第5.22話 天地創造 - 3

「犬ぅ?」

 ギンヌガガップ研究所能力開発局の局長――つまり夕美にとっての上司――にそんなふうに凄まれたことに比べれば、太陽光降り注ぐ中で犬を実際に捕獲しに行くことなど屁でもない。表には公開できない仕事を行なっている夕美は、研究所では併設する託児施設の事務課の人間ということになっているので、犬を捕まえる姿は明らかに不審であろう。可能な限り素早く捕まえてしまいたい。

 とはいえ捕獲する道具もなく、餌も用意するには時間がかかりそうだったので、身一つで駐車場まで向かったのだが、犬を捕まえることにはあっさりと成功してしまった。いや、捕獲とはいわないかもしれない。というのも、監視カメラで見た場所に赴いてみると、犬のほうからやってきたからだ。


『ユミル、ユミル、捕まえたね!』

 と耳に響いたのは近距離用のトランシーバーにイヤホンを繋いでいるからだ。聞こえてくるのはオーディンら〈運命ノルン〉の3人の子どもたちの声である。

「捕まえたというか……」

 ラブラドール・レトリバーかその血統の入った雑種であろう亜麻色の毛をもつその犬は、トランシーバーを通して地下の子どもたちと会話をしている夕美の手の甲をぺろぺろと舐めてくる。鼻を近づけて匂いを嗅いだりもしてくるが、唸ったり、威嚇したり、身体を押し付けて来たりはしない。人好きなおとなしい犬といえるだろうが、首輪はなかった。

『ユミル、やっぱり首輪はない?』

「ないみたいだけど………」

「やった! じゃあ、飼えるね!」

 そうは簡単にいかないのだ、と夕美は言いたかった。


 そもそも犬を捕まえに出たのは、「外にいる犬を飼いたい」と子どもたちが言い出したからだった。犬を飼うのはそんなに簡単ではないと説明し、そもそも野生の犬などそうそういないのだからどこかの飼い犬に違いなく、それなら勝手に飼えないと伝えたのだが、監視カメラの画像を解析したオーディンらによれば「首輪はない」ということで、仕方なく夕美はまず事情を上司に伝えに行った。どうせ断られるだろうと思っていたのだが、能力開発局の上司としては先日の事件を受けて実験や機材が制限されたことが子どもたちのモチベーションの低下に繋がっているのではないかと考えているらしく、可能な限りは子どもたちの要求は答えるようにという返答が返ってきた。

「もちろん、危険な動物などは飼えないが、犬なら躾ければまぁ構わないだろう」

 ということで、外に出てきたわけだが、ずいぶんと時間をかけて捕獲に向かったのにもかかわらず、捕まえることに成功してしまった。


(さて、どうしようかな………)

 監視カメラで見られているのであれば、逃げられてしまったことにして戻るということはできない。この犬の人懐こさを考えると、叩いたくらいでは逃げ出したりはせず、悲しそうな声で鳴いて尾を股の間に挟み、震えさせるだけになるだろう。

(犬を飼うこと自体は悪くないと思うのだよなあ)

 子どもたちの情操教育に、ペットを飼うという選択は悪くないはずだ。それに、研究以外のことに興味を示してくれるのであれば、研究所から連れ出すときも楽になる。ただ、万が一のことがあったら危ない。少なくとも病院で異常がないかは診てもらう必要があるだろう。予防注射もしなければいけない。

(ん……?)

 犬の様子に少し気になるところがあった夕美は、しゃがみこんで顔を近づけた。口を開かせてみると、歯が何本か抜けている。病気や怪我で抜けたというよりは、自然に抜けたように見える。改めてその身体をよくよく見ると、明るい色合いの体毛にはところどころ銀色の毛が混じっていた。白髪だ。

(けっこう歳取ってるのかな)

 犬の老化については詳しくないが、人間でいえば老年だろう。この犬はもう、長くは生きられないかもしれない。それは――それは好都合だ、と夕美は思ってしまった。


 局長の許可を得たとはいえ、所内に犬を入れるのには苦労した。予防接種や獣医師の診察を経たのち、翌日の人が減る夜になってから犬を子どもたちのいる地下室へと連れて行った。

「アウドムラが来たぁ!」

 まだ飼えるとも伝えていないのにも関わらず、子どもたちは既に名前を付けていたらしく、子どもたちが跳びかかってきた。

「はいはい、ヴィー、ヴェーリ、オーディン、ちょっと待ちなさい」

 と夕美は小さな身体を犬から引き剥がした。いまはまだなんとか三人同時でも対処できるが、もう少し身体が成長したら無理矢理躾けるのは大変そうだ。

「あのね、実はアウドムラ? だっけ? この子はおばあちゃんなんだよ」

「おばあちゃん?」

 とヴェーリが小首を傾げると、長いふわふわとした髪が揺れた。

「何歳くらい?」

「正確なところはわからないけど、お医者さんによれば、十歳は超えているって」

「おれたちと同じくらいじゃん」とヴィーが言う。

「ところが、アウドムラは犬だから、時間の流れがわたしたちとは違うんだよ。動物の身体の大きさによって、時間の流れ方は違うんだ。ドッグイヤっていう表現もあるんだけど、知ってる?」

 と夕美が問うと、3人の子どもたちは首を振った。彼らは天才児だが、あらゆる知識を備えているわけではない。

「人間の年齢にすると、60歳以上だって」

 と、その事実を伝えても、子どもたちの表情は変わらなかった。年齢というものの重みがまだわかっていないのかもしれない。だから夕美は重ねて言ってやった。

「だから、すぐに死んじゃうかもしれない」

「すぐって?」

「1年とか2年とか……それか、もっと短いかも」

 やや誇張し過ぎかもしれないが、可能性は嘘ではない。だが言葉を受けて子どもたちの顔にじわじわと死と別離に対する恐怖が広がり始めると、夕美の中に罪悪感が持ち上がってきた。

 やだ、そんなのやだ、という声は、子どもたちの一過性の感情かもしれない。だが、彼らの素直な気持ちであるのも確かだ。


 夕美の中には、罪悪感以外にも打算があった。

 これは非常に貴重な機会だ。単に犬と触れ合い、他者の世話をするというのは大きな教育になるだろうが、それだけではなくこの老犬は死というものを伝えられる。子どもたちがどんなにアウドムラに死んでほしくないと思っても、間違いなく死ぬのだ。長くても数年のうちに。

 そしてその死は、子どもたちに大きな影響を与えるだろう。

 子どもたちはまだ倫理観が薄い。人を、己を痛めつけることに忌避感がない。死の恐怖を知らない。だから先日、オーディンは簡単に己の目を新しいものへと入れ替えてしまった。

 子どもたちを研究所から引き離して育てるにしても、倫理や道徳というものをあとから備えさせるのは難しい。子どものうちに、教えなければいけない。そして老犬の存在は、生命の大事さを教える重要な機会のように感じた。


 子どもたちはアウドムラの死には怯えたが、最終的にはそれでも飼いたいと言った。だから夕美はしぶしぶと承諾するふりをして、犬を飼うための設備を地下室に備えさせた。

 夜、人が減ってから夕美は犬の散歩のために研究所の外に出た。老犬だけあり、犬の歩みは遅いが、しっかりとはしている。それでも、いつかは死ぬ。

「アウドムラ……ごめんね」

 研究所の敷地を出たところで、夕美は屈みこんでその亜麻色の毛を撫でると、犬は優しくその掌を舐め返してきた。

「ごめんね」

 ともう一度言った。無垢な生命の優しさを感じて、夕美は涙が溢れるのを堪えきれなかった。

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