第2.8話 妖精王フレイ、鍛錬を行うこと
フレイが連れて行かれた場所は独房でも営巣でもなく、狭いが部屋としての体裁は整った一室だった。シアチの屋敷は広く、部屋には事欠かないらしい。イドゥンともチュールとも別れさせられ、一人でこの部屋の中に入れられ、鍵を閉められた。まったく、アース神族のヴァン神族に対する扱いは丁重なのか高圧的なのかわからない。部屋は少し埃っぽく、湿っぽい独特の臭いがした。フレイは窓を開けて外を見下ろす。四階だ。上手く飛び降りれば逃げ果せることも不可能ではない高さだろう。幸いにして地面に草木が多い。
しかし、逃げてどうなるというのだ。無意味だ。何も果たすことができない。
(おれの命は、スリュムヘイムと釣り合うのか?)
決闘相手は最強の巨人。〈神殺し〉のフルングニル。
彼がどんな男なのかは、街を歩けば自然と情報を得ることができた。だがそれはあくまでまた聞きの推測に過ぎない。彼の真の姿を暴くためには、実際に相対してみなければならないだろう。単なる話し合いではなく、死線の削り合いならば心の内を隠す術がなくなる。ああ、ならば決闘なんて、都合が良い。寝台に腰かけて、フレイは笑んだ。
ノックの音が聞こえてきたとき、フレイは寝台に座ったままで扉の向こうにいる人物を予想した。ドアを開けて入ってきたのは、予想では比較的低順位にいたウルだった。
「こんなことになって、本当に申し訳なく思っています」
と後ろ手でドアを閉めたウルは、入口から動かずに言った。
「チュールはどうなった?」
「イドゥンのことは訊かないんですね」
「彼女は無事だろう。どうこうされるようなやつじゃない――いや、このまえ攫われたばかりなんだが」
「チュールは、まぁ、あなたの状態と大して変わりません。追って沙汰があるかもしれませんが……いまの状況ではそんな暇もありません」
「なるほど」
「彼があんなことをしたのは、正直驚いています」
「良いことじゃないか」フレイは肩を揺らして笑った。「ありがたいことだ」
「前回のシアチとの戦いの際に、彼女を護りきれなかったことを悔いているのかもしれません」
「意外と殊勝な性格なのかな。それとも……いや、あれが義弟になるのは厭だな」とフレイは言いながら、自分の言葉がまたおかしくなってしまった。あの仏頂面の〈軍神〉が、フレイの義弟だなんて。
フレイは声をあげて笑って見せても、ウルは微動だにせずに冷たい表情だった。こんな目で見られるては、せっかく膨らませた愉快な気持ちも萎んでしまう。フレイはひとつ溜め息を吐いてから、「で、なんだ、なにしに来たんだ」と尋ねてやった。
「決闘についてです。決闘の説明です」
「おれのいない間に決まった、決闘の説明ね」
「説明します」とウルはフレイの茶々入れにも気を留めずに語り始める。「決闘場所はスリュムヘイム近くの森です。見世物ではないので、スリュムヘイムでは行いません。戦うのはあなたとフルングニルで、重要なのは〈神々の宝物〉を使わない決闘だということです」
「なんだと?」
「お互いの〈神々の宝物〉は使いません。最初に互いに得物は差し出しておきます。使えるのは魔術のかけられていないただの武器だけです」
「は」
フレイは笑わずにはいられなかった。無茶苦茶言いやがる。巨人族と〈神々の宝物〉無しに斬り合いをしろというのか。
「互いの条件を互角にするための措置です」
「なんで互角にしなきゃならないんだ。つまるところ、これは――」
「フルングニルは〈巨人殺し〉を恐れた」ウルがフレイの言葉を引き取る。「そういうことでしょう」
「そう思うか?」
明るい表情を作るウルとは対照的に、フレイの気持ちは沈んでいた。果たしてフルングニルの考えはそうなのか。単純に〈
「フルングニルは決闘に勝てば、本当にスリュムヘイムを明け渡してもらえると思っているのかな」とフレイは疑問をそのままに口に出す。
「そういう取り決めになっていますが……」
「もしおれが負けたら、アース神族は素直にスリュムヘイムを引き渡すのかい?」
「それは………」
ウルは口籠る。彼はアース神族にしては正直だ。黒いものを白いとは言えない。たとえ言ったとしても、すぐに嘘とわかる。
「ま、いいや。で、決闘の日時は?」
「明後日です」
「なるほど、おれの命はあと2日か。短かったな」
とフレイは大袈裟なくらいに肩を竦めてみせたが、ウルの反応はなかった。こうも反応がないと、肩透かしというだけではなくて、だんだん情けなくなってきてしまう。
「ほかに注意しておくことがなければ――」
ウルがフレイの言葉を遮った。「フルングニルにはスリュムヘイムに恋仲の女性がいるようです」
フレイは彼の言葉の意図するところを考え、アース神族の卑怯さを呪った。アース神族は、その女を捕らえてフルングニルとの取引に使うつもりなのだろう。フレイが負けたときの保険だ。唾を吐きかけたくなる。
フレイの想いは態度に出て伝わったのだろう。ウルは視線を伏せて、言い訳するように言った。「あなたが戦わなくても良いように、尽力しているつもりです」
「いちおう、それは理解できる。だが、おれを助けるためならわざわざそんなことせずとも、スリュムヘイムを諦めればいいんだ。戦争をやめてアースガルドに帰ればいいだろう。巨人族はアースガルドまでは追ってこまい」フレイは口から漏れてくる言葉を止められなかった。「平穏を保つために最も良い手段は、アース神族をすべて駆逐してしまうことだ。そうじゃないか? これまでどれだけ、アース神族が戦争を引き起こしてきた? どれだけを殺してきた? 数は少ないくせに、〈神々の宝物〉だけはコソ泥みたいに集めてやがる。好き放題に暴れておいて、で、頼りの綱であるトールが戦えなくなると、これだ。他者に迷惑をかけようっていうのなら、せめて自分の責任でどうにかしたらどうだ」
ウルはアース神族の中でも話せる相手だと思っている。しかし、だからこそ、彼が見せる戦神アース神族らしい一面をこうして見せられると、溢れ出る言葉を止めることができなかった。
ウルが去ってから、フレイは寝台に寝転んで顔を手で覆った。己が情けなかった。己の苦境と立場を利用し、言いたいことだけを言う自分が。口だけを出して何もしない自分が。
(死ぬか………)
フレイは部屋のベッドに寝転がった。もう夜は遅い。それに疲れた。いまから寝ても、目が覚めるのは明日の昼頃だろう。フレイは目を瞑る。死ぬ。死ぬか。ここで死ぬか。それがフレイの生きていた意味か。こんな、こんなふうに、アース神族に祭り上げられるような形で。
フレイは眠った。眠り落ちるまでの思考は一瞬だった。
次に目を覚ますと、太陽が昇ったばかりだった。窓から入ってきた陽の光のせいで目覚めてしまったようだ。もう少し寝られるような気がして寝なおそうとするが、しかし目と頭は冴えて眠れない。
フレイは部屋を出た。鍵は掛けられていなかった。ウルが、もはや拘束する必要がないと判断したのかもしれない。シアチの館の一階まで降りる。館の出入口には兵士が立っていた。散歩だと言って通してもらおうとしたが、彼らは頑としてフレイを通そうとはしなかった。
外に出るのを諦め、フレイは中庭に向かう。中庭は戦闘訓練ができるほど広いが、いまは誰もいなかった。
フレイは準備体操をしてから、中庭を走って回り始めた。途中で、これでは脚力と持久力しか鍛えられないと気付き、腕立て伏せに切り替える。
我ながら馬鹿馬鹿しい行為だとフレイは思った。いまさら身体を鍛えて、巨人族のフルングニルと肉体的に釣り合うわけでもないだろう。それなのに、こうして無駄に足掻いている。
しかし途中でそんな思考は飛んでいった。それだけ運動という行為は集中できて、精神を安定させた。運動は楽しかった。身体が精神に同期し、昨日までのストレスはだんだんと薄れていく。この精神状態ならアース神族も許せそうな気がした。
途中、腕立て伏せを腹筋に切り替えたり、スクワットを取り入れたり、またランニングを始めたりしたが、体力が尽きたので中庭に寝転がる。太陽は高い。秋の風は火照った身体に丁度良かった。
「なにをしているんですか」
声をかけられて、その声の方向を向く。ウルが長弓を携えて立っていた。
「いやぁ……」フレイは切れた息を整えながら応じる。「筋力トレーニングをね………」
ウルは、何をいまさら、とは言わなかった。
「水でも持ってきましょうか」
「頼む」フレイはウルの申し出を受け入れる。
ウルの持ってきた水で水分を補給し、それからまた走り出す。なかなか愉快な状況だと感じる。笑みも零れるほどだった。これは運動による興奮のためだろうか。
フレイのランニングを観察している人物がウルではなく、見目麗しい女性だったら完璧だ。
フレイがそのとき想像したのはイドゥンの姿でもロキの姿でも、それ以外の交際期間の長い多くの女性の姿でもなく、出会ってそれほど時間が経ってはいないゲルドの姿だった。
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