二、スキールニルの旅

第2.1話 半死者ヘル、世界樹を昇ること

 フレイは大声で叫びました。「一夜は長い、二夜となれば、もっと長い。どうすれば三夜も耐えることができるのだろう? どうすれば……」彼は腕を上げ、頭をのけぞらせて瞳を閉じました。「願いではりつめたこんな夜の半分よりも、まる一月のほうがまだ短いと、ぼくはよく考えていたものだっけなあ」


K. クロスリィ・ホランド(著), 山室静(訳), 米原まり子(訳), 『北欧神話物語』, 青土社, 1983.「十一 スキールニルの旅」より


 ***

 ***


 その日は四肢の皮を切り裂き、骨まで染み込むほどに寒かった。


 世界樹ユグドラシル。三平面を貫くその世界樹の根は竜に齧られ、鹿に新芽を食い千切られ、すなわち平常通りであった。これまで幾たびもの苦難があり、そのたびに〈世界樹ユグドラシル〉はその表皮を厚く、硬くしていた。三世界それぞれから水を吸い上げる根も同じく硬く罅割れており、ごつごつとしていた。

 その根、宇宙の最下層である第三平面ヘルモードを貫く根の上に蠢く者がいた。大樹の大きさと比較すれば、樹皮の上を這う芋虫よりも小さなその生き物は、竜の悪口を樹上うの鷲に届けるためにヘルモードとアースガルドを行き来する栗鼠ではなく、全身に漆黒の鎧を身に纏い、肌のひとつどころか髪さえ露出していない影だった。

 第一平面アースガルドと第二平面ミッドガルドの間には虹の架け橋ビフレストなどの行き来する手段が幾つもある。が、第三平面ヘルモードにはそうした手段は存在しない。もしアースガルドやミッドガルドから奈落へと落ちれば、もはや二度と戻ることはできないのだ。ただひとつ、世界を貫くユグドラシルの根を伝うことを除いては。


 影――半死者ヘルは下方を見下ろす。もはやヘルモードの大地は見えず、ひたすらの暗黒が広がっている。ずいぶんと高くまで来た。ユグドラシルの暗褐色の根はぬめぬめとした粘質の苔に覆われていたが、ところどころに固く瘤ができていたためにそれを登る際の固定点として用いることができた。それでも慎重に慎重を重ねなければいけない。今この根から滑り落ちれば真っ逆さま、ヘルモードに逆戻りだ。もうあの場所には戻りたくはない。いや、どちらにせよ落ちたら死ぬので、ヘルモードからは逃れられる。この九世界からも。

 第一平面や第二平面では、ヘルモードというのが死者たちの国だと思っている者もいるらしい――馬鹿馬鹿しい。死んだら、終わりだ。腐り、溶けて、焼かれて灰になるだけだ。ヘルモードの亡者は亡者であり、死者とは違う。亡者とは、例えば〈半死者〉であり、例えば――。


 地面が、いや、巨大な〈世界樹〉の根が揺れた。


 ヘルは根が曲がって水平になっている部分まで辿り着くと、一息吐いてから視線を再度下へと降ろした。やはり眼下に広がるのは闇だけ――いや、闇の中で何かが蠢いている。何か? この根を伝ってくるのは亡者しかいない。なれば闇に動くのは亡者だけだ。

 初めに見えたのは目だった。巨大な眼球が宙を彷徨っている。まるで目だけが浮いた化け物のように見えたが、それが近づいてくるとその下にあるものがだんだんとはっきりしてくる。顔から多数の目が生えた亡者だ。眼球は赤や青の管で顔面と繋がれていて、そのすべてが違う方向を向いていた。両手両足はふたつずつ――つまりヘルや人神(じんしん)と同じで、これは幸いだった。なぜならば、根にしがみついて登ってくる間は反撃ができないからだ。

 ヘルは背負っていた荷から武器を取り出した。トネリコの樹を削り出して作った手製の槍だ。狙い違わず、槍は上を向いていた眼球へと突き刺さる。勢いで眼球が神経や筋肉の束から千切れ――それだけだった。多眼の亡者は眼球のひとつを失っても仰け反ることも、痛みに悲鳴をあげることさえもなく、ただその動きを静止させ、ぎょろぎょろと複数の目で攻撃の正体を探り始めた。

(化けもんだな)

 改めてそんなことを言葉にせずとも、亡者は化け物であるということは当たり前の事実だ。ヘルモードには化け物しかいない。〈半死者ヘル〉は己の身体のことを想った。

 

 多眼の亡者が襲撃者の居場所に気付く前に、二本目の槍と短剣を携えてヘルは根を飛び降りた。落ちる勢いそのままに槍を眼筋や視神経が無数に飛び出している顔面に突き刺し、抉る。亡者の顔は人神と同じ体格のヘルが乗れるほど巨大だった。傷口からは血は出てこなかったが、代わりに黄色の液体が顔から吹き出し、ヘルの漆黒の鎧を汚す。

 彼にとっては裁縫針ほどの大きさの武器であろうとも、さすがに顔面を抉られてはかなわないらしい。暴れ始め、根にしがみついたまま片手で己が顔面を叩こうとする。ヘルは亡者の手を逃れながら、短剣で捻じれた眼球を断ち切っていく。


 衝撃とともに身体が浮いた瞬間、ヘルは亡者の顔に突き刺さっていた槍の柄を寸でのところで握った。巨人の手によって弾き飛ばされたヘルの身体は虚空へと投げ出されそうになったが、抜けた槍の先をユグドラシルの根に突き刺すことに成功する。

 代わりにと落ちていくのはヘルを払いのけるために片手を離した多眼の――いや、いまや眼のひとつも持っていない亡者だった。巨大な亡者がヘルモードの大地に落ち、振動が〈世界樹〉を揺るがすのを確認してから、ヘルはまた根を登り始めた。元の水平になっている根のところまで戻り、一息吐く。身体を横たえる。大の字に。


 ――疲れた。あとどれくらい登れば、第二平面ミッドガルドへと辿り着くのだろうか。本当に辿り着けるのだろうか。この身で簡単にミッドガルドへ辿り着けるのであれば、今頃第二平面は亡者で繁茂していてしかるべきではないのだろうか。こんな努力は無駄なのではないか。

 幾つも幾つも、諦めのための理由は浮かんでくる。努力しても無駄。何をしても無駄。無駄。


 だがヘルは覚えていた。かつてアースガルドで暮らしていた記憶を。狼と蛇の姿のきょうだい、フェンリルとヨルムンガンドを。父親と……、それと犬耳に猛禽の翼という変わった姿の母を。

(違う!)

 あんなのは、母親なんかじゃない。ヘルを……こんな姿になったヘルを見捨てたあの女は母親なんかじゃない。あんな女、あんな女………!


 ヘルは深呼吸をして気を落ち着けようとした。あの女、ロキのことはこの際もうどうでもよい。ヘルは彼女を嫌っていて、だからといって復讐をしたいというわけではない。あの女とは、関わりたくはない。母親だとは思いたくない。いまは、ただ、ただ己を救いたい。きょうだいを救いたい。そして、父に……、優しかった父親に逢いたい。

 そのためには、何をしてでもヘルモードを脱出しなければならない。

 ヘルは近くに転がっていた目玉――先の亡者の一部だ――を手甲に包まれた左手で握る。ヘルの頭よりも巨大だった目玉はまるで水気を急激に失ったように縮んでいき、最後には薄汚れかさついた肉塊に成り果てた。《殻鎧フヴェルゲルミル》。アース神族の〈独眼の主神オーディン〉さえも知らない唯一の〈神々の宝物〉は外からルーンを吸収し、亡者と化したヘルの身体を辛うじて人神に近い形に押し留めている。だが猶予は僅かだ。ヘルはくしゃくしゃになった眼球を虚空へと捨てて起き上がると、またユグドラシルの根を伝い、登り始めた。

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