第2.9話 妖精王フレイ、筋肉痛に苦しみながら狼の母に妖剣を預けること
節々が痛む。筋肉が唸っている。身体が重い。寝台の上に倒れる。きっと明日になれば、筋肉痛の痛みはもっと酷くなるだろう。
(おれは阿呆なのか?)
己の行為にフレイは笑ってしまう。もともと正面切っての戦いでは負けそうだった相手に、筋肉痛というさらなる敗北要因が産まれることになったわけだ。
とはいえ――とはいえ気分は良かった。適度に汗をかき、風呂で汗を流した。腹八分目に食事をし、排泄をし、休む。欲が満たされるというのは素晴らしかった。あとは美女でもいれば完璧だ。今日は朝起きてからそんなことしか考えていない。幸せな精神状態である。
宛がわれた部屋の唯一の窓は、いまは開いていた。冬に移行しつつあるミッドガルドの秋風は涼しすぎるほどだが、疲れてきった筋肉には心地好く、火照った脳には清々しい。
ベッドに横になったまま、部屋の明かりもつけずに窓の外を眺める。ミッドガルドの星は暗い。天頂から遠く、しかも天の一部がアースガルドで覆われているためだ。アースガルドの面積はミッドガルドに比べればずっと小さいが、その影響はとてつもなく大きい。人々にとっても。ミッドガルドに住まう巨人や人間といった人々にとって、アースガルドに住まう神々は目の上の瘤だ。神が消えてしまえばいいと、どんなにか願っていることだろう。
見つめている間に、星々が恥ずかしがるように動いていく。明日の決闘に近づいていく。
何も進展はなかった。ウルはまだフルングニルの恋人を見つけられていないようだ。良いことだ。ウルは粗暴な性格ではないが、切羽詰まってくると何をするかわからない。いちおう、彼はフレイのことを大切に考えてくれているようだから。
心配といえば、スリュムヘイムに住まう巨人族たちも心配だ。彼らは善良な市民であり、侵略者ではない。ここに住んでいた、ただの人神だ。だが明日フレイが決闘に負ければ、彼らは危機に瀕することになるだろう――アース神族が約束を反故するに違いないからだ。スリュムヘイムから潔く撤退するだなんて選択肢は選ばないことは間違いないからだ。スリュムヘイムの住民たちを人質に取って戦いを続けるさまが予想できるからだ。
(守れるだろうか)
己の〈神々の宝物〉、鞘に入ったままの《妖剣ユングヴィ》を掲げてフレイは考えた。ひとりでに空を踊り、戦うこの剣があれば、戦う力のない者でも武装したアース神族から身を護ることができるだろう。だが軍隊を相手にできるほどではない。力ある者が振るえばその限りではないが、ただ剣が動くままに任せるのでは限界がある。
守れて、ひとり。せいぜいがふたり。
風が吹き込み、カーテンが揺れる。フレイは窓の外に人神の影を見た。巨大な翼、明るい髪色、艶かしいほどに白い足、ロキ。
翼の制御が上手くいかなかったのか、ロキは慣性のついた状態のまま窓に飛び込んできた。フレイは咄嗟に彼女の身体を抱きとめる。軽く柔らかな感触だったが、筋肉痛の響く身体には少し重く、寝台に倒れこむ。
「フレイ……良かったぁ………」
ロキは受け止められた状態のまま、腕を回してフレイの身体に抱きついてきた。その柔らかな肢体を惜しみつつも、のしかかっている彼女の身体をどかそうとしたフレイだったが、そのときになってようやく彼女が瞳に涙を浮かべていることに気付いた。
「やっと見つけた……。間に合った……間に合ったよぉ………」
フレイは判断に迷ったが、ロキの身体を支えたまま上半身を起こす。支えている腕の肘から先を使い、彼女の後頭部を撫でる。
「どうやって出てきたんだ? 使者から戻ってきたあとはまた幽閉されてたんだろう?」
「壁に穴を開けたの……レーヴァティンで」
「おまえの〈神々の宝物〉か。そりゃ、閉じ込める意味がなかったな」
フレイは笑ったが、ロキは笑わなかった。フレイが決闘に赴くと聞いて、ずっと探してくれていたのだろう。
頭を撫でながらしばらく待ってやると、ようやくロキは目元を拭き、顔を上げた。「フレイ、行こう。逃げよう」
「どこへ?」フレイはできるだけ優しい口調で訊いてやる。
「どこでも。イドゥンも連れて、大丈夫、二人くらいなら、フレイもイドゥンもそんなに重くないし、羽もほとんど治ったから、どこへでも行けるよ。アースガルドでも、ミッドガルドでも、ヘルモードはちょっと寒いけど……でも、飛んで行けないところはない。だから………」
「おれは行かないよ」
「どうして?」
「おれが逃げたら、ここで全面戦争が始まるだろう。犠牲は避けられない。それに………」フレイはしばらく逡巡してから問いかけた。「ロキは、フルングニルを知っているのか?」
「少し」
「強い?」
「強いよ。強くて……うん、凄く、強いひと」
「おれじゃあ、勝てないと思うか」
「きっと、勝てない」ロキはゆっくりと言い聞かせるように言う。
「そうか………」
腕の中にロキがいて、明日にはフルングニルとの決闘を控えていて、それでもフレイが考えていたのは、こんなときでもゲルドのことだった。自分がゲルドのことを好きになったことを、フレイは自覚していた。
なぜだろう。
まずは容姿から入ったのは間違いない。彼女は人目を引く美しさを持っていた。金の髪は絹のようで、左右の瞳には森と海を湛えていて、肌は透き通るように白くて、胸がでかくて、くそう、妹のイドゥンなんて上も下もつるっつるなのに、どれだけ違うのだ。
最初に容姿で判断するというのは間違ってはいないと思う。しかしそこから、どうやって彼女を好きになるほどに発展したのかがわからない。助けてやったのに跳ね除けられ、そのあとで優しい言葉は吐かれたものの、それがどれだけフレイの心を動かしただろうか。結局、容姿どまりだった気がする。
これは、愛ではないな、とフレイは思った。
単なる恋だ。恋焦がれているだけで、しかしどうしようもない。憧れや陶酔のような感情だということはわかっているのに、止めることができない。
だから、フレイは逃げるわけにはいかない。
「ロキ、頼みがあるんだ」
フレイが言うと、ロキは伏せていた顔を輝かせた。しかしフレイの頼みは、彼女が期待しているようなことではない。
「ユングヴィを届けてほしいんだ。いや、ユングヴィで、おまえとそのひとを守るんだ。ユングヴィを扱うには力も技もいらない。だからきっと、戦火が及んでも当分は身を護ることができるだろう」
「イドゥンのところ? フレイ、戦いに行くのに剣がないんじゃあ………」
「ユングヴィは使わない。〈神々の宝物〉はなしで戦うことになっているんだ。それに、剣を届けてほしいのはイドゥンのところじゃない。あいつは自分の身を守れるし、ヴァン神族だから攻撃に晒される可能性も低い。それに、癪な話だがあいつを守ってくれそうなのはおれ以外にもいる」
「でも――」
「ロキ、そのひとは巨人族だ。おまえと同じだ。ゲルドっていうんだ。グリョートナガルダルっていう飯屋で働いている。金髪の、綺麗なひとだ……。とても綺麗な女性だ」
「フレイはそのひとのことが、好きなの?」
「うん」
「そう………」
ロキがフレイの顔をじいと凝視していた。フレイはロキを身体から離し、無理矢理に《妖剣ユングヴィ》を握らせた。
「おまえもゲルドも、巨人族だ。だから何かあれば危険が迫るだろう。ユングヴィで、守れ。彼女と……おまえ自身を守れ」
灰色の翼が闇に溶けていくのをフレイは見送り、それから寝台の上に横になった。眠った。ゲルドの夢を見た。彼女は泣いていた。
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