第3.10話 狼の母ロキ、死者の娘に出会うこと
小さな村の、小さな家らしく、ロキを見つめていたのは小さな視線だった。
「お部屋、空いてるよ」
4つある小さな瞳が瞬いて、言葉を発したのはより下にあるほうだった。まだ幼い男女のきょうだいの、妹のほうだ。言葉を行動に移すために、「こっち」と言って彼女は猫のように柔らかい両の掌でロキの手を握り、案内のために引っ張ろうとした。ロキは促されるままに足を進めた。
この家を訪ねたのは、単に道中に見つけた村の中で最も入口に近い場所にあったからだ。逃げるように雪道を歩き続けてきたロキとトールにとっては、家の中に入れてくれて雪と風が防げれば、寝る場所は馬小屋でも何処でも良かった――家人が斧を持って襲いかかってこなければ、という条件は付くが。
だが最初に訪ねたその家でロキとトールを出迎えた老夫妻は、ふたりの様子を見て、長いこと雪道を進み続けて疲弊していることと、敗残兵や盗賊の類ではないということを悟ったらしい。もしかすると、馬の荷に冬には貴重な食料を持っていることも。
理由はなんだって良かったが、老夫妻はふたりを家の中に迎え入れてくれて、寝床を提供してくれた。彼らは親切だったが、ただ寝床を譲られるのは申し訳ないので食料を提供すると告げると、素直に頷いてくれた。そう、これが当たり前だ。四季の移り変わりが激しいミッドガルドの片田舎で、どこのだれとも知れない旅行者を二人も泊める余裕はないのだから。彼らに食料を提供することは、底のない親切以上に恐れるものがない現在のロキとトールにとっては、とてもありがたかった。
トールが馬から荷を下ろしている間に、ロキが少女に案内されたのは、外観通りに小さな部屋だった。こじんまりとした様相で調度品も少ないが、それもこの家の小ささを思うと仕方のないことだろう。少なくとも、雪と風は凌げる。
「ありがとう」
とロキは微笑んでやろうとしたが、よくよく部屋を見渡さなくても寝台が一つしかないことに気付いた。
「えっと……ここだけ?」
「空いてるの、ここだけだよ。お父さんの部屋」
父親の部屋でそこが空いているということは、父親は亡くなっているということなのだろう。
そういえば彼女の母親はどこにいったのだろう。老夫妻の子供にしては歳が離れすぎている。空いている部屋がここだけということは、母親はまだ存命しているに違いない。
そんなことを考えていると、「おねえちゃん、どこから来たの?」と少女が寝台の上に座って質問をしてきた。
無邪気な質問に正直に答えるわけにはいかず、ロキは「東のほうなんだけど」と曖昧に言葉を濁した。
「あっちのほう?」
と少女が指差した向きも確認しないまま「そうだね」とロキは頷いた。するとなぜか少女は「ふぅん……」と思案気に呟きながら、より一層の笑顔を見せた。
「おねえちゃん、耳が生えてるね」
と次に少女が己の頭の上に掌を掲げながら投げかけられたのは誤魔化しのきかない質問であり、ロキは一瞬硬直した。
が、この耳がいかなるものかを説明する必要はなく、「おんなじだね」と少女が言ったので逆にロキが問いかける形になった。
「同じ? 何と?」
少なくともこの家に入ってから出会った老夫婦や子どもたちに狼や熊の耳が生えているようには見えなかった。
「えっとね、えっとね――」
「ロスクヴァ」
少女の声を遮ったのは、未だ変声期まえの少年の声だった。少女――どうやらロスクヴァというらしい――の兄が入口に立っていた。
「疲れているみたいだから、休ませてあげなさいって婆ちゃんが言ってたよ。迷惑をかけないように」
少年は言葉を紡ぎながらロキを一瞥したが、すぐに視線を逸らした。といっても、嫌悪がある表情ではなく、恥ずかしがっているように見えた。人見知りなのかもしれない。
「迷惑じゃないよね」
と可愛らしく首を傾げるロスクヴァに、ロキは苦笑しつつも頷いてやった。
「ところで、えっと――」
少年に呼びかけようとしていたロキに、ロスクヴァが助け船をだしてくれた。「おにいちゃんは、シアルヴィだよ」
「シアルヴィ、申し訳ないのだけれど、ここ以外に空いている部屋はないかな? 居間でもいいし、屋根があればどこでも良いのだけれども……」
ロキは説明に迷った。トールと同じ部屋というのは、問題があるというか、とても恥ずかしい、気がするのだが、それを幼い少年少女に説明したとして、理解してもらえるかわからないし、理解してもらったところでそれはそれで困ってしまう。
「ここ以外に空いている部屋は――」
話しかけられたせいか、戸惑った様子のシアルヴィの言葉を遮り、ロスクヴァが手を挙げて「おねえちゃんはわたしたちと一緒に寝れば良いね」と発言した。
それはありがたい提案だった。少なくとも、トールと寝るよりは健全だ。
「えっ」とシアルヴィが声をあげたからには、ロスクヴァとシアルヴィは同じ寝台なのだろう。少女のほうはともかく、少年のほうはロキと一緒に寝るとなると、複雑な年齢なのかもしれない。声をあげたあとは俯いたままになってしまったシアルヴィに「一緒に寝せてもらっていいかな?」と尋ねる。少年は黙ったままで、首を縦にも横にも振らない。
そんな兄に妹が近づいていく。下から顔を覗きこんでからロキを振り返る。
「良いって」とにっこり笑った。
陽が沈みはじめ、夕餉の準備が始まる。老夫妻はあまり身体が壮健ではないらしく、調理を仕切っていたのは幼い少年のシアルヴィだった。ロスクヴァのほうは、トールと膝に乗って何やら話をしている。
「母さんは忙しいから」とシアルヴィは言った。「今日は外に食料の交換に行ってる。そろそろ帰ってくると思うけど」
「えらいね」
ロキが褒めてやると、少年は唇を尖らせて頷いた。恥ずかしがっているのかもしれない。可愛らしい。
シアルヴィとロスクヴァ。ふたりの幼い子どもたちを見ていると、ロキはどうしても己の子たちのことを思い出さずにはいられない。股の間から産まれたときには既に蛇の姿をしていた〈
彼らが人でも神でもない亡者と化したのは、すべて〈
彼らは不幸だが、その不幸さは彼らが人神の形をしていないからではない。
彼らが人神の形をしていないのにも関わらず、人神と同じ価値観しか持っていないためだ。彼らは亡者という化け物ではあるが、天然の亡者ではなく、もともとが人神であったため、価値観は人神と同じだ。普通に育てれば人神と同じ感覚や価値観を抱くようになっていたはずだ。アース神族や巨人族と同じような価値観を持ち、彼らが美しいと思うものを美しいと思い、醜いと思うものを醜いと思っていたはずだ。
彼らに自分自身の姿はどのように映るだろうか。正しい人神の姿を知りつつも、彼らの姿はけだものであり、醜悪な化け物だ。
そう考えると、一番幸せなのは〈
しかしそれを本当の幸せなどとは認めたくはない。
ヨルムンガンドもそうだが、ヘルもフェンリルも、いつか救われる日を待っている。
完成した夕餉は硬いパンにキャベツと芋のシチューという粗末なものだったが、冬のミッドガルドであれば当たり前の風景だろう。あとから干した鱈を追加してくれただけありがたいくらいだ。
夕餉を食卓に並べているときに家の戸が開いた。吹雪とともに入ってきたのはまだ年若く見える黒髪の女性で、ロキはすぐにシアルヴィとロスクヴァの母親であると気付いた。
「お母さん!」と食卓についていたロスクヴァが勢い良く立ち上がって駆けて行き、抱き着いた。老夫妻もロスクヴァとシアルヴィの母親を出迎える。
「ただいまです」少女たちの母親は背中で戸を閉め、両手に持っていた荷物を床に置いた。「ごめんなさい……ちょっと遅くなっちゃって」
彼女は一息ついたためか、ここでようやくロキとトールの存在に気付いたようだった。
「えぇと……お客さん?」と娘に問いかける。
「ロキとトール」と皿を運ぶシアルヴィが紹介してくれた。「旅をしているんだって。おかえり」
「そうなんですか」母親はロキとトールに笑顔を向けた。「はじめまして、リュングヘイドといいます。この子たちの母親です。何もない家ですが、どうぞごゆっくりしていってください」
「二人とも、東のほうから馬で来たんだって!」とロスクヴァが母親にしがみつきながら言った。
「あら……そうなの」リュングヘイドは首を小さく傾げる。「では途中、フレイドマルという猟人の家に寄りませんでしたか? わたしの父なんですが……」
(ああ………)
ロキは身体から力が抜けるのを感じた。
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