第2.12話 妖精王フレイ、その本性を金の鬣に示すこと
考えていた。
ゲルドのことを、考えていた。
そして自分のことを、フレイは考えていた。
脇腹が血に染まっていて熱い。傷は浅いが、肉の隙間から血が漏れ続けているというその事実が背筋を凍らせる。死が近づいている。手が震える。脚も。こちらが傷を負いながら、他方〈金の鬣〉は傷一つ負っていない。体格が違えば力も違う。大きければ強い。大きければ速く、大きければしなやかだ。刃と刃を交わらせている限り、フレイに勝ち目があるはずがないのだ。
(この力……もしかするとトールよりも………)
アースガルド最強と謳われた〈巨人殺し〉とミッドガルド最強として轟く〈神殺し〉。知人であるぶんだけ〈雷神〉の揺るぎなさは疑っていなかったフレイだったが、実際に相対してみると巨人族の力強さはアースガルドの赤髭に勝るとも劣らない、否、それ以上に感じられた。
もちろん戦争ともなれば、兵量の差なり戦術の差なりが勝敗を分けようが、一対一での戦いとなれば、〈雷神〉でさえ危ういのは間違いない。彼の〈神々の宝物〉が《雷槌ミョルニル》に匹敵するならば、フルングニルはその力を手にアース神族に勝ち得るかもしれない。
息を吐いた刹那、フルングニルの巨体が沈んだ。頭ひとつぶん以上巨大だった身体は、フレイよりも低くなるとともに距離を詰め、巨大な剣が下方から薙ぎ払われた。フレイの手に持っていた剣は弾き飛ばされ、くるくると舞ってから傍らの大地に突き刺さった。
尻餅をつくだけではおさまらず、フレイの身体はそのまま背中から土の上に叩きつけられた。樹々が見えた。秋から冬へと変わりつつある樹々が。葉を落としながらも、バリの森の樹々は生きていた。
「決着だな」
静かな低い声が聞こえてきたとき、フレイははじめバリの森が語りかけてきたのかと勘違いしてしまった。思えば、フルングニルの言葉を聞くのは初めてのことだった。見た目通り低く、重く、しかし静かで落ち着いた声だった。剣先は油断なく構えたまま、十分な距離を取ったまま、フルングニルは落ち着き払っていた。
フレイは寝転んだままで周囲をぐるりと見まわした。決闘の見届け人としてついてきたバルドルもフルングニルの付き人もその姿は見えなかった。剣戟を続けているうちに、ずいぶんと移動してしまったようだ。彼らはどこにいるのだろう。これでは、助けてもらうのは難しそうだ。
「殺さないのか」
「いま、考えている。未だ決着はついていない。おまえは死んでいないし、わたしも死んでいない。おまえは戦えないほどの傷を負ったわけでもない。剣を手にすれば、まだ戦える」
「また弾かれるだけだろうに……剣でなければ腕か、頭が」
「おまえはなぜアース神族に協力している?」
唐突にフルングニルが投げかけてきた問いに、フレイは目を瞬かせて答えた。協力している? 冗談だろう? おれが、ヴァン神族が、アース神族に協力していると思っているのならば、それは巨人族があまりに敵を知らなすぎるというものだ。
もちろんフルングニルはヴァン神族が戦争に負け、アース神族に吸収され、フレイが半ば人質のようにアース神族軍に籍を置いていることは知っている。であれば、こんなふうに続けた。「巨人族はヴァン神族の立場を尊重し、協調することができる。支配ではない。融和だ」
「どういう意味だ?」とフレイは大の字に伸びたまま、問わずともわかることを訊いてやった。
「我々の仲間になるつもりはないか、ということだ。ヴァン神族のフレイ。おまえが温和であることは知っている。スリュムヘイムの巨人族をアース神族から守り、庇護したと。おまえが強いことは知っている。第一平面の前対戦では〈巨人殺し〉と戦って勝ち得たと。そして、おまえがアース神族を憎んでいることは知っている。戦争を繰り返すアース神族を。フレイよ。ヴァン神族のフレイよ。我々の仲間になれ。同志となれ」
フレイは地面を撫でてから身体を起こした。バリの森の地面はふかふかとしていて心地良い。これが秋や冬でなければ、きっとヴァン神族の森のように感じたことだろう。
「おれは弱いよ。あんた、戦ってわかっただろう?」
「おまえは〈神々の宝物〉を使っていない。《妖剣ユングヴィ》だ。その名と力については聞いている。おまえがユングヴィを持たないのは、〈雷神〉が《雷槌ミョルニル》を持たないようなものだ。それに、弱者があの〈巨人殺し〉に勝てたはずがないのだ。謙遜はよせ、〈妖精王〉」
ゆっくりとフレイは息を吐いた。この男、本気で仲間になれと言っているのだろうか?
「わたしは本気だ、フレイ」とフルングニルはこちらの心を読んだかのように言ってくれた。
「あんたが……決闘なんていう時代錯誤な提案をしたのも、こんな馬鹿げた提案をするためか――いや、違うな。本来なら、決闘だなんていうのはトールが出るもんだからな。それとも、あんたらはトールの負傷を知っていたのか?」
「まさか」とフルングニルは肩を竦め、初めて笑顔を見せた。口角を僅かに持ち上げただけのそれが笑顔なら。「嬉しい誤算というやつだ。まさか〈巨人殺し〉が負傷するだなんてな。本来なら、この決闘で彼を殺すつもりだったのだが」
「あんたがトールを?」
「〈神殺し〉と〈巨人殺し〉が戦えばどちらかは死ぬ。そうでなければ、どちらも死ぬ。そうじゃないか?」
〈金の鬣〉フルングニルという男の力についてはいまさら疑ってはいなかった。戦えば、彼は確かに〈神殺し〉を達成していたかもしれない。していただろう。だが。
「それで、どうする? トールを殺して、決闘に勝って、それでアース神族が約束を守ると思っていたのか? 約定通りにスリュムヘイムを明け渡すと思っていたのか?」
「まさか。アース神族は残忍であり狡猾だ。生来の卑怯者であり、約束など守るはずがない――だが、〈雷神〉を殺せるならば危険を冒すだけの価値はある」
トール。〈雷神〉、〈巨人殺し〉、〈戦車を駆るもの〉、〈赤髭〉……。巨人族にとって、その名はあまりにも脅威だ。確かに排除したい存在だろう。
「だがそのあと、どうする? おまえは狙われているぞ。この場ですぐに殺されるだろう。今もきっと、弓で狙われているぞ」
「矢など弾けばよい。槍が降るなら避ければよい。剣が躍るなら、その持ち手を切り殺せばよい」
「あんたはそれができるんだろうな。だが……スリュムヘイムの住人はどうなる? あんたの同胞はアース神族に命を握られているようなものだぞ」
「それは……仕方がないことだ」
フルングニルの言葉は苦渋に満ちていたが、彼のその言葉が練るに練られたものだということは落ち着いた声調から理解ができた。
「仕方がない、ね」
「人質を取れば勝てると思っているのであれば、そう思ってくれたほうがありがたい。人質を取るなどというのは、弱者がする行いであり、その中には油断がある。質を取れば勝てる戦いなどというのは、戦いではない」
目下、人質であるところのフレイには、どういったものが戦いなのかなどという定義付けに関しては特に言い返すところはなかった。だが、言いたいことはあった。
「あんたの妻もスリュムヘイムにいると聞いてるぞ。それでも、あんたは人質を見捨てるのか」
「可能な限り助けようとするつもりだ。そして、おまえが仲間になればそれはより容易になる。冷たいと思うか。血も涙もないと思うか。であれば、わたしの心臓はこんなにも熱くはならない。
さぁ、返答を聞かせろ、ヴァン神族のフレイ。仲間になるか、それともここで死ぬかだ」
フレイはゆっくりと首を巡らせた。未だ、この場にいるのはフレイとフルングニルだけだ。バルドルたちは、そもそも決闘をしているフレイたちを探しにいこうなどとは思っていないのかもしれない。剣戟に巻き込まれるのは危険で、であれば藪蛇などごめんということだろう。ありがたいことだ。葉のない樹々でも重なり合えば、この場で起きることを隠すのには役立つ。
もう一度、フレイは身体を投げ出し、仰向けに転がった。空が青い。昨日と同じだ。走り切って、何も考えられなくなったときの空と。だが、昨日よりずっと疲労感を感じている。
「おれには妹がいる」
ぽつりと語ってみせると、フルングニルはすぐさま反応した。「知っている。我が軍のシアチが失礼をしたと聞いている。可能なら、彼女も助け、迎え入れることは――」
「義理の妹だ。だから、彼女が親父に連れてこられたとき、おれと同じなのだと思った」
言葉を紡ぎながら、寝転がったままのフレイはフルングニルを見た。彼の青い瞳には戸惑いと疑問が湧いていた。この男、いったい何を言い出すのかと、その瞳が語っていた。フレイは愉快だった。最強の巨人族が、〈神殺し〉が、こんなにも当惑しているだなんて。
ああ、フルングニル。おまえは強い。強かった。武勇に優れ、心は誇り高かった。己の家族さえも犠牲にしようとした。
だがそれでも〈巨人殺し〉を恐れた。
巨人族が提案した〈神々の宝物〉を使わない決闘というのは、〈雷神》トールを恐れてのことなのだろう。《雷槌ミョルニル》に怯えてのことなのだろう――しかし蓋を開けてみれば雷神トールは先の戦いで負傷しており、代役が出てきたのだから、拍子抜けしたことだろう。まったく、笑ってしまう。フレイは実際に、笑った。笑って見せた。呵々大笑してやった。フルングニルの表情が歪むのがわかった。
だが――だがおまえは恐れるべきではなかったのだ。フルングニル。
「愚かだなぁ、フルングニル!」
湿った土の上に寝転んだままで、妖精王フレイは己に言い聞かせるかのように叫んだ。
ああ、おまえは〈巨人殺し〉を恐れた。《雷槌ミョルニル》を恐れた。だがそれでも、己の《神々の宝物》は離すべきではなかったのだ。おまえは強いのだ。雷神に、〈巨人殺し〉に匹敵するほど強いのだ。そんなおまえが扱うのだから、《赤球ギャルプグレイプ》はきっと《雷槌ミョルニル》と戦えるに違いないのだ。
「愚かだなぁ、フルングニル!」
そうしていたなら、おまえは勝っていただろう。トールにも。フレイにも。なぜならば、互角の戦いならばこの〈神殺し》に比肩する相手はいないのだから。
だがおまえは〈神々の宝物〉を捨てた。魔法の力を捨てたのだ。相手も魔法の力を捨てると思って。
「愚かだなぁ、フルングニル!」
フレイは三度叫ぶとともに発条仕掛けのように起き上がった。いや、起き上がらされた。跳ね飛ばされたのだ。地の下から盛り上がってきた巨大な樹の根によって。
それと同時に、フルングニルの身体にも地から伸びた根が絡みついていた。矢なら弾ける、槍なら避けられる、剣なら持ち手を切れる――だが根ならどうだ。〈世界樹〉の根ならどうだ。ユグドラシルの根ならどうだ。
信じられないという視線で四肢を拘束されたフルングニルがフレイを見返していた。得体の知れない〈神々の宝物〉をフレイが使っていると思っているのかもしれない。違う。おまえはだから愚かなのだ、フルングニル。どこにでも例外はあるものなのだ。魔法というのは、だから魔法なのだ。
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