第2.2話 妖精王フレイ、火炉番の娘と出会うこと

 眼下に広がるスリュムヘイムの街並みにフレイは嘆息した。


(トールはなかなかの絶景を作ったな)

 巨人族の城塞都市、スリュムヘイムを攻めた戦の際のことだ。雷神トールは世界蛇ヨルムンガンドとの戦いによって力尽きる直前に、彼は己の仕事であるスリュムヘイムの砦の破壊を実行した。彼が最後に投擲した《雷槌ミョルニル》は砦のみならずその背後にあった城塞都市までも貫通した。フレイが座っているのはスリュムヘイム中央の宮殿の一部屋――その豪奢な内装を考えればおそらく為政者の――にある椅子だ。もともとは豪奢な飾りがあったであろう座り心地の良い椅子は素晴らしいが、宮殿さえをも貫通した《雷槌ミョルニル》によって下から2/3より上を削り取ってしまっているため、背もたれの高さが不十分となってしまっている。ここにスリュムヘイムの統治者が座っていたならば、その頭を粉々に打ち砕いていただろう。


 〈雷神トール〉が己の仕事をまっとうしてくれたため、その後の制圧そのものは楽なものだった。スリュムヘイムは巨人族の都市としては規模が多きな部類らしいが、統治者であるシアチが死亡し、砦が破壊されたとなっては、抵抗する者もほとんどいなかった。でなくても、目の前で炸裂した稲光を見れば、誰もが〈巨人殺し〉の恐ろしさを理解したのだろう。

(ま、ひとまずは良かった)

 ああ、良かった。抵抗する勢力を虐殺しなければならないことほど戦争で厭なことはない。ああ、誰もが素直に降伏してくれれば楽なのだ。ああ、おかげで完全に安全とまではいえないまでも妹と買い物に出ることもできるのだ。

 フレイは己に言い聞かせながら宮殿の螺旋階段を下りた。トールによって破壊されなかった階層は、現在アース神族軍の駐屯場所となっており、アースガルドに戻るまでの間、イドゥンもそこに留まっている。フレイは彼女を迎えに行ってから街の中心部へと向かった。


 街は一見平和であったが、武装をしたアース神族の姿がそこかしこに見えるのだから、住民の不安は相当なものだろう。平時のこの街の姿は知らないものの、巨人族の住民がいつもより声を潜め、足早に行動していることだけはわかる。

 そんな街の中でフレイたちは買い物をし、食事を取った。食後、イドゥンは近くの露店でアクセサリーを覗いていたが、フレイは食事処の椅子に座ったままで通り過ぎる巨人族を眺めていた。

 

 なかなか美女が多い。しかしみな足早に歩いていて、表情も翳さしているのが残念だった。哀しむ表情も悪くはないが、やはり平和な町並みには笑顔が似合うものだ。さすがにナンパをするわけにはいかないだろう、ヴァン神族がアース神族と友好協定を結んでいることは巨人族だって知っているのだから。いや、不可能でもないか。ヴァン神族であることを隠せば良い。ヴァン神族の肌や髪の色はアース神族に比べて薄く、容姿はむしろ巨人族に近い。特に男は、巨人族と似ている。フレイの体格は巨人族の筋骨隆々とした姿に比べると少々見劣りするといわねばならないかもしれないが、なんとか誤魔化せる範囲内だろう。しかしそうなったらスリュムヘイムから次の戦場へ旅立つ際はそのまま何も伝えられずに分かれることになってしまうだろう。そこはそれ、行きずりの恋も浪漫がある。いや、最後にはきちんとヴァン神族であることを告げ、それから別れるべきか。もしかすると対立する種族間の愛が生まれるかもしれない。それが戦争などなくなるきっかけになってくれれば、まことによろしい。


 そんなふうに妄想しながらやにやとしていたフレイだったが、言い争いの声が聞こえてきたので、意識を現実に引き戻す。すわイドゥンが何かしでかしたか、と思ったが、騒ぎは彼女のいる露店ではなく、また別の方向の露店から聞こえてきた。人だかりができていて、その中心には女と子どもの姿があった。女。金髪の――見事なウェーブがかった金髪の、小柄な、巨人族の女だ。彼女は子どもを庇うように背中に回し、アース神族の武器を携えた男ふたりと対峙していた。

 ありがちな占領地での争いだな、とフレイは即座に理解した。何が起きているかは予想がつく。

「あなたが誰であろうとも、盗みは盗みです」と金髪の女は言っていた。「しかも、それを告発しようとしたこの子に暴力を揮おうとした」

「あんたが何を言っているのかわからないな」アース神族の兵士の一人が言う。「だいたい、お前は立場がわかっているのか、自分の立場が」

 アース神族が女に接近する。

 女は一歩下がった――一歩下がっただけだった。なかなかに気丈だ。腰が後ろの子どもにぶつかると、彼女は眼前を見据えて言い放った。「占領した街のものに危害を加えるのがアース神族ですか」

(よくよく相手を刺激するなぁ………)

 フレイは喉が笑いで震えるのを抑えられなかった。あの巨人族の女の言動はアース神族の兵士を怒らせるだけだ。周りには彼女の協力者はいないのだ。いくら同族とはいえ、露店の店主も周りの巨人族も、女に対して同情したような視線を送ってはいるが、助けようとはしない。それとも女が大声で糾弾すれば誰かが助けてくれるとでも思ったのか。あれは、馬鹿の類だ。


(だが美しい)


 女は透き通った白い肌と、陽を照り返す絹のような金色の髪、それに深い緑と海のブルーの瞳をしていた。あんな左右の色が違う瞳は巨人族でも珍しいのではないだろうか。

 兵士も女の美しさに対して欲情しているのか、にやにやと笑みを浮かべながら女にゆっくりと近付いていく。女を捕まえ、二人で何をしようかと考えているのであろう。反抗的な態度を取ってきたので、連れ込む理由ができたことが好都合だとでも思っているのかもしれない。彼らはこの街で強者だ。なんでもできると思い込んでいる。

 フレイは席を立ち、群衆を押しのけて輪の中に入るや、女に向かって伸ばされたアース神族の兵の腕をつかんだ。

「やめたほうが良いんじゃないか?」


 唐突なる闖入者に、彼らは驚きの表情を浮かべた。己らが威圧している状況で、これ以上、誰かが抵抗してくるなどとは思っていなかったのだろう。

「なんだ、おまえは」

 その言葉を聞いて、フレイはにんまりと笑顔にならざるをえなかった。この兵たちはヴァン神族の首長の息子であるフレイの顔を知らないらしい。下っ端の兵卒なので、将の顔は軍最強の〈雷神〉くらいしか知らないのだろう。名を呼ばれないで助かった。名も知らぬ男が美女を救うというわけだ。良い。うむ、良いぞ。悪くないな。

「なに笑ってやがる。気味の悪い奴だ」

 兵がそんなふうに言ったが、フレイの気分は絶好調だ。「その女性に触れるなよ。おまえらが触れると汚れる」

 兵は手を振りほどいて殴りかかってきたが、フレイは身体を逸らして攻撃を避けながら相手の腕を掴んでそのまま引っ張った。足を引っかけて、前に転ばせつつ胸当てに守られていない腹に膝を入れる。

 相方が倒されたことに気付いてもいないもうひとりの兵士には、膝を蹴りつけてから前かがみになったところで顔面に拳を叩きこんでやった。

「さっさと帰れよ。それとも武器を抜くか? 武器を抜いたら……ここにいる全員を敵に回すことになるぞ」

 フレイは両手を軽く広げ、周囲の観衆たちを見まわした。相手が何人でもおれひとりでも勝てるがな、とまでは言わないでやった。


 腹を蹴られたほうの兵士が咳き込みながら立ち上がり、フレイを睨みつける。あと一回くらい反撃してくるかもしれないと予想していたが、案外素直だ。気絶したほうの兵士を引き摺って逃げていった。おそらく軍に戻ってフレイのことを不審者として報告するつもりだろう。街狩りでもされると心が痛いので、あとで自主的に今回の出来事を報告しておく必要があるだろう。

 ま、それは今はいい。今は、とりあえず目の前のことが大事だ――とフレイは茫然としている巨人族の女を振り返る。

「ご無事かな、お嬢さん」

 女は目の前で起きた出来事に未だ理解が追い付いていないようだった。己の危機に颯爽と助けが現れるだなんてことは、夢物語として見ることはあっても、現実に起きるなどとは考えもしないだろう。

「お名前は?」とついでにフレイは訊いてやった。

「ゲルド」

 女はようやく口をきいた。

「ゲルド。ゲルドか……美しい名だね。それで、怪我はなかった? おれは名乗るほどの者でもないが、もし名前が必要だというのならユングヴィとでも――」

「あなたがやったことは暴力ですよ」

「は?」

 ゲルドと名乗った女の、唐突な切り返しにフレイは頓狂な声をあげてしまった。

「助けてくださったことはわかります。ええ、危ないところでした。ええ、危機一髪ではありました。ええ、暴力的な目に遭うところではありました――ですが、だからといって暴力で何もかも解決できるわけではありません。あなたのやったことは、余計な禍根を作り出し、新たな諍いの種を生むかもしれません。であれば、話し合いで解決すべきだったのです。もう一度、お礼はいいます。ありがとうございました。でも、ああいうことはあまりしないでください」

 では、とゲルドはフレイに背を向けて、助けた子どもに何事か話しかけると、それで絹糸のような金髪を靡かせて去っていってしまった。するとなぜだか周りの雰囲気さえもが変わっていき、周囲の野次馬たちからフレイに注がれる視線は、姫の危機を救った英雄に対するものというよりは、失敗した道化に対するもののようになってしまっていた。


「フレイ」という声は、いつの間にか近くに来ていたイドゥンのものだった。どこから事態を見ていたのか、口元には笑みが浮かんでいる。「ふられたの?」

「いや……おれは悪くないと思う」

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