第1.9話 軍神チュール、黄金の林檎とともに朝を迎えること

 第一平面アースガルドのあらゆる場所がそうであるように、ヴァルハラにいる金色鶏冠の鶏が時を作ると朝が始まる。もちろんそれは、ヴァルハラの都から遠く離れたアールヴヘイム近く森の中でも同じことだった。

 朝が来るというのは、月が走り抜けていって太陽がやってくるということだ。夜が眠りこけて、昼が顔を出すということだ。それ以上の意味はない。

 だから朝が来ても、チュールは目を瞑ったままベッドの上にいた。


「チュール、もうすぐ昼になるよ」

 女というよりは子どもらしさを感じさせる高い声が聞こえてきたが、チュールは目を瞑ったままだった。

「チュール? チュール? ねぇ、おおい、起きてるよね?」

 イドゥンの声だ。それはわかっている。声の下方からは、猪の鳴き声もする。それは、どうでもいい。お願いだから寝させてくれ。朝が来たということは、まだ朝ということなのだ。朝が始まって間もないということなのだ。

「私の護衛なんでしょい? フレイももう帰っちゃったんだから………」

 イドゥンの言葉を理解するのに少し時間を要した。


 フレイは強い。チュールがいなくても十分にイドゥンを守れる程度に強い。フレイがいない。つまりイドゥンを守る者はチュールのほかにはいないということになる。なるほど、そうか。そういうことか。眠い。

 チュールは自身に喝を入れた。気力を振り絞って身体を起こす。瞼を開ける。自力で起きたと思ったのだが、左手をイドゥンに引っ張られていた。

「チュール、大丈夫? もしかしてどっか体調悪い?」とイドゥンは心配そうな表情でチュールの顔を覗き込んできた。

「朝は………」

 それだけ答えるのが限界だった。

 ベッドから降りる。足元で猪が五月蝿い。喰うぞ。いや、猪肉など朝から腹には入らない。居間へ。手近なところに座る。護衛の任は果たさなくては。たとえ情けで任せられた任だとしても。


「苦手なんだ………」

 チュールは腰かけて――どこに今腰かけているんだろう――一息に言う。

「え? なに?」食事の準備か、炉の前で前掛けをつけて作業をしていたイドゥンが振り返る。「なにが苦手だって?」

 チュールは首を回して周囲を観察する。特に危険はない。イドゥンの家の居間だ。

「朝は………」チュールは呟く。

「そうだよ、朝だよ」イドゥンがテーブルの上のカップに茶を注ぐ。「お茶、飲む? 眠気覚ましになるよ。ほら、大丈夫?」

 チュールは右手を伸ばしてカップを掴もうとしてしまった。だが掴めない。当たり前だ。右手首から先は、狼に喰われてもはや存在しないのだ。それを見たイドゥンがカップを押しやって左手側へと移動させてくれた。カップはテーブルの上にあった。なるほど、つまり自分はテーブルの前で椅子の上に座っているのだな、と今更チュールは理解した。


 今度こそ左手でカップを取り、中身のぼんやりした色の液体を啜る。

「朝が、苦手なんだ………」今度こそはっきりと言えた、とチュールは思った。

「うーん、大丈夫? 本当」と心配そうな声色で、しかし口元は笑っていた。「チュール、意外と面白いね」

 チュールはもう一度、今度は味と香りをできるだけ感受しながら茶を口に含んだ。

「その様子だと、朝ごはんいらない?」

「いらん……」精一杯の努力と共にチュールは答えることができた。

 目を瞑る。光が弱まる。音も。香りのみが感受できる。快適だ。


 猪の鳴き声。


「チュール、寝てるよ」

 とイドゥンの声があった。

「そこの猪を煮てくれ………」

「なに言ってんの、もう……。だらしないなぁ、護衛とか言って……」イドゥンは唇を尖らせる。「わたし、お昼のために木の実とか動物とか採りに行ってくるけど、一人で大丈夫?」

(一人で?)

 駄目だ。巨人族に狙われたらどうするというのだ。

「無理」チュールはそれだけ言う。

「無理って言われても、ご飯の準備とかあるし……」

「無理無理、無理だって………」半ば無意識にチュールは続ける。「ここにいろって………」

 イドゥンは顔を少し引き、それからチュールとグリンブルスティの間で視線を彷徨わせた。

「じゃあ、待ってるから早く目を覚ましてね。ちゃんと起きたら一緒に行こうよ」

 チュールは何度か小刻みに首を動かした。たぶん、ちゃんと縦に振れたと思う。


 時間が経つにつれてだんだんと脳が覚醒してくる。窓から差し込む陽光が時間と共に移動し、チュールの座っている位置を照らす。陽光によって、意識はより冴えるようになってきた。

 視線を巡らせて部屋の中を見渡したが、椅子の上にも、炉の前にも、通路にも、玄関にも、イドゥンやフレイの寝室にもイドゥンがいない。金色の毛の猪も消えていた。フレイも。

 しかし家の外から声が聞こえる。歌のようだ。

 外へ出ると、イドゥンが洗濯物を干していた。彼女は外に出てきたチュールにすぐに気づき、丸い目をますます大きくした。

「チュール、おはようっ」イドゥンは首を小さく傾ける。「今度こそ起きたかな?」

「さっきから起きている」チュールは地面に穴を掘っている猪を発見した。「森に木の実だの動物を採りにいくんだったか。狩りか?」

「おおっ、すごい。あんな状態だったのにちゃんと覚えているんだね」

「さっきから起きてると言っただろう」とチュールは昨日いた残りの一人、フレイの姿を探しながら答える。「ところで、フレイはどこだ? もう帰ったのか?」

「あ、やっぱり覚えてないんだね。なんか安心するなぁ」イドゥンは一人で納得したようにうんうんと頷く。「フレイはもう帰ったよ」


 チュールは空を仰いだ。木々から零れる空は蒼天ではあったが、森の切れ目からは山の端にかかる雲が遠くに見えた。世界の何処からでも見失うことのない世界樹ユグドラシルの周囲にも綿のような雲が纏わりついている。

「午後からは雨が降りそうだから。早めに行くか」

「あ、そうなの?」イドゥンもつられて空を眺める。「けっこう晴れてるけど……」

「でかい雲はあるだろう。最近暑いからな。すぐに大雨になりやすい」

「ふぅん………じゃ、お洗濯物干し終わったら行こうか」

「雨に濡れるぞ」

「雨降る前に帰ってきて取り込めば大丈夫」

 イドゥンは手早く洗濯籠と物干しの間を往復し始める。


 家の外壁に寄りかかって、チュールはその様を眺めた。イドゥンは小さな身体でくるくるとよく働いた。女の口元は常に笑顔であり、些か頭がおかしいようにも感じられたが、不快ではなかった。後ろで三つ編みにした栗毛が微風で揺れ、木漏れ日を受けて照り輝いていた。

 穏やかな時間だ。こんなに穏やかなのはいつ以来だろうか。チュールは記憶を辿ろうとした。たぶん、穏やかな日が訪れなかったのは、戦争のせいではなく、自分が必死で動いていたからだろう。今この場にいる間は、どんなに必死で動こうとしても、それは無為だ。戦闘はなく、評価する人間もいない。せいぜいが、イドゥンの機嫌を取るくらいだろうが、そんなことはするつもりはないし、自分に少女の気が惹けるとも思わない。だから無駄で、だから穏やかだ。


「チュール、また寝てる?」

 とイドゥンが小首を傾げ、覗き込んでくる。手には樹皮の編み籠を携えており、採取に行く格好だ。家事が終わったらしい。

「起きている」

「うん、そうだと思ったけど、朝はものすごくよく寝てたから、また寝てるんじゃないかと思った――チュール、剣を持っていくの?」

 採取で森まで出かけるということで、ナイフの位置を確認してから剣を二本腰に差し、手袋を嵌めて準備を整えていたチュールに、イドゥンが尋ねてきた。

「すぐ近くなのに、そんな必要ないと思うけど………」

「いつ敵の襲撃があるかはわからない。獣もいる」

 その可能性は低いと思いつつも、チュールは言う。

「穏やかじゃないね」イドゥンは歌うように言い返してくる。「そんなに警戒することなんてないのに」

「それだけ心配されているということだ」

「そうかな」振り返ったイドゥンの表情は晴れやかな笑顔だった。「そうかなぁ」


 心配されているのは事実であろうが、しかしそれはイドゥンという少女そのものに対してではないだろう。ヴァン神族の指導者の娘に対して、だ。彼女が危険になればアース神族とヴァン神族の和平が破綻してしまうから、アース神族は彼女を守ろうとしている。それだけのことだ。

 彼女はそれを自覚しているのか、いないのか。この笑顔を見る限りでは、していないだろう。


 自分はどうだろうか、とチュールはふと思った。

 昨日会ったばかりだが、トールから任務を言い渡された直後と比べると、自分の彼女に対する感情は違ってきている。

 小五月蠅く、慌ただしく、何処も出っ張っているところが無いような娘ではあるが、ただ彼女の身柄を守るだけではなく、彼女の人格を尊重しながら護ってやりたいと感じていた。


 今のチュールには力がある。《魔剣ティルヴィング》という力だ。だから、昔できなかったことをしてあげたい。誰にでも。何に対しても。

「フレイは……少なくともあいつは心配しているだろうな」

「そうだね。昨日も忙しい中、来てくれたんだし」と言うからには、イドゥンも人質であると同時に客将に近い身分のフレイが前線を離れることの大変さを理解していたらしい。「よぉし、じゃ、さっさと行こうか」

 イドゥン、それにグリンブルスティとともに向かった森の中は、多くの果樹や木の実をつけた木々が生えていた。さすがは豊穣神であるヴァン神族が住処に選んだ森だ。これなら女ひとりで生きるにしてもそう苦労はしないだろう。動物の気配も大量に感じるが、その姿を見えない。妖精も。


「怖がっているんだよ」イドゥンは呟く。「ちょっと悲しいよね。まぁ、事実なんだけど。出てきたら殺しちゃうからね」

 あどけない顔のままでイドゥンがあっさりと殺すと言ったので、チュールは少し意外に感じた。

「動物を殺すのか?」

「狩りをするって言ったでしょ。大きい兎がいれば、それ二匹欲しいかな」木の実を採集しながらイドゥンが答える。「仕方ないよね。果物とかだけじゃ生きていけないもん」

 目の前の茂みが揺れた。グリンブルスティが鼻息を荒くすると同時に、兎がまさしく二羽飛び出してきた。反対側の茂みの中に到達する前に、チュールが投げたナイフが一本ずつ兎の腹に刺さり、動かなくなる。


「チュール、凄いね。ウィリアム・テルごっことかできそう」

 イドゥンは倒れて動かなくなった兎のもとへと駆け寄った。抱きしめるように兎を抱えてナイフを抜き、チュールに返してくる。言葉の軽さとは裏腹に、その眉根は悲しそうに歪んでいた。

「厭なのか?」兎を籠の中に入れているイドゥンを観察してチュールは問う。

「あんまり良い気分じゃないなぁ。いつも」イドゥンは溜め息を吐く。「うーん、ごめん。こういうのって、良くないよね。せっかく捕ってくれたのに」

「いつもはどうしているんだ? 罠でもかけて捕まえてる?」

「うーん、いろいろかな」とイドゥンは言葉を濁した。


 空は暗くなり始めていた。

「本当に雨が降ってくるんだね……、帰ろう」

 イドゥンの言葉に同意して帰宅すると、雨が降り始まる直前に洗濯物を家の中に入れ終えることができた。洗濯物ともども家の中に入った瞬間、土砂降りとなった雨粒が落ちてくる。

「危なかったぁ……」

 とイドゥンが安堵の息を吐き、兎の皮を這いで昼食の準備を始めた。チュールはまだ少し湿っている洗濯物を、雨を避けられるようなところに干す。それから使用したナイフを洗ってから磨ぎ、装備を確認しなおす。それも終わると、イドゥンの作る昼食が完成するまですることもなくなったので、居間で食事の完成を待った。


「あれ………」イドゥンは火の傍から離れずにチュールに向かって尋ねてくる。「チュール、手袋知らない?」

「知らん」

「料理用のやつなんだけど……」

 チュールは先ほど干した洗濯物の中に厚手の手袋があったことを思い出した。それをイドゥンに告げる。

「それじゃなくて……あ、そうか」勝手にイドゥンは納得する。「一個焼けちゃったんだ。そうかそうか。洗っちゃ駄目だった。うーん、チュール、ちょっと火、見てて」


 イドゥンが居間を出て行くと、グリンブルスティもついていった。

 火を見ておけと言っても、チュールは料理のことはわからない。何かが起こっても火を止めたり強めたりするべきかわからないのだから、いてもいなくても同じではないだろうか、と思う。

 だから玄関のほうからイドゥンの慌てたような声が聞こえたとき、火の番を放り出してすぐにそちらへと向かうことができた。

 玄関にはイドゥンとグリンブルスティ、それに雨に猛禽の翼を濡らした〈狼の母ロキ〉の姿があった。 

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