第3.8話 雷神トール、雷を落とすこと

 フレイドマルの小屋、トールの寝床として割り当てられたのは居間だった。文句は言えない。他人の家だ。主人であるフレイドマルが厚意で泊めてくれているというだけの状況で、これ以上の待遇はない。何せ、屋根があって、壁があって、炉に火が焚かれていて、暖かい。

「お連れさんとは一緒に寝ないのか」

 などとフレイドマルからは言われたが、トールは首を横に振った。ロキと一緒に寝たら、彼女の身体を潰してしまうかもしれない。ロキはフレイドマルの娘――既に嫁いで家を出て行ってしまったらしい――の部屋に泊まっている。彼女にはまだ安らかな休息が必要だ。

 小屋の主人であるフレイドマルはもちろんフレイドマル自身の寝室に向かってしまった。レギンももちろんレギンの部屋だ。ほかには地下に倉庫があるくらいで、部屋はもうないらしい――トールはそこまで考えて、自分がなぜこんなことを考えているのだろうと不思議に思った。たぶん、何か考える理由があったからだ。

雷神トール〉は戦士だ。戦いともなれば、己の全力を以て当たるだけでは勝てないこともある。相手の弱みに漬け込まなければ勝てないこともある。どんなにか卑怯でも、その選択をしなければいけないこともある――だからトールは人の心の動きには鈍くても、だから〈雷神〉は人の不自然さを見つけることには長けていた。何を気にして、何を企み、何をされたくないのかを見抜くために。

(ま、たいしたことじゃないさ)

 ここは他人の家だが、安全な人間たちの家だ。巨人との決闘場ではない。であれば、わざわざ犬のように鼻を突っ込むことではない。部屋がいくつあろうがいいじゃないか。フレイドマルに何か弱みがあるにせよ、それを暴き立てる理由などないのだ。


(そういや、川獺は出なかったな)

 別のことを考えようとして、トールは今日の夕餉のことを思い出した。トールが殺したあの川獺はなかなか肉厚で食いでがありそうだったのだが、残念だ。あれが咥えていた鮭は飯に出たのだが。

 次に考えたのは〈独眼の主神オーディン〉のことだった。自分が軍に所属する原因となった、長年会っていない友のこと。


 考えていたら、いつの間にか眠っていた。


 起きたのはロキの声のためだった。彼女の寝ている部屋から「オーディン」というロキの言葉が聞こえた――聞こえたような気がした。まさかこんなミッドガルドの果てにオーディンがいるはずなかろうとも思ったが、あの〈独眼の主神〉ならどんな離れた場所にいても遭難したトールとロキを探しにやってくるというのもありえるかもしれないとも思った。あいつはいつも何を考えているのかよくわからないうえ、なんでもやってしまう。

 起き上がり、炉から蜀台に火を移す。ロキが寝ている部屋は、居間から伸びる通路の奥だ。冬の寒さの対策のためか、居間から通路へ出るときにも分厚い木の扉を開ける必要がある。扉を開きながら、やはり先ほどの声は幻聴ではなかろうかという気がしてくる。いくら音のない冬の夜だからといって、扉ふたつぶんを越えてロキのか細い声が聞こえてくるとは思えない。


 だがロキの部屋の戸は開いていて――。

「ロキ、入るぞ」

 トールはその言葉のすべてを言い切ることができなかった。


 目に入ってきたのはまずベッドの上の拘束されたロキの裸身。それを押さえつけるフレイドマル。そしてこちらに向かって飛び掛ってくるレギン。

 トールは腰を落としてレギンを受け止め、勢いのままに投げ飛ばす。熊のようなフレイドマルならともかく、狐のように細いレギンであれば、いくら猟人生活で引き締まった身体とはいえ、肉体のぶつかり合いでトールが負ける相手ではない。

 誤算だったのは暗闇に目が慣れておらず、レギンが突進してきた際に手に持っていた物に気付かなかったことだった。トールの右の腕には深々と短刀が突き刺さっていた。


 痛みを堪えてトールは前進し、フレイドマルに左腕で殴りかかる。鈍重そうなフレイドマルの動きは予想していたよりもずっと素早く、飛びのいてかわされたものの、ロキの傍へと辿り着くことができた。

「トール………?」

 荒い息と視線の定まっていない目でロキが言葉を発した、が、トールは無視した。

「なんだおまえらは」とフレイドマルとレギンに向かって言う。「猟人ではなく、強盗だったか。強姦魔か」

「違う。これは息子の復讐だ」フレイドマルが手を持ち上げる。彼も手に何かを握っていることにようやく気付く。十字弓だ。短刀が刺さったままの右腕で受けようとしたが、動かない。いや、動いているのかもしれないが、動いているという感覚がない。これまで戦争で受けていたものに比べれば、傷はそれほどに深くないはずだ。刃に毒でも塗ってあったのか。

 右腕に突き刺さった短刀を抜き、構えようとしたが、フレイドマルの十字弓から射出された小型の矢がその刃を弾き飛ばした。いや、矢を弾いたと思えば、間一髪だったと安堵できる程度の心の余裕が産まれる。

「これはオッタルの復讐だ」

 とトールの背後に回っていたレギンが言った。


 ロキの身体は両腕両足ともに拘束されているようで、自力で逃げるように促すことはできそうにもない。後ろ手に縛り上げられた腕に手を伸ばすが、片手では荒縄の結び目は解けない。だからトールは動く左腕で彼女の身体を持ち上げた。

「人違いだ」

 トールは視線でフレイドマルとレギンを牽制しつつ叫ぶ。フレイドマルもレギンも、手傷を負わせ、動く腕は女の身体で塞がっているとはいえ、まだ戦闘力の残っている〈雷神〉を警戒しているらしかった。

「おれたちは、おまえたちの恨みを買うようなことは何もやっていない。人違いだ」

 フレイドマルが十字弓に次の矢を装填しようとしている。防ぐ武器もないトールに次の矢を撃たれたら防ぎようがない。彼を牽制しようとするまえに、レギンが腰に差していたいた小型の斧を振りかざし、トールに再度飛び掛ってきた。


 ロキの身体を庇い、トールは動かない右肩に力を込めて肩で斧を受け止めようとした。レギンはフレイドマルほど体格が良くない。受け止められるはずだと踏んだ。斧はトールの右肩に突き刺さった。鮮血が弾け飛び、痛みが頭を駆け巡る。筋肉に力を込める。斧は外れない。レギンを蹴倒す。

 ロキを抱えたまま、部屋の入口までにじり寄る。このまま部屋を出て、外へ出て、逃げ切れるだろうか。逃げ切ったとしても、この冬の寒さでは生きて朝を迎えるのは難しいだろう。

 トールはロキを抱えたまま、指先で彼女の肉付きの良い腰を探った。

 装填された十字弓の引き金にフレイドマルの力が掛かった瞬間、トールはロキをベッドの影へと放り投げた。集中していたトールには、射出される矢も、落ちた山刀を拾って再度跳びかかろうとするレギンの姿も見えていた。戦の繰り返しは、〈雷神〉の身体に戦いの舞踊を覚え込ませていた。

 トールはロキの腰元から抜き取っていた小さな手斧――《炎斧レヴァンティン》を振り抜く。理由を訊くのを忘れていたが、トールではこの手斧の真価は発揮できない。だが、矢を叩き落すには十分だ。

 飛び掛ってくるレギンに向き直り、ミョルニルにそうするようにレヴァンティンに力を込めた。しかしやはり《炎斧》は熱を発さない。刃で山刀を受け流し、柄を振りかざしてレギンのこめかみを打ったあとは、矢を再装填しようとしているフレイドマルへと《炎斧》を投げつけた。蹴倒されて頭を打ったらしいレギンと顎に斧の柄を喰らったフレイドマル。ふたりの男は動かなくなった。


 数呼吸分の余裕が生じたことを確認してから、トールはレギンが落とした山刀でロキを拘束する縄を断ち切った。全裸のロキに毛布を被せてやる。彼女の身体は震えていて、口をぱくぱくとさせて喘いでいたが、少なくとも視線はしっかりしていて、斧の刃が食い込むトールの右肩を潤む瞳で見つめていた。危険な状況であり、いざとなれば己が足で逃げなければいけないのだということさえ理解できてくれていれば大丈夫だ。それよりかは、逃げなくてもよい状況になってくれるのが最良なのだが。

「ロキ、治療の道具を探してきてくれ」

 トールが指示すると、ロキは慌てた様子で頷き、毛布を纏ったままで部屋を飛び出していく。

 彼女の背中を見送ってから、トールはフレイドマルを見下ろした。レギンは未だ動かないが、熊のような父親のほうは手を床につき、立ち上がろうとしていた――もっとも、顎を手斧の柄で打たれたとなればそれも容易ではなさそうだったが。


「人違いだ」

 フレイドマルを見下ろしながら〈雷神〉は戦闘中と同じことを言ってやった。ああ、人違いだ。おれはオッタルなんていう息子のほうには会っていないし、復讐される謂れなんてないのだ、と。

「オッタルは――オッタルは川獺だ」

 フレイドマルの振り絞るような言葉を聞いて、トールは己の疑問が氷解した。思い返してみれば、この家にオッタルの部屋がなかった。料理の皿には川獺が出てこなかった。トールが、トールが殺したあの川獺は――。

(亡者か)

 稀にそれは産まれる。人でも神でもないものが、人神じんしんの胎から産まれる。人神の心を持ち、異常な身体を持つもの――亡者が。九世界に広まった伝説では、亡者が増えすぎたとき〈火の国の魔人〉が現れて九世界を浄化するのだという。だから、というわけではないが、多くの亡者は産まれたときに殺される。亡き者にされるというわけだ。だがときに生き残るものもいる。オッタルは後者だったのだろう。川獺の姿で産まれ、育ったのだ。

「おまえが自慢げにオッタルをぶら下げてきたときのわたしの気持ちがわかるか。息子を殺した男の笑顔を見たときの気持ちを。おまえたちはオッタルを殺したことになんら罪の意識を抱いていないようだが、おまえたちは確かにわたしの息子を殺したんだ!」

「黙れ、屑め」

 トールは立ち上がり、フレイドマルに近づいた。

「おまえたちはロキを犯そうとした」トールは言う。「おれの話を聞いたおまえは、オッタルを殺したのがおれだとわかっていたはずだった。おれの背に抱えられて死にそうだったロキが何もしていないなんてのは明らかだったはずだ。ロキは何もしていないのだと知っていたはずだった。

 それなのにおまえたちはロキを襲った。おまえたちはロキを襲いたかっただけだ。オッタルを愛していたわけじゃない。ロキを襲いたかっただけだ。オッタルを殺した男とロキがたまたま一緒にやってきたから、ロキを都合良く襲えただけだ。おまえたちは嘘つきだ。オッタルのことを息子なんだなんて思っていやしない。ただのペットだ。非常食だ。おまえたちは嘘つきだ。昔からそうだ。ミッドガルドの人間も巨人も、嘘つきばかりだ。言いたいことだけ言って、殺すだけ殺して、戦争をしたいだけ戦争をして、それでグリッドも殺した。おまえたちは嘘つきだ。おまえたちはロキを襲いたかっただけだ! 屑め、黙れ、屑め!」

 トールは傷口から血が噴き出す肩を引き、拳を打ち下ろした。


 冬の空を切り裂き、一つの雷が小屋に落ちた。

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