第3.5話 雷神トール、狼の母を背負い雪原を歩むこと
「死なせてたまるか」
雪が降っていた。
「死なせてたまるか」
雪の粒は大きく穏やかで、その下の世界は死と眠りに満ちていた。動くものはなく、ただ冬が樹々を揺らす音だけが充満していた――たったひとつの影を除いては。
「死なせてたまるか………!」
〈
(軽いな………)
背中に背負うロキはあまりにも軽く、背負っているのを忘れるほどだ。だがそれはトールにとって、なんの助けにもならなかった。
ロキは以前より、どこか小さくなったような気がした。
いや、もともと小柄だった。巨人族の女なれば当然だ。だが、暗い洞窟の中で目覚めたとき、目の前で倒れていた〈狼の母〉の身体を上から下まで眺めまわして、彼女の変化に気付いた。羽だ。広げれば人神をひとりふたりと包み隠せるほどもあり、小さく畳んでもなお人神の視線から逃れることができなかった猛禽のような翼は、ロキ自身の身体ですっぽり隠せてしまうほどにまで小さくなってしまっていた。
冬の海に落ちたはずだった――そう、トールは覚えている。目の前に広がる赤い口。〈
兎に角、冬の海にいた。それは間違いない。心の臓までが凍るほどに冷たい海だった。それは確かだ。それなのに、なぜトールの身体はこんなにも活力に満ち満ちている? まるで己の館でぐっすりと眠った直後のよう――とまではいかないまでも、少なくとも動くには不自由しない。指先まで力を籠められれば、魔女だろうが乳首でも摘まんで冷たさを忘れさせてやれそうなほどだ。一方で、ロキの身体は冷えに冷え切っている。
彼女が何をしたのかは知らない。
だが間違いないのは、〈
名を呼ぼうとも、ロキは目を覚まさなかった。死んではいない。眠っているだけだ。まだ、生きている。洞窟の中には、彼女が暖を取ろうとしていた跡があった。洞窟に転がる掌大の大きさの石に、彼女が持ち歩いている黒い手斧が突き刺さっていたのだが、その石が暖かかった。斧は、たぶん《炎斧レヴァンティン》だとかいう〈神々の宝物〉だ。確か石壁をやすやすと切り裂くほどの熱を発生する代物で、おそらくはそれで石を熱したのだろう。ならばトールでも、と思いきや、その〈神々の宝物〉はトールが握っても熱を発してはくれなかった。理由はわからなかったが、手頃な暖を取る方法がない以上、この場でこれ以上休むという選択肢はなかった。
洞窟を出ると、視界には雪原が広がっていた。波音が聞こえるため、すぐ近くに海があることがわかる。ロキは〈世界蛇〉から逃れたあとで、トールを担いであの海を飛び続けたのだろう。彼女に抱えられて飛ぶのは二度目だ。巨人族の街スリュムヘイムでは、彼女は弱音を吐き、最終的に市街の屋根に落ちた。だが今度はトールの身体を離さず、海を渡り切った。どんなにか辛かっただろう、この無駄にでかいだけの身体を運ぶことが。
太陽は海の影に隠れてしまっている。時刻は未明か、夕暮れの薄明か。
おそらくは日の出前だ、と検討をつける。海があるということはここは第二平面ミッドガルドだが、これだけ雪が降っているということは温暖な第一平面アースガルドの影響受けやすい西側ではなく、東側だ。トールとロキは西側にいたはずだが、一瞬で東側の海に落ちていたということになる。〈神々の宝物〉の力だろう。そんな力を持つ〈神々の宝物〉は知らないが、数多の種類があれば、どれかひとつくらいそうした転送能力を持つものがあってもおかしくはない。
海に落ちるまでは一瞬のことだった。あのときは夕方に近かった。その後の〈世界蛇〉の戦いののち、ロキがどれくらいの時間飛んでいたのかはわからないが、トールを抱えてそれほど長く飛べたわけがない。その後に洞窟で休んだとすれば、転送されてから半日ほどだろう。未明だ。これから昼になってくれるのでなければ、出発できない。だから、予想というよりは希望だった。
「ロキ、行くぞ」
声をかけても返事がない〈狼の母〉の身体を、乾かした服で己の身体に縛り付ける。このままここで暖を取ろうにも、物資はない。トールはともかく、このままではロキは死ぬ。彼女を死なせてはならない。彼女は友であり、命の恩人だった。
だからトールは、己がどこにいるのか、どちらを向いて進んでいるのかさえわからない雪原に歩を進めた。進めていた。死なせてたまるか――進めていた。
「寒いな」
返事がないことはわかっていたが、トールはときどきロキに話しかけるようにした。声が聞こえてくれれば、彼女が生死の境を越えないでくれるだろうと信じて。
「だが、それよりかは腹が減った」
と言って、トールは笑ってやった。ああ、これは本音だ。少しまえまでぐるぐると鳴り続けていた腹だったが、もはや無駄だと悟ったのか静かにしている。とはいえ腹の減りは変わらない。
「どれくらい歩き詰めだ? もう陽がだいぶん沈みかけてる。朝から歩き詰めだ。おれはまだ歩けるがな、これ以上暗くなると方向がわからなくなる。どこか屋根がある場所を見つけて休まないと不味そうだな。そのあとで飯でも――おい、ロキ、ちょっと静かにしてろ」
トールはロキを背負ったままでしゃがみ、水の流れる小河の近くで小石を拾うや、雪原の中に投げつけた。小さく悲鳴があがる。トールは石を投げたところまで歩み寄ると、胴長の毛深い動物を雪の中から掴みだした。川獺の頭は凹み、口元には血が広がっていた。
「見ろよ、ロキ。
「一石二鳥ってのはこのことだね………」
その応答はあまりにも小さく、トールは最初、小川の
「起きたか、ロキ? おい、随分とぐっすり寝ていたな。おれの背中がそんなに寝心地が良かったか」
そんな軽口に、しかしロキの反応はなかった。
「ロキ?」
どころか、呼吸はそれ以前よりもずっと浅く、小さくなっていた。
「おい、死ぬなよ、ロキ」
トールは呼びかけた。何度も。何度も。
「ロキ! 死ぬなよ! ロキ、起きろ! おい馬鹿、起きろ! ロキ!」
絶望感に包まれたとき、目の前は暗くなるものだと思っていた。だがトールの視界にはひとつの明かりが灯るのが見えた。その明かりが、己の馬鹿でかい声が呼び起こしたことにまでは気付かなかった。彼の胸中には、ただ〈狼の母〉が休む場所を見つけたという歓喜だけがあった。
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