第3.9話 狼の母ロキ、雷神の過去を問うこと

 雪が。

 雪が降っていた。


 油断すると服の隙間から雪が吹き込んできそうなほど吹雪いていたが、深い積雪の中で馬に急かせるわけにはいかなかった。この吹雪と積雪の中では、これが限界速度。どんなに遅い速度しか出せずとも、馬を叱る気にはなれない。防寒着で身を包んで身体を寄せ合っているロキとトールでさえ寒さを感じるのだ。身体を露出させ、人二人を背負って雪の中を漕いで歩く馬が寒さを感じないはずがない。早く休ませてやりたいとさえ思う。

 ロキはトールの胸に身体を寄せた。トールの右手はレギンの短刀によって肉が削がれただけでなく骨も折れていたらしく、あるいはそれは彼自身の叩きつけた一撃のためだったかもしれないが、いまは固定具を当てて肩で吊っている。彼は左手で引き綱を取り、馬を操っている。背中の羽がいつもより小さくなっていたため、ロキはいつもそうするようにトールの背中に抱き着くのではなく、彼の前に抱きかかえられるように馬の背に座っていた。

 フレイドマルの小屋から服と食料、一頭の馬を拝借して出発してから、ロキとトールはほとんど言葉を交わしていなかった。出発したのは朝。途中昼食の際に何を食べるかでほんの僅かに喋っただけ。ふたりとも、疲弊していた。それだけでなく、苦しかった。悲しかった。怖かった。辛かった。


 だがそれでも、馬の上でふたりでくっついているうちに、ほんの僅かながら暖かさが戻ってきていた。


「ロキよぉ」

 という低い〈雷神〉の声を、ロキは久しぶりに聞いた気がした。頷いただけで相槌としようと思ったが、抱きかかえられている状態では頷いたのが見えなかったかもしれないと思い、「なぁに」と掠れた声で返した。

「おまえの斧あるだろ、あれって……」

「レヴァンティン?」

「それ。それよぉ、どうやって使うんだ?」

 ロキは腰の鞘から《炎斧レヴァンティン》を抜いた。刃先が丸まっているため、起動状態になければ馬上でも傷つく危険はない。

「ふつうに……えっと、ミョルニルとかと同じだと思うんだけど」

「おまえを背負ってるときとか、あとは、あのときとか……使おうとしてみたんだが、使えなかったぞ」

「ああ」とロキは手を打った。「使えてたと思うよ。ただ力が足りなかっただけ。使ってみれば」

 天を仰ぎ、ロキは背中のトールに《炎斧》を手渡した。彼は受け取った〈神々の宝物〉に力を注ぎこんだようだが、《炎斧》の刀身には目に見えた変化はない。

「やっぱり駄目だな」

「いや、起動はしてるよ」

 とロキは刀身を触りながら言ってやった。レヴァンティンはほんのり暖かくなっている。トールも自分の指で確かめてから頷いた。「でも、これじゃあ石を切ったりはできないだろうに。料理にすら使えないぞ」

「寝るときにお腹の上に置いておくと湯たんぽ代わりにちょうど良いね……だから、トールだと力が足りないんだよ」

「力が足りない?」

 言っている意味がわからないというように鸚鵡返しをしてきたのは、〈雷神〉には自身の力が足りないという状況に陥ったことがないからだろう。彼はアース神族軍の最強の戦士であるが、それでも幾度となく敗北は経験している。だがその中でも、彼は己の中の力に揺らぎを感じなかったに違いない。自分より遥かに小さい女に「力が足りない」と言われるなどとは想像もしていなかったのだろう。

「べつに、トールが特別足りないってわけじゃないよ。ただ、このレヴァンティンはものすごく燃費が悪いんだ。だから、たぶん……使えるのはわたしくらいだよ」

 それも《双翼ナルヴァーリ》あってのことだ、とまでは言わず、ロキは《双翼》を気にしながら《炎斧》の柄を握り、一瞬だけ呪力を籠めた。刃が赤熱し、真っ赤に輝く。「触らないでね」と忠告しておいた。

「まじか」

 トールは茫然と赤く輝く《炎斧》を見つめていた。ロキより己のほうが力が弱いというのがよほど衝撃だったのか、馬首の誘導が不十分で馬の足が雪の深いところに突っ込んでしまった。

「危ねぇ危ねぇ……」とトールは慌てて馬首を戻させた。「じゃあ、何か? おまえがミョルニル使ったら、おれより威力が出るのか?」

「出るかもしれないけど、わたしじゃあんなに重いもの投げられないから、自爆みたいになると思うよ。ミョルニルはやっぱりトールが持っているのがいちばん良いと思う」

「いやぁ……そうなのか」トールはロキの言葉など聞いていないかのように独り言ちる。「そうなのか、うーむ………」


 〈雷神〉から〈狼の母〉に質問があったように、〈狼の母〉から〈雷神〉へも質問をしたいことがあった。だが、ロキは迷っていた。理由はふたつだ。ひとつは聞きたいことはこれまでトールが触れてこないことだったから、聞かないほうが良いのではないかと思ったから。もうひとつは、必然的にフレイドマルの小屋で起きた出来事を思い出させることになるから。

「ねぇトール……グリッドって、だれ?」

 結局、ロキは好奇心に負けた。

「聞いてたか」

 前を向いたまま背中のトールに尋ねたため、彼の表情は見えなかったが、戻ってきた声には先ほどまでの気の抜けた色はなかった。孕んでいる色は怒りでも喜びでもなく、降り続ける雪のような悲哀だった。

「聞こえたの」

 その名が聞こえたのは、フレイドマルの小屋でトールが受けた負傷を治療するために道具を探していたときだ。彼の怒声とともに、衝撃が響いた。二発。ロキが急いで〈雷神〉のところへと戻ると、部屋には既に物言わぬ屍がふたつ作られていた。

「おれの妻だ」とトールが答えた。「もう死んだ。だいぶ昔だ。巨人族だった」


 すぐに返答ができなかった。〈雷神〉が妻帯者だったのも、〈巨人殺し〉が巨人族を妻として娶っていたのも初耳だったのだ――おそらくはアース神族の誰もが知らない話に違いない。すべてを知る〈独眼の主神オーディン〉を除いては。


「そのときはミッドガルドに住んでいた。巨人族と一緒にな。いや、おれももともとは巨人族なのかもな。それか合いの子なのかもしれん。ま、神も人も変わらんさ。住んでいる場所が違うだけで」

 トールはアース神族にしては神並み外れて体格が良いし、その赤髪は黒髪の多いアース神には珍しい色合いだ。実際、彼が言うことはありえそうなことだ。

「どうして?」

「なにがだ?」トールはロキの疑問に疑問で返した。

「トールはどうして……」同族の巨人族を殺せるのか、と言いかけて、ロキは口を噤んだ。「どうして、アースガルドにいるの? アース神族だなんて嘘をついて……アース神族に協力して………」

「おれは自分のことをアース神族だなんて言った覚えはない。だから嘘はついていないな」トールが小さく笑うのがわかった。「アース神族に協力しているわけでもないし……まぁ、実際は協力しているか。うん、協力しているな」

 ロキは相槌も打てず、トールに背中を預けたまま彼の次の言葉を待った。その間も雪は吹雪いていた。トールの大きな身体はほとんどロキに覆いかぶさるようで、吹雪をロキに当たらぬよう防いでいてくれていた。

「昔から、アース神族と巨人族は戦争ばかりしていた」トールは独り言を紡くように言った。「最近じゃヴァン神族とも戦ったりもしていたけど、だいたいはアース神族と巨人族の戦争だった……。いや、そこはどうでも良いか」

 トールにもたれかかるロキには、彼の表情がよく見えなかった。

「戦争で、家族が死んだ。妻も、息子も、娘も、父も母も……みんな死んだ。おれの住んでいた村は僻地にあったし、おれはどちらの兵士でもなかったが、おれが狩りに出ている間に村はいつの間に焼かれていて――何もかもが奪われていた。そのときに、あいつと出会った。オーディンだ。戦争を止めようとしているオーディンに。おれはあいつに協力することに決めた。あいつは戦争をなくそうとしている。どうやって事を成そうとしているかは知らない。でもあいつは本当に、心の底から、世界から戦がなくなって平和な世の中が訪れることを望んで、行動している。だからおれはあいつに協力することにしたんだ」

「オーディンが……」ロキは凍える喉を震わせて声を発す。自分の声は掠れていたものになった。「巨人族を殺せって言ったの?」

「そうは言っていない。ただ……おれはあいつを守りたい。あいつはアース神族だからな。巨人族と戦う機会は多い。おれはあいつのそばにいて、降りかかる火の粉を払っているだけだ」

 ロキはトールの胸に額を当て、息を吸い、吐いた。腰の鞘のレーヴァティンが熱かった。


「オーディンが本当に戦争を止めようとしていると思っているの?」

 ロキはそう問いかけたが、言葉にできなかった。トールに真実を告げたとき、彼がどんな反応を示すのか、想像がつかなかったのだ。

 真実――すなわち〈独眼の主神オーディン〉こそが九世界に戦火を撒き散らしている張本人だということを。

 誰よりも〈力の滅亡ラグナレク〉を恐れながら誰よりも〈力の滅亡〉を望んでいるのだということを。

 浄化の炎を待ち望んでいるのだということを。

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