第5.19話 魔狼フェンリル、竜輪の縛めから解き放たれること

 もはやふたりを載せていても、重くはなかった。《竜輪ニーベルング》を外して、元の〈魔狼〉の姿に戻っていたからだ。外に落ちた火球によって、スリュムヘイムはやにわに騒がしくなり、街路にではしないまでも家々の窓から人神の目が覗くことはあったが、もはや人目を気にしてはいられない。ひと噛みで人神を喰らう体躯のフェンリルのひと踏みは石畳を破壊し、鎖に結び付けられた鉄球は踏み出すたびに巨大な穴を作った。この破壊跡は、あとで責任の所在を問われるかもしれない。

「改めて訊くけど………」とフェンリルの背の上では、イドゥンがエリヴァーガルに問答を投げかけていた。「あなたはヒュミルの元へと戻りたいの?」

「戻りたくありません」

「じゃあ彼から逃げたいの?」

「それは――」

 エリは黙ってしまった。


 なぜヒュミルのもとへ戻らなかったのか? エリは答えた――アルフリッグたちに街中で連れ去られたからだ。

 アルフリッグたちにそのままついていく気はあったのか? エリは答えた――それはない。彼らが危険だということは感づいていた。

 では戻る気はあったのか? エリは答えない。

 ヒュミルが嫌いなのか? エリは答えた――嫌いだ。

 彼の元に戻りたくないのか? エリは答えない。


 彼女はさっきから、この調子だった。おかげでフェンリルは、せっかく〈魔狼〉の姿に戻ったというのに、全力でヒュミルのもとへと駆けていいのかどうか判断がつかなかった。


「じゃあ質問を変えるよ、エリ。ヒュミルが亡者だっていうのは知ってる。隠れ住んでいるって知ってる。じゃあ、あなたは何?」

「わたくしは………」

 それまでとは少し異なるイドゥンの質問に対しても黙りを決め込むのではないか、とフェンリルは思った。だがエリは逡巡のあとで回答を紡いだ。

「わたくしは幼い頃にヒュミルに連れ去られたと、そう聞いています」

 フェンリルは聞き耳を立てながら、思っていたのと少し違う答えが帰ってきたな、と思った。ヒュミルに連れ去られたというのは予想どおりだが、それが幼い頃でだというのと「そう聞いている」という伝聞めいた表現が気になった。

「聞いたっていうのは?」とイドゥンも同じ疑問を持ったらしく訊いた。

「ヒュミルから、そう聞いただけです。幼い頃のことは、わたくしは覚えていません」

「あなたはそれを嘘だと思っている」

 突き放すようなイドゥンの物言いだったが、どうやらそれは正しいらしい。少なくともエリは否定の言葉を発さなかった。

「それは……ヒュミルにとって、わたくしは役に立つ存在ではありませんでしたから」

 記憶がないということは、おそらくは物心がつかなかったほどの年齢の幼子だ。役に立たないのは当然だろう。そんな子を喰うでもなく、攫ってきて、育てた? ヒュミルが?

「じゃあ、ヒュミルは――」

「親切にも拾ってきた子を、成長したからといって養父が犯しますか?」エリは薄く笑って言った。「わたくしはあの男が嫌いです。ヒュミルが――ただほかに行く場所がないというだけで」


 フェンリルはエリではなく、イドゥンのことが心配になった。彼女はエリの言葉を理解できているのだろうか。できていないで欲しいと思うし、できているにしてもあまり真剣に聞いてほしくはないと思った。

 であれば、この場のやり取りを収めるにはヒュミルのもとに向かう以外にはなかったのだが、フェンリルはまだ迷い続けていた。エリを、この女性を助けるのが――それが正しい行動なのではないかと。そんな疑問を抱き続けながら。


 そのとき、地面が揺れた。〈魔狼〉の巨体ですらふらつくほどの揺れ。そして巻き上がる土煙は、壁の外でヒュミルの巨大な拳が地に叩きつけられたことを示していた。

(遅かったか……!?)

 戦いが始まったとすれば、〈雪目ウル〉とだ。たったひとりで己の同胞はらからでもない巨人族を守ろうとしたあの赤目の痩せ男が、巨大な亡者と戦って無事なはずがない。ならば、彼はもう死んでしまったのか。フェンリルが迷っていたせいで。

 自分はいつもそうだった。母のことも、助けたい、助けたいとずっと思っていたのに、ついぞ行動に移せなかった。アースガルドからの襲撃者が来たときも、逃げ回ることしかできなかった――。


 後悔がフェンリルの脚を加速させた。全力でスリュムヘイムの街を疾走しようとすれば、そこにもはや家々や壁は存在しないようなものだった。跳躍すれば、遥か下方に街並みが見え、外壁の外には巨大な亡者、〈天の吼え手ヒュミル〉の姿があった。彼の拳は地に叩きつけられ、その下に赤いものが見えた。

「ウル………!」

 外壁に着地したフェンリルは、死したであろう男の名を呟かずにはいられなかった。


「戻りましたか、フェンリル」

 男の声が聞こえた。下からだ。壁からひょいと覗くと、壁の下の簡易関所のところにウルの姿があった。彼は弓こそ手にしてはいたが、どこにも怪我はなさそうだった。

「ウル、あれ……?」

 しかし、ヒュミルの拳の下には赤いものがあって、あれがウルではないなら、いったい誰が――。


 フェンリルは気付いた。ヒュミルの拳の下の赤。それが血にしては、あまりに赤く、あまりに明るいことに。


「逃げろ、下がっていろ、隠れていろ、犬……エリもだ」地の底から響くような声が語りかけてきた。ヒュミルの声だ。「〈火の国の魔人〉だ。やつらが来た。炎の魔人たちが」

 彼の拳の下の赤が急激に広がるや、拳そのものを包んだ。炎だ。たまらずヒュミルが拳を引くと、その下から何か平たいものが――いや、起き上がってわかる、人神じんしんの二倍ほどの高さの、燃え盛る炎が出てきた。

(あれは、シグルドが叩き切ったのと同じ――!?)

 フェンリルはかつて森の中で同じ炎に出会ったことを思いだす。ブリュンヒルデは、あの炎の巨人を「〈火の国の魔人スルト〉の炎」と呼んでいた。先ほどアースガルドから飛んできた炎は、あの炎の巨人か。

(拳じゃ、倒せないのか……!?)

 ヒュミルの拳は言うまでもなく巨大であり、〈魔狼〉となったフェンリルすら一撃で叩き潰すだろう。炎の巨人でも、その身体を叩き潰すには十分だった。


 にも関わらず、炎の巨人にはまったく外傷を負った形跡がなかった。その炎を激しく昂らせるや、ゆっくりとヒュミルに近づいていく。なぜだ。炎であれば、殴っても効かない。あるいはそれは常識なのかもしれないが、いや、しかし〈狼被り〉のシグルドは撃退できていた。斬撃なら効くのか。いや、彼が使っていたのは〈神々の宝物〉だ。

「ヒュミル、〈神々の宝物〉じゃないとそいつは―――」

 ほとんど思い付きの発想で叫びかけたが、よくよく考えるとそんなアドバイスは無駄な気がした。なにせ〈神々の宝物〉は名前通り貴重品だ。アース神族がほとんど独占していたそのような貴重品を、ヒュミルが持っているはずがない。

雪目ウル〉は卓越した弓の腕前を持ってはいたが、〈神々の宝物〉は所有してはいなかったはずだ。エリはもちろん駄目で、イドゥンは首から〈神々の宝物〉を下げてはいるが、戦えるものではないだろう。

 ならば、フェンリルしかいない。《銀糸グレイプニル》は半ばフェンリルの身体と一体化しているから通じないかもしれないが、後ろ足に絡んでいる鎖と錘は《縛鎖ドローミ》と《封錘レージング》という〈神々の宝物〉らしい。ならば、通じるかもしれない。接近しないとうまく振り回せないのが問題だが。あの炎の塊に近づくのは、怖い。怖い。怖いが、一歩踏み出さなくてはならないのだ――。


「そうか、忘れていたな」

 その言葉は呟きにしてはあまりに重く響いた。

 ヒュミルは四つ手のうちのひとつを腰の裏に回した。彼の服はだぼだぼとしているうえに継ぎ接ぎだらけで、しかも背や腰にじゃらじゃらと幾つもの物品を下げているせいで、何がどうなっているのかよくわからない。

「――ヒミンフリョート」

 だが彼が背中から手を引いたとき、その拳には黒々とした双つの牡牛のような角がついていた。


 改めて、ヒュミルはその巨大な拳を――黒光りする角付きの拳を炎の巨人に叩きつけた。角の先端が炎の人神に突き刺さるや、地面へと抉り込んでいく。〈天の吠え手ヒュミル〉の拳から離れて自立したかのように動き始めた《吠角ヒミンフリョート》はさながら地面の中へと潜り込むかのような勢いで、炎を押しつぶした。もはや炎は起き上がっては来なかった。

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