもたちは研究所にいたときとはまた別の特殊な環境に置かれることになるだろう。作り出された天才児として、人の目に晒されることは間違いない。夕美は、できることなら彼らをただの子どもとして扱ってやりたかった――彼ら自身がどう考えるにせよ、ただの子どもとして。
つまりはそれは、子どもたちを人間扱いしないということだ。
彼らの意思をまるきり無視するということだ。
果たしてそれで良いのか。彼らが研究を続けたいというのなら――あるいは天才児として脚光を浴びたいというのなら、そうさせてやるのが正しいのではないのだろうか。
夕美は間違っているのだろうか。
「さぁ?」とリーグの首が傾げられた。「わからないな……実際、子どもたちがどう感じるかは」
「リーグは……子どもたちの意見を聞いたほうが良いと思う?」
「意見を聞くのはべつに悪くないと思うけど、きみが良いというのなら、それを貫くべきだとは思う。子どもたちが何を言おうともね」
「でも、それは結局、子どもたちの意見を無視するってことでしょう? わたしは……それが正しいのかどうかわからない。オーディンの目のことも……なんで駄目なんだろうって聞かれたら、答えられないと思う。なんで叱ったのって。なんで目を交換しちゃ駄目なのって。だってあの子の新しい目はきちんと働いていて、普通の目よりもずっと機能があるみたいなんだもの」
「そりゃ、簡単だよ」と言って、リーグはグラスの中の葡萄色の液体を飲み干した。「駄目だからだ。自分の身体を傷つけること、他人を傷つけること、そうしたことは、駄目なことだ。駄目なものは駄目なんだって教えるのが、教育だろう? 論理じゃないよ」
「でも、それって感情的じゃない?」
「感情的でいいさ。感情を忘れたら、生きている意味からなくなってしまうからね」
わかったようなわからないようなリーグの言葉ではあったが、夕美はその言葉に勇気づけられた気がした。
勇気づけられたついでに、夕美はひとつ言わなければいけないことがあったのを思い出した。
「あの、リーグ、だから……こんなに世話になっているのに言うことじゃないかもしれないけど、ごめんなさい」
「何が?」
とぼけるような言い方だったが、リーグの声が上擦っているのがわかった。彼でも動揺するのだ、ということをどこか愉快に感じると同時に、彼が真摯に夕美に向き合ってくれていて――そしてそれを裏切らねばいけないことを心苦しく思った。
「もしあの子たちを引き取れるなら、そうしたいの。だから………」
「それは……ぼくのプロポーズを断るための言い訳に子どもたちのことを使っているということ?」
「それは違うよ」
と夕美は慌てて言った。前回、リーグに逢ったときに彼からプロポーズがあったのは嬉しかった。嬉しかったが、10歳にもなる子どもを急に3人も引き連れて結婚などできるわけがないと思い、苦渋の決断をしたのだ。
「ぼくは子どものことは得意ではないが、べつに嫌いじゃない」
だから、とリーグは言った。そのことを言い訳にしないで欲しい、と。
***
***
翌日は頭が混乱しながらの出勤となった。
まさかリーグが、引き取ることになるであろう子どもの存在を伝えてもなお結婚を申し込んでくれるとは思っていなかった。いや、それは、非常に嬉しいのだが、なんだろう、大丈夫か、騙されているのではないだろうか、わたしは。
(でも、嬉しかったな)
そう、嬉しい。そして、良いことだ。なぜなら、研究所のことを告発したあと、夕美は無職になるからだ。急に給料がなくなって3人の子と自分自身を養うのは容易ではない。そういった損得勘定を含めても、リーグの申し出は嬉しかった。
「おはよう――」
朝、出勤して子どもたちのいる地下に入った夕美は、彼ら3人が部屋の隅に集まって何かを見ているのに気付いた。「おはよう」という返答こそあったものの、彼らは夕美に顔を向けず、何かを見ていた。きちんと目を見て挨拶をしなさいと教えているというのに。文句のひとつでも言ってやろうと思って彼らに近づくと、3人が見ていたのはモニタだった。オーディンの目の一件以来、子どもたちの地下室に持ち込まれる物品は制限されるようになったが、モニタ程度なら簡単に持ち込める。
それで何を見ているのかと覗き込んだ夕美は、頭が痛くなる思いだった。映し出されているのはギンヌガガップ研究所内の廊下や入口などを俯瞰したもので、つまりは監視カメラの映像だった。どうやったのかはわからないが、監視カメラの映像を好奇心からジャックしているらしい。本当に、この子たちは善悪の価値観というものがない。
「夕美、見て、見て!」
叱りつけてやろうとしたとき、オーディンが振り返って手招きをし、もう片方の手で複数あるモニタのひとつを指さした。
「犬がいるよ!」
そのモニタに映し出されているのは、研究所の外の駐車場の監視カメラの画像らしかった。そしてその中には、毛だらけの鼻の長い生き物がうろつく姿が映っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます