第3.6話 狼の母ロキ、猟師小屋で目を覚ますこと

 寒い。寒い。下は海で、上からは雨粒が襲う。稲妻に撃たれたら黒焦げになるだろう。一瞬たりとも気が抜けないままで、雷神トールの巨体を抱えている。重いが、その手は離せない。〈世界蛇〉を追い払ったあと、彼はまた気を失ってしまった。

 〈世界蛇〉に吐き出されたあと、トールと離れ離れにならなかったのは幸いだった――本当だろうか? 彼のことを見つけられないほうが良かったのかもしれない。そうすれば、もっと楽に飛べていたはずで、今頃は陸地に辿り着いていたかもしれない。だが、だが――ロキはトールを抱えて飛んでいた。


 ロキは己の羽が徐々に小さくなっていくのを感じていた。ロキの身体に一体化している《双翼ナルヴァーリ》の主機能は飛ぶことではない。呪力を蓄えることだ。その蓄えた呪力が消耗している――重いトールの重みを少しでも軽減するために《羽靴フレスヴェルグ》に力を注いでいるためだ。

 ロキには為さねばならない使命があった。いや、正確にはロキに、ではない。ロキがロキになるまえ、〈苦難の運び手シギュン〉と呼ばれていたときのことだ。〈力の滅亡ラグナレク〉に訪れる災厄を退けるため、シギュンだったロキには〈双翼〉が与えられていた。この翼は、この呪力は、そう、そのためのもの。

 それは理解していたが、ロキは《双翼》を消耗しながら飛び続けていた。トールの手を放したくはなかった。ロキの――ロキの数少ない友人。アースガルドで最初に声をかけてくれたひと。彼を助けたい。助けたいが、このままではもたない。呪力より先に、ロキの体力が尽きてしまう。いかに〈神々の宝物〉の力を使っても、トールは重い――重いのだ。

 どうすれば良いのだろう。必死で飛び続けながら考える。ロキとトールをここまで運んできた《九還ドラウプニル》を見つけて再起動すれば、おそらくは灯台まで戻れる。だがきっとドラウプニルは海に落ちてしまった。拾えない。どうにか陸地を探すしかないのだ。だが、どこへ、どこへ飛べば――もう。もう無理。無理だよ、トール。

 何度も、何度もロキはそう思った。だが彼の手を放すことはできず、ロキは――。


 ぱち、という音はとても遠くから聞こえてきたような気がした。

 瞼を開いてみれば、瞳に最初に飛び込んできたのは木だった。木組みの天井。夜空でも青空でもなく人神じんしんの作り上げた屋根があった。

(夢を………?)

 どこからが夢だったのだろう、と問うまでもなかった。身体中が痛かった。足も、指も、じんじんする。《九還ドラウプニル》で海まで飛ばされたのも、〈世界蛇ヨルムンガンド〉に襲われたのも、トールを抱えて海を飛び続けたのも、命からがら陸地を見つけて洞窟に逃げ込んだのも、死にかけていたトールを己の身体を温めたのも、凍傷で壊死しかけていたその身体を〈双翼〉に残った呪力で修復したのも、すべては現実だ。

 寝たままで重い腕を動かし、己の身体を確かめる。指や足はついている。顔にも手をやり、鼻や耳が凍傷で腐ってはいないことを確かめる。少し垂れ気味の犬耳も、大丈夫。全身が打たれたように痛いが、この程度で済んで幸いだ。仰向けに寝ても違和感がないほどに羽は縮んでいた。

「トールは………」

 己の身体から出た声は、ほとんど言葉になっていないほど掠れていた。喉が痛い。

 一度大きく瞬きしてから、手を寝台について身体を起こす。上にかかっていた毛布が剥がれると、ロキは己がもともと着ていた服ではなく、ガウンを着ていることに気付いた。鼠色のガウンはロキの身体には合っておらず、力が入らないため袖口から手を出すにも苦労した。

 周囲を見回す。寝台と暖炉ある小さな部屋だ。炉には火が焚かれており、目を覚ましたときの弾けた音はこれが原因だろう。ガウンの下は何も身に着けてはいなかったが、火のおかげで寒さは感じなかった。ロキは寝台を支えに寝台からどうにか出る。立ってみると、身体はまったく覚束ない。おまけにガウンは大きすぎて、部屋を出るために歩き出そうとしたロキは、裾を踏んづけた。

 起き抜けと長時間の飛行による疲弊、それに羽が縮んでしまってバランス感覚がいつもと違うため、ロキはあっさりと転んでしまった。「あふっ」という情けない悲鳴まであげてしまう。手をつこうと思ったのだがその反応さえも遅く、頭を床にぶつけてしまい、鈍い音が響いた。


 痛い、などと呟いても誰も聞いてはいなかったし、その声はばたばたと大きな足音が響くことで打ち消された。

「ロキ!」

 転んだ姿勢のままでロキが視線を上げたが、扉を開いてやってきた相手が誰かを確認するまえに抱き寄せられたので、相手の顔は確認できなかった。もっとも、顔を見ずともその声と太い腕で、誰なのかはわかりきっていたのだが。

「ロキ、良かった……! 良かったなぁ……!」

「トールも」

 しばらく抱き合ったのちに、〈雷神〉は身体を離してくれた。危なかった。あのまま抱き締め続けられていたら、背骨が折れるところだった。

 改めてトールを見上げる。顔も、指先も、どこにも欠損はなかったので、ほっとする。呪力で身体を修復したのは久しぶりのことだ。《双翼ナルヴァーリ》により人神の治療は本来の使い方ではないため、何か異常が出るのではないかと不安だったのだ。


「トール、あの……」

 いつまでも見つめ合ってはいられないので、掠れた声でトールに現状を問おうとしたとき、彼の背後から男の声が聞こえてきた。

「お連れさんはお目覚めになりましたか?」

 低く落ち着いた声だった。であれば、この小屋の持ち主かその親類縁者だろう。行き倒れかけていたロキとトールを助けてくれたのであれば、善人に違いない。

 だが和んでいたトールの表情が少し険しくなった。敵対心は見えなかったが、一瞬の緊張が見えた。

「ちょっと待ってろ。飲み物を貰ってくる」

 そう言って、トールは部屋を出ていく。きちんと扉を閉めていったのは、ロキが出ないようにとのことだろう。自分以外の誰もが入ってこないように、という意味かもしれない。寝台に腰かけて待つ。

 トールはすぐに戻ってきた。手に持っていた木杯に入っているのは湯気が出るほど温かい蜂蜜酒で、ロキはそれを両手で受け取って嚥下した。久しぶりに喉に物を通したため、一度咳き込みそうになってしまったが、落ち着いて飲むと痛んでいた喉がすっきりした。胸からお腹にかけて、温まっていく感覚がある。

「ロキ、ここは人間族の国だ。第五世界リュッツホルムだ」


 トールはロキに向かい合うように床に胡坐をかき、語り始めた。ロキを背負い、雪原を歩き続けてきたこと。夜に差し掛かったときに明かりのついた小屋を見つけたこと。それが猟師の家だったこと。殺した川獺とそれが咥えていた魚を対価に、家の中に泊めてもらえないかと頼んだこと。フレイドマルという老いた人間族の猟師は快く受け入れてくれたこと。

「川獺って、そんなに喜ばれた? あんまり美味しそうには見えなかったけど」

「狼よりゃましだろう」とトールは肩を竦める。でなければ、フレイドマルという男の単なる親切だろう。「でだ、さっき言ったけど、フレイドマルってのがこの家の主人だ。爺さんだな。いや、爺さんってほどじゃあないか。おっさんだ。奥さんはだいぶ昔に亡くなっているらしい。あとの家族は、ふたりの息子だ。ひとりはレギンって名で、もうひとりはオッタルというらしい。レギンには会ったよ。若い、痩せた男だった。オッタルのほうは狩りに出ているらしい。まだ帰ってきていない」

「ここってどのへんかって、訊いた?」

「ミッドガルドの東南端だ。ド田舎だよ。ミッドガルドの大山脈も、世界樹の幹も、巨人族のヨツンヘイムも、黒妖精のスヴァルトアールヴヘイムも超えた端も端だ」


 ロキは頭の中に宇宙の三層を思い描く。この世は三つの平面から成っている。アース神族やヴァン神族が住まう第一平面アースガルド、巨大な海を持ち人間族や巨人族が住まう第二平面ミッドガルド、そして死と亡者の第三平面平面。それらを繋ぎ合わせているのは世界樹ユグドラシルの幹と根だ。〈世界樹ユグドラシル〉がなくなれば、この世はばらばらに砕け散ってしまうだろう。

 ほとんど隔絶されている第三平面はさておくとして、アースガルドとミッドガルドは幾つかの手段で連結されている。だがその多くは第一平面から第二平面へ一方通行だったり、第二平面から第一平面に昇るのが容易ではないルートだ。最も簡単に第一平面に戻るならば、西端にある〈虹の架け橋ビフレスト〉まで行かなくてはならない。が、ロキたちのいる場所は〈虹の架け橋〉の反対側だ。あまりにも遠い。ここからビフレストまで何リーグあるだろう。

 しかもここがミッドガルド東南端ということは、西まで辿り着くのに巨人族の世界ヨツンヘイムか、黒妖精の国スヴァルトアールヴヘイムを通らなくてはならない。どちらにしろ、危険が伴う。敵に見つからずに戻るのは困難を極めるだろう。


「そういうこった」と〈雷神〉は肩を竦めた。「なんでこんなところに来ちまったかな。おい、ロキ、おまえはわかるのか? なんでおれたちがこんなところにいるのかって」

「なんでっていうのが手段っていう意味ならわかるよ。トールが灯台の中で変な腕輪みたいの拾ったでしょ。あれ、《九還ドラウプニル》っていう〈神々の宝物〉だよ」

「なんでそんな〈神々の宝物〉があったんだよ」

 トールの何気ない一言に、ロキは息を詰まらせた。

 が、〈雷神〉はそれに気づかなかったかのように「まったく、巨人族の罠か? ミョルニルのないこのときに、状況が悪すぎる」などとひとちてくれた。


 何を言おうかとロキが迷っていると、ぐるぐると、狼の唸り声のような音が己の腹から響いた。腹の音だ。蜂蜜酒を入れて、身体がようやく調子を取り戻したらしい。

「元気そうだな」とトールが笑う。「ちょうどいいや。いまフレイドマル……さっきも言ったが、この家の主人だな、そのひとが飯を用意してくれている。遅い晩飯だ」

「親切なひとだね」

「おれもおまえも、とりあえず巨人族ってことにしてあるからな。旅人で、漁船が難破して流れ着いたってことにした」

 アース神族は人間族と特に敵対しているわけではない、が、アース神族が九世界に争いを振りまいているのは周知の事実だ。〈狼の母ロキ〉はもともと巨人族だがアース神族のもとで生活しているし、〈雷神トール〉はアース神族軍の主要人物だ。要らぬ争いにならないように、アース神族に関連があることを伏せたのはトールの好判断だといえるだろう。

「でも、誤魔化せたの? 羽とか……」

「羽は小さくなっていたからな。耳は――まぁ、なんとかなったんじゃねぇの? 特に訊かれはしなかったよ」

「なんとかなったって………」

 ロキは己の犬耳に触れる。これだけ主張するものが目につかないとは思えないのだが、確かに訊かれなかったのならば、それでいいのかもしれない。

「そろそろ出来上がる頃合いかもしれん。喰いに行こうぜ」とトールは立ち上がる。

「いいのかなぁ、冬なんだし、食べ物は貴重なんじゃ……」

「いちおう対価は渡したぞ。川獺と鮭をな。遠慮するなら遠慮しながら食えばいいさ」

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