第1.10話 狼の母ロキ、隻眼の主神捜しに奔走すること
髪も服も水を吸ってしまい、重かった。羽は背中側ということも相まり、簡単には拭き取ることはできない。長いこと雨に曝されてきたこともあって、体温が下がっていた。悪寒を感じて震えたのを目敏く気付き、イドゥンが羽を拭ってくれた。
「ロキ、大丈夫? お風呂入る?」
「あ、や……大丈夫」
「そう……?」とイドゥンは心配そうな表情のままだった。「でも、だったらせめて着替えたほうが良いよ。待っててね」
イドゥンはぱたぱたと廊下を走っていき、部屋のひとつの中へと消える。金色の毛の猪もそれについていって、ロキは玄関に取り残された――いや、チュールもだ。彼ははイドゥンが入っていった奥の部屋への道を塞ぐように、壁に背をもたれて待機している。その表情からは、ロキへの明らかなる警戒心が見て取れた。
仕方が無いことだ。彼はトールやフレイとは違う。普通の反応は、こうなのだ。巨人族の裏切り者であり、オーディンの妾であると知られていなくても、獣の耳に猛禽の翼となれば、怯えるのは当然だ。
だがイドゥンは違った。
「これ、どうかな? こういう恰好、きらい?」イドゥンが両手に抱えてきた衣服は、体型が違うロキのために選ばれたゆったりしたものばかりだった。「胸のところとか、ちょっと……ちょっとだけ小さいかもだけど、たぶん丈は大丈夫だと思う。涼し過ぎるかな? でも今日は雨で湿気が多いし、蒸れるよりは良いと思うよ。上に羽織れば寒くないもの。それよりデザインなんだけど、ちょっと心配で、あんまりお洒落とか詳しくないから……どうかな?」
ロキは気圧されるように頷き、服を受け取ると、着替えるために胸元を押し留めている紐に手をかけた。
「あっ、ごめん」と慌ててイドゥンが止めにくる。「着替え持ってくるんじゃなくて、部屋に連れていけば良かったね……あっちの部屋で着替えて。ほら、チュール、そんなところでロキのこと見てないで。目つきがやらしいよ。変態。ほら、ほぉら、言い訳しないで。じゃ、ロキ、着替え終わったら教えてね。もうすぐ暖かいシチューができるから」
彼女はチュールを引き摺り、奥の居間のほうへと去って行った。家の中にロキの翼から雫が垂れることなど、彼女は気にしないらしい。
ロキは言われた通り、イドゥンが着替えを取ってきた部屋に入って服を着替えた。確かに胸がきつい。釦を幾つか外す。それでも締め付けられるように感じる。胸だけではなく、腰の周りも窮屈で、ロキは自分の体形が少しばかり心配になった。
部屋の中には芳醇な匂いが漂っていた。花や香の甘ったるい匂いとは違う、青果のような爽やかな匂いだ。ここはイドゥンの寝室だろうか。彼女らしい、簡素ながら可愛らしい様式だ。
ここに何か、オーディンに関する手がかりがあるだろうか。ロキはこの部屋の中で彼に関する手がかりを探してみるべきか迷った。
イドゥンはオーディンに通じている。そのことをロキは確信していた。彼女の首元にある《金環ブリーシンガメン》はオーディンによる作品で間違いない。どんな魔力があるのかはわからないが、尋常ならざる力が宿っていることは触れずともわかる。
(オーディン……)
ヨルムンガンドがミッドガルドの海に落とされたときも、ヘルがヘルモードへ突き落とされたときも、そしてフェンリルが《銀糸グレイプニル》で縛られたときも〈
(それなのに………)
イドゥンには、まるで娘にしてやるように贈り物を与えている。
オーディン。
(どうして………)
彼の思惑はロキにもわからなかった。
ドアをノックされる音が響いたとき、ロキは家捜しをしようかどうか逡巡していたところだったので、驚きに飛び跳ねしまった。
「はい?」
ロキはノックに応じたが、ドアの向こうにいるはずの人物の答えはない。
恐る恐るドアを開けてみると、ドアの反対側にいたのは金色の体毛の小さな猪だった。随分と低いところからノックがすると思ったら、そういうことだったか。ロキは子どものように小さな猪を抱き上げる。持ち上げられた猪の獣らしい所作は、フェンリルを思い出させてくれた。
「なぁに?」
ロキは返事を期待せずに猪に訊くと、猪が鼻を鳴らして応じた。その仕草がおかしくて、噴き出してしまう。
「きみはオーディンがどこにいるのか、知ってる?」
ロキは尋ねてみるが、猪はやはり鼻を鳴らすだけだったので、ゆっくりと降ろしてやった。猪はロキの足に鼻をつけ、それから悠々と廊下を渡り、奥の居間へと入っていた。ロキも脱いだ服を抱えてそちらへと足を向ける。中は昨日も案内された居間で、イドゥンとチュールがテーブルを囲んで待っていた。
「あ、ロキ、ご飯できているよ」イドゥンが手招きし、猪を撫でる。「呼んできてくれてありがとね、グリンブルスティ」
猪は鼻を鳴らし、自分の食事の入った皿の中に顔を埋めた。
木のテーブルの傍へと歩み寄ると、イドゥンが席の一つを手で叩いたので促されるままにそこに座る。目の前には暖かいシチューとパンが用意されていた。
「やっぱりきつそうだね、服」イドゥンがロキの頭から爪先までを眺め、嘆息するように言う。「うーん、ごめんね。全然サイズがあれで」
「いや、そんな……。あの………」ロキは唇を湿らせ、意を決してから礼を言った。「ありがとう」
「どういたしまして」イドゥンは晴れやかに笑う。「ロキの服、あとで洗って干そうね。雨降ってるから、乾くまでちょっと時間がかかるけどね。いただきます」合間に食事の挨拶をして料理に手をかける。「あ、今日は泊まっていけば。折角だし。あとやっぱりお風呂も入ったほうがいいね」
ロキも手を合わせてからありがたく昼食をいただくことにした。「そこまでしてもらうには………」
「良いじゃん良いじゃん、あ、ベッドはないから、二人で一つのベッド使うことになるけどね、わたしのベッド、広いから。一緒に寝ようよ」イドゥンは無邪気に言う。「こういうのって、初めてなんだ」
「うーん……」
チュールがイドゥンやロキの言動に注意を払っているのはわかる。彼はイドゥンの護衛でここまで来たという。しかし彼からはそれ以上のものを感じた。
「ロキ、駄目?」イドゥンは眉根を寄せて首を傾げる。
ロキがここを訪れた目的は、オーディンの居場所を突き止めるためだった。彼の居場所を知っているはずのイドゥンと一晩を過ごすのは、情報を得るためにも悪くはない。ロキは己をそう納得させることにした。「じゃあ……そうさせてもらおうかな」
イドゥンはぱっと笑顔になり、頷く。「それが良いよ」
イドゥンは言葉も動きも軽やかで、一緒にいると心が温かくなった。チュールは食事の間中も終わってからもほとんど喋らなかったが、イドゥンはよく言葉を紡いだ。ロキは相槌しか打てないほどだったが、しかし楽しかった。
ロキは久し振りに心が洗われる気がしつつ、次の朝に二人に見送られてイドゥンの屋敷を去った。彼女から、無理矢理にオーディンの居場所を聞き出す気にはなれなかった。頭の上を二羽の鴉が通り過ぎていった気がしたが、今日のところは追わないことにした。
羽を広げる。朝日に当たれば、灰色の羽毛でさえも白く輝くことができる。
翼で風を起こし、しかしその風だけの力ではなくルーンで飛ぶ。森を越え、山を越え、降り立った場所は第一平面アースガルド西の大草原。ロキはフェンリルのいる洞窟の中へと入っていった。
「フェンリル………」
フェンリルが吼える。そのたびに空気が震える。
フェンリルが足を打ち鳴らす。そのたびに地面が揺れる。
フェンリルが口から涎を垂らす。そのたびに川が毒される。
フェンリルの状態は変わらなかった――いや、ずっと悪くなっていた。彼の身体を突き破って生える《銀糸グレイプニル》は血液を吸い取って赤黒く脈動し、触手のように這い回って天岩を突き破る。崩れた天井から雨が染み出し、フェンリルの頬を打つと、まるで毒液を浴びせかけられたのかのように震え、戦慄き、足を地に打ち付けた。地面が揺れる。
ロキはフェンリルに雨粒がかからぬよう、天井に浮かび上がって水を手で受け止めていたが、そのうちに手から溢れそうになったため、地面に捨てた。だがその間に水がフェンリルの顔を打ち、彼は痛みに悶え、叫び声をあげた。
彼にはこの一時、この瞬間がどれだけ長く感じているだろうか。
一瞬であり、永遠の地獄。彼はもはやすぐ傍にいる母親に気づくこともなく、見た目通りただ喚き散らすだけの獣に成り下がってしまった。
(オーディン………)
フェンリルがこんなになってしまったのに、あなたは助けてくれないの?
瞳に涙が溜まり、視界を曖昧にして、だから気づくのが遅れた。雨水を捨てるために地に降り立ったロキの背後に立った気配に。
***
***
フェンリルは久し振りに束の間の自我を取り戻して目を動かした。
傍らに母親がいたような気がした。
だが自我を取り戻したのは束の間であり、血溜りが近くに広がっていたが、それに気付かないままに、またフェンリルは狂ったように悶え始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます