第3.7話 狼の母ロキ、閨を襲われること

《九還ドラウプニル》はオーディンの持っていた〈神々の宝物〉だった。


 というよりも、ほとんどの〈神々の宝物〉は〈独眼の主神オーディン〉が作ったようなものだ。だが既に多くの〈宝物〉は九世界にばらまかれており、オーディンの手元に残っているのは《戦槍グングニル》などごく僅かに過ぎない――そして《九還》はその僅かな〈宝物〉のうちのひとつだ。

 でなくても、ドラウプニルの使用は難しい。あの〈神々の宝物〉はロキの《炎斧レヴァンティン》やトールの《雷槌ミョルニル》のように単純ではなく、限られた状況、限られた時間にだけ空間を繋ぎ、中に入った者を転送させる。魔法の仕組みを理解していなければ使えないものだ。


 そして、灯台に仕掛けられていた《九還ドラウプニル》は正しく効果を発揮していた。ロキは気付いていた。ドラウプニルがその効果を発揮し始めたのはロキが接近したからだったということを。分裂した輪を取り囲んだのはトールではなくロキだったということを。対象を設定し、罠のようにこの〈神々の宝物〉を正しく使える人神はほとんどいないということを。この〈神々の宝物〉の持ち主が〈独眼の主神オーディン〉であったということを。〈独眼の主神〉が〈狼の母ロキ〉を狙ったのだということを。


(オーディン――あなたはどうして……!)

 何処へ行ってしまったの?

 フェンリルはアースガルドで縛られている。初めてひとを傷つけ、同時に傷つけられた。おぞましい手首を口の中で味わいながら、心臓を締め付けられる痛みに叫んでいる。

 ヘルはニヴルヘイムで腐っている。信じていた父親に裏切られ、地の底まで落とされた。温かみを感じない肌を引きずりながら、自らの身体を腐らせ続けている。

 ヨルムンガンドはミッドガルドで生きている。何も知らないままで海の中へ投げ込まれた。喜びも悲しみも知ることもなく、ただその日その日を生きる暮らしをし、母親を見ても何も感じることもなく生きている。


 あなたはそれなのに、何も感じないというの?

 あの3人を想う心を失くしてしまったの? 


 オーディンのことを想い返しているうちに、自然とロキの吐息は熱くなる。一人でアースガルドの自室にいるときと同じように、身体をくの字に折り、指をしゃぶった。唾液のついた指を両足の親指の間にあてがってから、ようやくここが第二平面ミッドガルドのフレイドマルの家の寝台の上であることを思い出した。濡れた指をガウンで擦り、炉の明かりだけが燃える部屋の中で溜め息を吐いた。

(さすがにこれは、ない)

 自分自身で呆れてしまう。他人の家でこれはないだろう。いくら一人部屋を借りられたとはいっても。


 寝台に入るまえ、トール、フレイドマル、レギンとともにロキは食卓を囲んだ。寝巻きの下は裸で、三人の男に囲まれているという事実には少々緊張した。フレイドマルとレギンから少しだけ離れ、トールの傍に座ったが、途中で警戒心をしぜんと解くほどに家の主人、フレイドマルは好人物だった。見た感じはいかにも猟人であり、高齢ともいえる年齢に見えるが、体格は人間族にしては良く、髪は黒く、肌は浅黒く、種族らしい容姿だった。まるで熊だ。

「どうですか、お身体の具合は」と食卓にロキがやって来たとき、フレイドマルは笑顔で尋ねてきた。

「あ、はい、おかげさまで……」ロキは急いで頷き、頭を下げた。「すみません、本当にありがとうございます。お邪魔して申し訳ありません」

「いえいえ、そんなに恐縮しないでください。冬の長夜は暇でね、旅人の方が滞在してくれるのは嬉しいことです。それに妻も先立たれて娘も嫁に行き、今は華がない生活ですからね。若いお嬢さんなら大歓迎ですよ」

 ロキはどう答えるべきかわからず、曖昧に微笑んだのを覚えている。

 時折彼の目はロキの頭、つまり髪では隠しようもない犬耳に注がれているのだから、間違いなくロキがただの巨人族ではないことには気付いているのだろう。〈狼の母〉の名が人間世界まで届いているかはわからないが、明らかなる不審者に見えることは間違いない。でありながら泊めてくれるのだから、懐が広い。そもそも食料の乏しいミッドガルドの冬にも関わらず旅人を受け入れてくれるのだから、厚情がありがたい。

「いえいえ、食糧はそう乏しくもないのですよ。オッタルは狩りが得意でね」

「オッタル?」

 聞いたような覚えのある名だったが、まだ少し頭がぼうっとしていたため、フレイドマルの口から出てきた人物が誰なのかすぐにはわからなかった。

「ええ、わたしの息子です。ああ、紹介が遅れました。こちらレギン」

 とフレイドマルがそのとき同じく食卓についていた男を紹介した。フレイドマルとは対照的に、線の細い、釣り目で狐を思わせる若い男だ。

「もうひとりの息子がオッタルというのですが、彼は狩りが得意でね、冬でも獲物を取ってきます。おかげで食料には不自由しないんです」

 フレイドマルが言うように、食卓は冬とは思えないほど豪華だった。焼いたヘラジカ肉とコケモモのジャム添え。ライ麦パン。焼いたサケと蟹のレモン乗せ。鱈の丸干し。芋の肉入り蒸団子。蜂蜜酒と麦酒。間違いなく、客人をもてなすためにいつもより豪勢にしているのだろう。オッタルという人物がどれだけ狩りが得意でも、冬は冬なのだ。遠慮しなければならない。それはわかっていたが、丸一日何も食べておらず、そのうえ冬の海に浸かったりトールを抱えて飛んだりしていたため、肉を目の前にして腹の音を抑えることはできなかった。

「食べましょうか」

 と笑いを堪えた調子でフレイドマルが言う。

「でも、あなたの息子さんが………」

「オッタルはまだ狩りを続けているんでしょう。あれはこの程度の雪ではものともしませんから。今日はもう帰ってこないかもしれませんね」


 もう外は真っ暗だというのに、フレイドマルは軽い調子だった。よほどオッタルというその息子を信頼しているのはわかるが、こんな冬に外で一夜を過ごすなどというのは大丈夫なのだろうか。他人事ながら、心配になる。それとも人間族というのはみなこんなに暢気なのか。

 そんな想いを抱えながらも、ロキもトールも他人の息子を心配するよりも、己の腹を優先させてしまった。フレイドマルが作ったのだという料理は見た目通りに美味く、舌鼓を打った。残念なのは体力を消耗し過ぎていて、美味い料理でもそれほど多く食べられなかったことだった――トールは雪原を歩き続けたことなど気にしないように食べ続けていたが。


 その後、ロキは目覚めたときの小さな部屋に案内された。嫁いだ娘が使っていたいまは使っていない部屋なので、自由に休んで欲しいと言われ、ロキは素直に言う通りにした。寝台に潜り込み、指を股の間に這わせていたのはつまり食事のあとのことだ。

 溜め息を吐いて、ロキは思いに耽る。考えてしまうのは自分の子どもたちのことだ。アースガルドで血肉を撒き散らしながら悶えている〈魔狼〉のこと。ヘルモードで温まる血も循環する呪力もないまま腐りつつある〈半死者〉のこと。ミッドガルドで何も考えず、ただひたすら獣として生きている、己の母親をそれとわかっていない〈世界蛇〉のこと。

 彼らを助けられるのは〈独眼の主神オーディン〉だけだろう。逆にいえばオーディンが動かない限りは彼らは永遠に責め苦に苛まされ続けるということだ。

 ロキは最初、自分の子どもたちがあの姿――人でも神でもない亡者と化したときに、オーディンがすぐに助けてくれるものだと思っていた。だがそうではなかった。何もしてくれなかった。どれだけ時間が経っても。

 もはやオーディンは、何もしてくれないのだ。ロキは何度も己にそう言い聞かせようとしたが、オーディンへの想いを断ち切ることはできなかった。

 ロキは眠った。〈独眼の主神〉のことを想いながら。


 物音。

 目が覚めたのは物音のせいだった。自分の棲み処としている塔の扉は、こんな軽い音がしただろうか、とロキは夢現に思った。次に、いったい誰が訪ねてきたのだろう、と。


 オーディン?

「オーディン?」

 違う。

 そんなはずがない。

 オーディンはここにはいない。


 部屋に入ってきた人物の姿は、目覚めたばかりのロキの目にはただ影のようにしか見えなかった。影はロキに覆いかぶさり、悲鳴をあげるまえに口を塞いだ。両の腕も纏めて拘束された。腹の上に圧し掛かられたため、足はばたつかせることしかできなかった。口と腕を拘束されているにもかかわらず、さらにロキの身体に腕が、手が、指が伸びた。一枚きりの寝巻きが剥ぎ取られ、体格に不釣り合いな重たい乳房がぶるんとまろび出た。

 影はふたつ。

 影の顔がロキのすぐの近くにあった。口から漏れる臭気が頬にかかった。涎なのか涙なのかわからない粘性のある液体が胸に落ちた。生暖かい水が肌を伝わる感触があった。硬くて柔らかいものが近づいていた。口から手がどけられる。呼吸をしようと口をあけた瞬間に口内に生暖かく濡れたものが入ってくる。ロキの舌に絡み付いてくる。腿と腿の間に熱い吐息がかかる。それでもロキは動けない。


 ロキは見た。二人の男は小屋の主、フレイドマルとレギンだった。

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