第2.10話 雪目のウル、軍神とともに決闘を監視すること

 紅葉は色づき、一部は落ちて針葉樹や常葉樹以外の木々は素肌を見せている。虫の音はなく、花の色はなく、獣たちは声を潜めて耳を伏せている。第二平面ミッドガルドでは冬が近づきつつあった。


 決闘の舞台として指定されていたのは整備された競技場や石畳に補整された街中ではなく、スリュムヘイム近くの森だった。巨人族の者たちは、バリだとか呼んでいたか。

 フレイは決闘の開始時間より前にバリを訪れると、森の中の散策を始めた。動物の姿は見えなかったが気配は少なくはなく、木々には生命が息づいていた。世界樹ユグドラシルの根が近いのかもしれない。ぶらぶらと歩いていると、朝から感じていた筋肉痛が少しだけましになる。

 陽はそれほど高くはなかったが、南中には近い。決闘開始時刻が近づいてきたので、フレイは方向転換をして同行者との待ち合わせ場所へと向かう。世界樹の根が伸びる森の中では迷う心配はなかった。

 森の外側、木々が急に少なくなる場所でフレイを待っていたのはバルドル一人だった。

「なんだ、もう入っていたのか。おれの同行は必要なかったな」

 とバルドルは肩を竦めた。決闘の公平性を保つためということで決闘者以外に付き添って良いのは一人まで、ということになっているらしい。彼は戦場でいつも持っている戦斧を背負っていたが、服装は革の胸当て以外はほとんど普段着で、巨人族が奇襲を仕掛けてくるかもしれない、という事態はまったく想定していないことがわかる。

「まぁ、そうだな」

 とフレイは腕の筋肉を揉み解しながら正直に答える。バルドルという男はフレイがこれまで見たあらゆるアース神族の中でも最もアース神族的で、端的に言えば苦手なタイプだ。

 バルドルがフレイの行動を見て、首を傾げる。「調子でも悪いのか?」

「筋肉痛だ」

 とフレイが言うと、バルドルは呆れた表情を見せた。

「昨日、走っていたのは見たが……そんなんで大丈夫なのか」

「大丈夫だとは、最初から言っていない」

「いざというときはどうにかするがな」

「どうにもしなくていい」

 それは本音だった。フレイが負けるなら――負けて、それで終わりだ。それで終わりでいい。戦火が拡大しなければいい。イドゥンやロキや――ゲルドのような女たちが危険な目に遭わなければ、それでいい。


 だがけっしてそうはならないことを、フレイは知っていた。


「そろそろだな」バルドルが太陽を見て呟く。決闘時刻のことだろう。

「まだ誰も来てなかったぞ。さっき見に行ってきた」

「もう来ているだろう。相手から場所と時間は指定してきたんだから。さぁ、行こうか」

 フレイとバルドルは無言で森の中を歩いた。後ろを歩くフレイは上方をときたま見上げ、あるいは周囲の木々を眺めながら歩いていたが、バルドルのほうは視線を前方に固定したままやや俯き気味に歩いていた。無言で歩いていたのは話す必要のある話題がなかったからで、それはありがたいことだった。心が落ち込む話題よりは、風と木の歌声のほうが好ましかった。


 バルドルの言ったとおり、決闘上には既に相手の巨人族とその付き添いが来ていた。

 彼らを見て、フレイは無意識のうちに決闘用として渡された、今は腰に身に付けている長剣に手をやり、所在を確認する。

(でかいな………)

 彼らは巨人族だ、とフレイは当たり前のことを思い出した。ヴァン神族であるフレイはアース神族よりも長身であり、スリュムヘイムの巨人族と比較してもさほど見劣りしなかった。だが巨人族はやはり巨人族だ。身の丈はフレイより頭ひとつかふたつぶん大きく、身体は岩のようだった。腕の太さはといえば、フレイの足より太い。顔は頭頂から顎まで、髭と髪の区別がつかない金色の毛に覆われている。

 これが〈金の鬣〉。これがフルングニル。これが〈神殺し〉。


  ***

  ***


 ウルはトールによって破壊を辛うじて免れたスリュムヘイムの外壁の上からバリの森での決闘の趨勢を監視していた。


 決闘場として指定された場所があの森で幸いだった。距離はあるが、ウルの目ならばスリュムヘイムからでも状況を知ることができた。そして、見える場所ならば、ウルはどこからでも狙撃ができる。弓の弦に手をかけて、息を整える。

 どうやら巨人族の側は、雷神トールではなくフレイが決闘の相手であることに驚いているらしかった。武骨な顔の巨漢の表情はさほど変わらなかったが、同行していた巨人族の表情が明らかに変わっていた。眉の動きまで見通せるとはいえ、声までは聞こえないが、なぜトールではないのか、などという会話が行われているのかもしれない。巨人族にとって〈巨人殺し〉の名は何よりも大きい。

(やはり〈雷神〉の負傷は知られていなかったか………)

 巨人族が決闘の話を持ちかけてきたのを聞いたとき、もしかすると巨人族がトールの負傷を何らかの提案で知っての行動だと考えていた。いかに〈神殺し〉と謳われる最強の巨人族とはいえ、《雷槌ミョルニル》を持つ〈巨人殺し〉とは戦いたがらないはずだ、と。だがやはりフルングニルは〈巨人殺し〉の負傷を知らなかったらしい。


 フルングニルが鎖のついた二振りの巨大な鉄球を地の上に投げると、地響きがスリュムヘイムの城壁まで伝わってきた。あれがフルングニルの〈神々の宝物〉である《赤球ギャルプグレイプ》らしい。次にフルングニルはフレイに何か手振りをしたが、フレイは両手を上に挙げてから、己の身体を服の上から叩いている。

(何を考えているんだ………)

 ウルは呆れてしまった。フレイのあの動作は、おそらくは《妖剣ユングヴィ》を持っていない、というアピールだろう。そして本当に持ってきていないに違いない。確かに今日の決闘では〈神々の宝物〉を使わない予定だが、彼はその後に戦闘になる可能性を考えなかったのだろうか。いや、《妖剣ユングヴィ》はひとりでに戦う剣だから、近くに置いておくと決闘に加わってしまうかもしれず、それではルールを違反してしまう、という公平な精神からなのかもしれない。いや、しかし。


「おい、何をしている?」

 突如として鼓膜を打った声によってフレイへの悪態から、すぐ近くに迫りつつある脅威へと思考を切り替え振り返ると、斧や剣など武器を携えた巨人族が3人いた。スリュムヘイムの兵士はすべて武装解除させたはずなので、兵士はではなかろう。自警団か。それともフルングニルの兵が入り込んでいるのか。なぜ外壁をうろついているのか。ウルと同様に決闘を監視していたのか、あるいはウルのような者をこそ探していたのか。

「狩りに出かけるところです」

 とウルは答えながら、指でもう一度弓の弦と矢の位置を確かめる。

「お前はアース神族のウルだな。弓でフルングニルを狙っていたのか」巨人族のひとりが言った。どうやら面が割れているらしい。

「それで、どうする気ですか」

「決闘の邪魔が入らないよう、我々はあなたがここから立ち去ることを願う。もし聞き入れられない場合には、こちらにも相応の対応がある」

 そんなふうに言うからには、巨人族は第三者の介入がなければ、自分たちの大将が勝つということを確信しているようだ。そうだろう。ウルだって、フレイが勝てるとは思ってはいない。だからこそ、いつでも決闘に介入できるようにしていたというのに。


 この巨人族を倒してしまうべきか、ウルは迷った。この距離ならば、2人までならおそらく瞬時に射抜ける。が、3人は厳しい。それに、殺すにせよ殺さないにせよ、後々面倒なことになりそうだ。

 そう思っているウルの眼前で、一番後ろにいた巨人族の胸から剣の切っ先が突き出てくるのが見えた。刺された兵士は声を発することもなく倒れた。倒れた音で、残りのふたりがようやく異変に気付き、振り返る。

 ウルは巨人族の背中を見るや、迷いを捨ててひとりの腕を射った。狙い違わず、武器を持っていた腕に突き刺さる。

 そして最後の一人の首が落ちた。


 立っていた巨人族がいなくなると、現れたのはチュールだった。隻腕に収まった剣を振り、血糊を飛ばしてから、切っ先をウルによって負傷した巨人族に向ける。

「チュール、待ってください」ウルは彼を制す。「彼はもう戦えません」

「生かしておいても面倒になるだけだ。決闘中にこんな小競り合いがあったと言われたら、その原因を追究されるだろう」

 チュールに躊躇はなかった。喋りながらも剣先は止まらず、呻いていた巨人族の首が落ちた。

「殺したら、勝ったときにあとで揉め事になるでしょうに……」

「行方不明者が出るだけだ。死体が出なければ、巨人族も不正の可能性を告発することはできないだろう。それに、何もできずに負けるよりはいい。フレイが負けたら、どっちにしろ前面対決になるんだからな」

「あなたはこの決闘に反対だったんだと思っていましたけれど……違うんですね」

 チュールはフレイがフルングニルと決闘をし、それでこのスリュムヘイムでの全面的な衝突を回避するという提案に反対なのだと思っていた。だから決闘が軍会議で決定された際、人質予定のイドゥンを連れて逃げようとしたのだと。

「決闘が始まったいまさら、反対も何もないだろう」チュールはバリの森に目をやる。「それに、イドゥンからフレイを護るよう頼まれた。さぁ、向こうはどうなっているんだ。おれの視力じゃ見えん。あんたが頼りだ。おれは狙撃するあんたを護るくらいしかできないんだから」

 チュールの言うとおりだ。ウルはバリの森に目をやる。決闘があの場所で行われる限りはフレイの助勢をすることはできるだろう。だが剣戟で森の奥まで引っ込まれると射線が通らなくなる。いま、油断しているであろうこの瞬間にフルングニルの頭を撃ち抜くのが簡単なのではないかという気もする。新しい矢を番え、引き絞る。〈金の鬣フルングニル〉を狙う。〈雪目〉に力を込めて。

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