第2.11話 狼の母ロキ、妖精王への助成を雷神に窘められること

 羽が重たかった。腕はぴんと伸びていて、つられて足にも力が入った。翼と腕とに意識を集中させ、掴んでいるものを離さずに飛ぶことだけに注力しているから、真っ直ぐに飛べているのかどうか自信がない。なぜこんなに重いのだ。こんな……こんな、くそ、重い。くそぅ、汚い言葉が漏れてしまった。だがいちいちそんなことを反省している余裕はない。ロキはスリュムヘイムの上空を、トールをぶら下げて飛んでいた。


「おーい、ロキ、大丈夫か」

 下からトールが声をかけてくる。心配そうな声色だったが、いちいち表情まで確認する余裕がない。下を向けば、そのままゆるゆると落ちていってしまいそうだ。

「重い………」

「そうなんだ」

「ほんとに………」

 重い、とロキは呟いた。身体中が汗でべとべとで、脇だの背中だの股だの色んなところから出た水滴が腕や足を伝ってトールのほうへと零れた。張り詰めた腕も、動かし続けていた翼も限界が近かった。だが、これはロキにとってはフレイを助けるための二番目に確実な手だった。火には水、鹿には狼、巨人には〈巨人殺し〉。雷神トール以上に巨人族と戦うことに手慣れている者はいないのだから。


 フレイにはゲルドという巨人族の女性に《妖剣ユングヴィ》を届けるように頼まれた。それで身を守れ、と。フレイの言いたいことはわかる。フレイが負けたとき、おそらくアース神族は約束を守りはしまい。スリュムヘイムはふたたび戦場と化す。

 ロキはゲルドを知らない。だがフレイが守りたがっているということはわかった。大事なひとなのだ、と。だからゲルドに関しては、フレイの言う通りにした。彼女を探し当て、そして《妖剣ユングヴィ》を残してきた。そこで安穏としていれば、ひとまずは何が起きても安全だっただろう。だがロキは守られているわけにはいかなかった。だからそのあとでシアチの館へと逆戻りした。屋根から壁伝いに下りていき、客間のひとつにたどり着く。〈雷神〉の病室として扱われている部屋だ。そして、助けてくれるようにと頼んだのだ。トールの代わりにフルングニルと戦わなければいけないひとがいるから、助けてくれ、と。

「おう」

 軽く請け負ったトールの身体には未だ包帯が巻かれてはいたが、随分と元気になっているように見えた。少なくとも血色は良かったし、目には力が宿っていた。だから、きっと――きっと彼なら勝てる、とロキはトールを抱えたまま、シアチの屋敷を抜け出したのだ。

 抜け出すまでは良かった。誰にも見つからなかった、と思う。おそらく。予定通りだ。問題があるとすれば、トールがあまりにも重すぎるということくらいだ。ロキは《羽靴フレスヴェルグ》の力で重さを軽くしながら翼を使って飛行している。だから、トールを抱えていたとしても、そのすべての重みを羽で支えなければいけないわけではない。それでも、重いものは重いのだ。


「だいぶ遅くなっているぞ、おい。大丈夫か、ほんと」

 トールの言う通り、ロキの飛行速度はどんどんと落ちていた。体力がもたない。日頃、動いていないからだ。腕も、足も、胸も腹も脂肪がつきすぎだ。こんな運動には向かないのだ。自分ひとりが飛べればそれで充分なのだから。ああ、辛い。こんなふうに飛ぶなんて。いや、それでも、地上で歩くよりはずっと速いはずだ……走るのと比べると遅いかもしれないが。

「わかってる………」


(失敗したかな………)

 スリュムヘイムは巨大だ。この街は第二平面ミッドガルドの中で最も第一平面アースガルドに近い、いわば前哨基地だ。戦争ともなれば危険もあるが、なければならない街でもある。だからこそ平時は人が集まるようにと巨人族も資源を注いでいる。であれば人神ひとりを抱えてひとっ飛びと軽くはいかない。

 トールに代わりに決闘に出てもらうのは、フレイを助けるための手段のうち、ロキにとっては二番目に確実な手であった。だからこそこの手段を選択したのだが、ほかに最も確実な方法があり、しかもそれはロキにとっては簡単な行為だったが、ロキはそれを採択しなかった。それは、どうしてもやりたくない方法だったから。


 ロキにとって、フレイというのは所詮その程度の存在だった。

 助けられるのならば助けたいが、すべてを投げ打ってまで助けたいわけではない。

 それが、腹が立つ。己の考えに、ロキは腹を立てた。憤りと虚しさを感じると、一時だけ腕と翼の疲れを忘れることができた。それでも、決闘場所のバリの森まではまだまだ遠い。


「トール……あの……」ロキはトールに声をかけようとして、しかし疲弊で言葉が見つからない。「重い………」

「こればっかりはどうにもならん」

「何か捨てるものはない……?」

「ねぇよ。着の身着のままで出てきたんだ」

「ミョルニルを捨てちゃってもいいや……。どうせ〈神々の宝物〉は使わないことになっているんだし………」

 それは精一杯の冗談だった。《雷槌ミョルニル》はアース神族の命綱ともいえる〈神々の宝物〉であり、決闘の試合者変更という強硬手段を認めさせるうえでの後ろ盾にもなりうる。であれば、スリュムヘイムの上空でそれを捨てるなんてありえない。

「捨てたけりゃ捨てろよ。このまま落っこちるよりはいいや」

 とトールが笑いながら言ったとき、ロキは不自然さを感じた。捨てたけりゃ捨てろ?

「あの、トール……ミョルニル、持ってるよね?」

「ん? おまえが持っているんじゃないのか? おい、見ろよ。さっきも言ったけど、おれはそのままの格好で病室を飛び出してきたんだぜ。おまえが持っているんじゃないのか? 小さくしてさ」

 《雷槌ミョルニル》はアース神族最強の〈神々の宝物〉だけあり、いくつかの機能が備わっている。大きさの変更もそのひとつだ。そして、ロキはトールがその縮小機能を利用して服の下にでも持っているのではないかと思っていた――そしてトールも同様に思っていたらしい。


「あぁ………」

 《雷槌ミョルニル》なしに決闘場に赴いて、それでこちらの我を通すことなどできるものか。そう思ってしまえば力も気も抜けた。

「おい、ロキ、落ちてるぞ……おい」

「フレイ……フレイが――戦わなくちゃいけないなんて………」

 高度を下げながら譫言のように呟くロキに、トールが急に声調を変えて問いかけてきた。「フレイ? おい、フレイが決闘をする予定なのか?」

「フレイだよ………」

 そんなことも知らなかったのか。いや、そういえばロキも、誰と戦うか、までは言ったが、誰が戦うのか、までは言っていなかった。

「なぁんだ。じゃあわざわざおれが行く必要がないだろうに」

 トールの言葉は軽く、世界樹が世界を支えていることを伝えるかのように当たり前の口調だった。

「それって………」

「あいつが負けるはずないだろう」

 それはどういう意味か、と問うまえに、ロキはトールともどもスリュムヘイムの建物の屋根の上に不時着した。フレイ……ああ、フレイは――負けるはずがない? あの巨人族最強のフルングニルに。あの〈金の鬣〉に。あの〈神殺し〉に。


 トールを手から離し、屋根の上でロキは仰向けに寝っ転がった。疲れた。もう動けそうになかった。空は晴れていて、雲ひとつなかった。風が涼しく、冬の訪れを感じさせた。穏やかな秋空を、何か見覚えのある物が飛んでいるのが見えた。あれは――あれはフレイの《妖剣ユングヴィ》?

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