第5.20話 魔狼フェンリル、竜殺しの英雄の姿を見ること

 肉が焦げる香は、ヒュミルの拳から漂っているのだろう。彼の〈神々の宝物〉――《天吼ヒミンフリョート》は燃え盛る巨人を地の底へと叩き潰しはしたが、その熱はその角を通して肉を焼くのに十分な温度だったようだ。でなくても、その前に少なくとも二度は剥き出しの拳で炎そのものともいえる炎の魔人を殴りつけているのだ。焼け焦げないほうがどうかしている。


 が、ひとまず炎の巨人を追い払うことには成功した。

(ヒュミルは〈神々の宝物〉を持っているんだ………)

 フェンリルは外壁の上から巨大な亡者を見下ろして思った。かつて母、ロキに聞いた話を思い出す。〈最初の三人〉によって作られた〈宝物〉は九世界にばらまかれたという――戦いを誘発するために。であれば、亡者が〈神々の宝物〉を持っていてもおかしくはないのだが、晩年になってから〈最初の三人〉のひとりであるアース神族はそれらを回収した。だからアース神族が多くの〈宝物〉を持つことになったわけだが、ヒュミルの〈宝物〉はそのような回収作業から逃れたものなのだろう。ならばヒュミルは、思っていたよりもずっと長い期間を生きている亡者なのかもしれない。


「戻ったか、エリ」

 ヒュミルの三つ首から響いた声は、フェンリルに乗っているエリヴァーガルの身体を震わせた。怖いのか、恐れているのか――と思ったが、彼女は静かな声で応対した。

「ヒュミル――戻ったか、とは、わたくしがあなたのもとに戻るのが当然のようではありませんか」

「当然だろう」

「わたくしはあなたのそうした物言いが嫌いです」

 物言いは平素ながら、声は震えていた。フェンリルにはエリの怯えがわかった。彼女は、こうしてヒュミルに言い返したのは初めてのことなのだろう――当然だ。

 できれば己の上に載って喧嘩はやめてほしいとは思ったが、いざヒュミルが暴れ出すかもしれないと思えば、このほうがエリにとっては安全かもしれない。

「それがどうした」

 とヒュミルはやはり平素な様子で――その表情は硬く弛んだ皮膚におおわれていてよくわからないが――答えた。が、フェンリルの発達した耳は、彼が拳を握り込む音を聞き逃さなかった。いつ拳が飛んできてもいいように、足に力を篭めておく。

「それがどうした、エリ。ああ、どうした、エリ。何が言いたい、エリ」

 ヒュミルは拳に訴えず、言い返した――ひとまずは。エリの返答で、彼の行動は決まるだろう。

「わたくしは――」


 エリが言いかけたときだった。上空の燃え盛る第一平面アースガルドの炎がまたひと際燃え盛り、そこから火球が落ちてきたのは。

 一、二、三――落ちてきた炎は九を数えた。

(スリュムヘイムを取り囲んでいる……?)

 いや、違う、とフェンリルはその鋭敏な感覚で判断した。先に落ちた火球――おそらくは炎の巨人だ――と同様にスリュムヘイムの近くに落ちたようだが、その個々の落着地点を線でつないだ場合の中心はスリュムヘイムではない。やや南にずれている――すなわちフェンリルたちがいるこの場所だ。ならばこの炎の巨人が狙っているのは、スリュムヘイムではないということだ。であれば、スリュムヘイムの南側にいる者を狙っているということだ。

 狙われているのは巨大な亡者、〈天の吠え手ヒュミル〉か。

 呪われた〈魔狼フェンリル〉か。

 あるいは戦火から逃れたアース神族、〈雪目ウル〉か。

 それとも――。

「〈黄金グルヴェイグ〉よ」

 地の底から響くようなヒュミルの声は、聞き覚えのない名を呼んだ。


 いや、聞いたことがある。母の寝物語で。そしてつい先日、ブリュンヒルデが話してくれた古い伝説で。


〈黄金のグルヴェイグ〉。


 それは九世界を破壊する、〈九の災厄〉の名だった。そしてその名を呼んだヒュミルの三つ首と眼球のないものも含めた六つの目は、フェンリルたちへと――いや、違う、フェンリルの上のイドゥンへと向けられていた。

「エリを連れて逃げろ。犬とアース神族、おまえたちもだ。スリュムヘイムは囲まれている。ここを離れたほうがいいだろう」

「おれは犬じゃ――いや、逃げるって………」

 スリュムヘイムは炎の巨人に取り囲まれているのだ。それなのに、どうやって。

「あの通路だよ」

 と言ったのは背中の上のイドゥンだっただった。

「あそこから逃げられる。に、ニダヴェリールだっけ。小人の国に」


 そういえば、とフェンリルは巨人族アルフリッグの言葉を思い出した。エリを連れ去ろうとした彼らが利用していた通路なら、確かに炎の巨人から逃れることは可能かもしれない。

「なぜ逃げる必要があるんです」と言ったのは外壁の下にいるウルだった。「あの炎の巨人たちが危険なのはわかりますが、ぼくも戦います」

「おまえでは無理だ。あれには〈神々の宝物〉しか効かん」

 ヒュミルの言う通り――そして身体をもってして証明したとおりであれば、確かに〈神々の宝物〉を持たないウルでは炎の巨人相手には援護にもなるまい。

 が、ウルは譲らない。そうはいきません、ぼくはここの守りを任されたのだから、守らなくてはいけないのだから、と来る。

 その口は、しかし爆発のような風で遮られた。彼の傍らに叩きつけられたヒュミルの拳だった。

 声が止まった隙にヒュミルの残った拳が動くや、ウルの身体を掴んだ。そして無造作にこちらに向けて投げつけてきた。フェンリルは慌てて《銀糸》を伸ばし、ウルの身体を受け止めて背中に載せた。


 外壁の上で、フェンリルは首をぐるりと巡らせた。予想通り、落ちてきた〈炎の巨人〉たちはスリュムヘイムに――否、スリュムヘイムの南関所にいるヒュミルに向かってきた。炎の巨人たちは人神に近い形をしてはいるように見えたが、歩く際に足は動かさず、まさしく炎が燃え移ってくるかのようだった。

「犬、行け」

「おれは狼だ」

「狼、行け」

「うん」

「フェンリル、待って――」

 言いかけたエリに耳は貸さなかった。フェンリルは四肢に力を篭めるや、スリュムヘイムの路地に降り立った。そして使命を果たすため、また疾走を始めた。


(ヒュミルはイドゥンのこと、〈黄金グルヴェイグ〉って呼んだ………)

 足を忙しなく動かしながら、フェンリルは考える。

 思えばフェンリルやイドゥンがヒュミルに相対したのは初めてだ。こちらから一方的に見ていたことは何度かあったが。だから気付かなかったが、ヒュミルはイドゥンのことを知っていたのか?

 いや、〈黄金のグルヴェイグ〉といえば〈九の災厄〉の一柱だ。たしか、眩しく光り輝く化け物だとかなんとか。イドゥンはそんな化け物ではない。ではヒュミルの間違いか。しかしイドゥンは何も言い返さなかったわけで――。


 そんなふうに考えながらも、フェンリルの脚は忙しなく動き続けていた。ヒュミルは逃げろと言ったのだ。それはあの〈炎の巨人〉に対して、己が必ずしも勝てないと認識していたからだろう。

 彼は悪かもしれない。エリを無理矢理犯し、妻としたのかもしれない。だが彼はまた己を盾としてでもエリを逃がそうとしていた。

(どちらにせよ、この街から逃れるためには少し時間を稼がないといけない)

 スリュムヘイムが忙しなさを増していたのは、外の〈炎の巨人〉の存在たちが住民たちにも認知されたからかもしれない。あるいはヒュミルが暴れ出したと思ったのかもしれない。はたまたフェンリルのことが恐怖の対象になっているのかもしれない。

 理由はともかくとして、壁の外側から外敵が近づいてきているということが知れれば、住民たちはあの地下通路を使おうとするに違いなかった。緊急用の通路であれば、あれひとつだけということはないだろうが、住民全員が一度に逃げられるほどに緊急通路があるはずがない。どこからでつっかえ、避難は遅れるだろう。

 だが逃げたとして、状況は果たして好転するのだろうか。第一平面アースガルドが炎に包まれたように、いずれこの第二平面ミッドガルドも炎の巨人たちによって燃やし尽くされてしまうのではないだろうか。そうだとすれば、どこへも逃げようがない――第三平面ヘルモードを除いては。


 そんなふうに考えていたから、フェンリルは遠くを見ていた。まずはヘルとヨルムンガンド、それにブリュンヒルデに現状を伝えなければ、と考えていた。いちばん近い敵は後方にいて、だから走らなければと考えていた。

 だから新たに追加で3つの炎が落ちてきたことに対する反応が遅れた。

 3つの炎はフェンリルの眼前に落ちてきて、家屋や石畳を焼くやすぐに巨大な巨人の姿をとるや、その燃え盛る腕を伸ばしてきた。

(こいつ、おれを狙っているのか……!?)

 亡者のヒュミルが狙いではないのか。いや、炎が焼き尽くしたがっているのが亡者なら、フェンリルも亡者だ。狙われるのはおかしくはない。


 伸びてくる炎の腕を、フェンリルは跳躍して避けようとした――いや、避けた。炎の巨人の腕の長さを十分に考慮して避けたつもりだった。

 だが3体いた巨人はひとつに集まるや、3倍に膨らんだ。腕の長さも。巨大な炎の腕がフェンリルの後ろ足を掴んだ。

「フェンリル――!」

 イドゥンの悲痛な声が聞こえた。大丈夫だ。必ず、きみのことは逃がすから。そう言ってやりたかった。

 腹から伸びる《銀糸》を槍のように鋭く捩じり、炎の巨人の腕を突くが、糸は炎で溶かされてしまう。これでは駄目だ。フェンリルは無事のほうの脚を振るい、そこに絡んでいた《封錘レージング》と《縛鎖ドローミ》錘を叩きつけた。どちらも〈神々の宝物〉だ。錘は炎の巨人の腕を断ち切った。片方だけ。

 もう片方の燃え盛る腕が、今度は鎖が絡んでいるほうの脚を掴んだ。

「ぐっ………」

 熱い。痛い。それはわかるが、何もできない。いや、やるだけはやっているが、《銀糸》は通じず、《封錘》と《縛鎖》は動かせない。燃え盛る腕に握られたまま、フェンリルは地面に叩きつけられた。

 巨大な炎の巨人はフェンリルを掴んだまま、もう片方の手で握り拳を作った。鎖と錘によって切断されたはずの腕はすぐに再生していた。このままでは駄目だと、それはわかった。わかったが、動けなかった。ずっと、ずっとそうだった。母を助けたくて、助けたくて――ずっとそう思っていたのに動けなかった。フェンリルは臆病で、怖がりで、何もできない犬だった。

 

 目の前で巨大な炎巨人の身体が縦に裂けた。

 炎巨人の身体が切り裂かれるとともに炎は弱まり、フェンリルの脚からも炎は消えた。それでようやく冷静さを取り戻したフェンリルは、巨大な巨人を切断した男の姿を見た。

「シグルド………」

〈狼被り〉の男がそこにはいた。地下通路にいたアルフリッグたちは片づけたのだろう。さすがというべきか、傷ひとつ負っていない。

 いや、彼はたったいま傷を負っていた。炎だ。シグルドの被っていた狼の毛皮――《狼套ウーフヘジン》の端が燃えていた。いや、端だけではない。炎は狼毛を端から焼き、焦がしていき、どんどんと巨大になっていた。

「シグルド、炎が……」

 たったいま炎巨人につけられたらしい火に、はじめシグルド自身も気付いていいなかったらしい。彼は慌てたように燃えている狼の毛皮と上衣を脱ぎ捨てた。


 その姿を見て、フェンリルは奇妙なことを気付いた。

(あれ、〈神々の宝物〉って………)

〈神々の宝物〉は壊れない。そのはずだ。魔法の道具なのだ。当然だ。そしてアース神族の扱う奴隷化の道具、《狼套ウーフヘジン》も〈神々の宝物〉のはずで、シグルドはそれによってブリュンヒルデの支配下にあるはずなのだ。

 それならシグルドの《狼套》はなぜ燃える? あの〈火の国の魔人〉は〈神々の宝物〉を壊すことができるのか、それともシグルドの狼の被り物は〈神々の宝物〉ではないのか。奴隷化された〈狼被りウーフヘジン〉と化しているはずの彼自身がそれを外すことをできるのを見れば、答えは後者のような気がした。


 だがそれよりも、フェンリルはシグルドの身体を見て驚き、絶句した。

(このひと………)

 これまでシグルドが《狼套》を脱いだ姿は見たことがなかった。寝るときも被ったままだったし、旅中では着替えなどしなかった。街についてからは部屋が分かれていて、だから彼の狼の毛皮の下がどうなっているかは知らなかったのだ。そもそも〈狼被り〉であれば脱げないものだと思っていた。


 シグルドの背中には模様が刻まれていた。文様、いや、文字だ。〈神々の宝物〉に刻まれているようなルーン文字だ。フェンリルには読めないが、魔法の文字だ。傷は明らかに古く、最初からそうであったかのように馴染んでいたが、鋭い刃物で抉り込まれたかのような傷跡は痛々しかった。

 シグルドの黒髪は長かった。その長髪は細かく編まれていたのだが、その細かい三つ編みの先には金色に光る指輪が結ばれていた。髪の先のすべてに、その指輪はあった。

《竜輪ニーベルング》。

 たったひとつで、フェンリルは〈魔狼〉から無害な犬の姿になった。

 たったふたつで、ヨルムンガンドは〈世界蛇〉から小さな蛇の姿になった。

 それなのに、それなのに、この男は――無数の《竜輪》を身に付けながらけして貶められることなく、それでも《聖剣グラム》という〈神々の宝物〉を扱うこの男は、いったい何者なのだ。

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