第1.8話 軍神チュール、黄金の林檎と妖精王の会話に閉口すること
イドゥンより色の薄い亜麻色の髪の下の双眸は涼しく、見られただけでそこらの女は魅了されるだろう。フレイという男を一言で述べれば色男だ。それが目の前で土下座をしているのだから、なかなかに愉快な光景であった。
フレイが頭を下げている対象であるイドゥンはといえば、炉の傍で火をかけた薬缶から茶葉を入れた急須に湯を注いでおり、その口元は固く結ばれていたが、目は明らかに笑っている。
話は少々遡るが、イドゥンの家に突如として押しかけてきたフレイは何を思ったのか、炉のある居間のチュールの姿を見るや否や、イドゥンを抱きかかえてテーブルを蹴倒し、チュールに剣を向けてきた。いや、おそらくはチュールのことをイドゥンの家に忍び込んだ強盗か、でなければ巨人族の手の者だとでも思ったのかもしれない。戦争が始まったばかりの敏感になりがちな時期だ。気持ちはわからないでもない。ああ、理解はできないでもないのだ。
が、切っ先を向けられながら共感を示すのは容易ではない。相手があのフレイであればなおさらだ。
幸いにもすぐにイドゥンがフレイを諫めてくれたから、チュールは助かった。おそらくはフレイも。《魔剣ティルヴィング》に頼らなくてはいけなくなるところだった。
結果として、イドゥンがフレイの先走りを説教することになり、その間中、ブリングルスティという猪が何度も何度も正座させられているフレイの足に突進した。
今は説教こそ終わったが、イドゥンがフレイを許した態度を取っていないため、フレイはチュールと(特に)イドゥンに対して平謝りしている状況である。
「すまなかった……」とフレイが顔を上げて、懇願の調子で言う。「だがな、ほら、お兄ちゃんはおまえのことが心配だったんだ。戦争が始まったばっかりでな。何があるかわからんし。部屋に入ってみたら男がいるし」
イドゥンは兄を一瞥し、それから椅子に腰かけて茶をゆっくりと啜った。「だからって、いきなり剣を抜くかな? それに、連絡もなしに来て……」
「連絡はしたよ。ブリングルスティで!」
「これ?」イドゥンはグリンブルスティの鞄の中に入っていた手紙を掲げ、開く。「あ、本当だ。でもグリンブルスティ、さっき着いたばっかりだよ」
「そいつが怠け者だからだ。本当はもっと早く届くはずだったのに」
「言い訳しないの。まったく、チュールにも迷惑をかけて……」
とイドゥンはチュールに視線を向けてきたが、もう笑いが堪えきれないのか、桃色の唇が虹のような曲線を描いている。
やはりヴァン神族は違うな、とチュールは思った。客前でこんなやり取りをするものなのか、と。二人のやり取りはポーズ的で、ある種の寸劇にしか見えなかった。
あるいはこのような芝居をすることで、チュールに対しての何らかの効果を見積もっているのだろうか。たとえばこれからチュールがイドゥンやフレイに気兼ねなく話ができるように、だとか。しかしその役割を果たすのは彼女の茶で充分だったはずで、フレイがやってきてからはむしろ彼女との距離は開いた。
「いやぁ、本当のこと言うとさ、おれはチュールとは仲良しさんなんだ。さっきもちょっと巫山戯てみせただけなのさ」フレイは正座の姿勢のまま器用にチュールに向き直って言う。「懐かしいなぁ、ホッドミーミルの森の下で対峙したときのことが。ヴァン神族とアース神族の最後の攻防戦。あのとき俺はチュールと戦った。勝敗はなかなかつかなかったんだ。それほど実力は拮抗していた」
「それはトールだ」
チュールは親切にも突っ込んでやったが、フレイがトールの顔を覚えていないわけがないのだ。まさしく彼の言う通り、フレイはアース神族最強の〈雷神〉と戦い、対等以上に渡り合ったのだから。
そう、今でこそ妹に土下座をしているような情けない男ではあるが、彼はその剣、《妖剣ユングヴィ》で〈雷神〉に勝ったのだ。そのときは兵数が違っていたことやトールの《雷槌ミョルニル》が大振りであったこと、また彼の〈神々の宝物〉が森林での戦闘には向かない一方でフレイのユングヴィは汎用性が高く小回りが利くという相性もあっただろうが、この男はトールに匹敵するほどには強いのだ。ヴァン神族では最も、いや、妹に尻を敷かれているのだから、二番目くらいには。
「こういうこともある」
と真面目な顔でフレイは視線をイドゥンへと向けた。
イドゥンは大袈裟に溜め息を吐いて見せ付けた。「戦いのほうは良いの? 戦争が始まったばっかりだって言うのに……」
「いや、そりゃあ大丈夫。トールがいるからな。あれ一人で今回の砦は落とせそうな感じ」
(それはないだろう)
トールは確かに強い。正面から戦えばどんな巨人相手でも頭を叩き割ることができるであろう。だがヴァン神族との戦争ではフレイに勝てなかったように、戦いは単純な強さだけでは決まらない。
現在交戦中の巨人族側の砦といえば、おそらくスリュムヘイムであろう。そこを治めているのは巨人シアチ、巨人族の中では珍しく策を弄するタイプだ。
相手の策からトールをフォローするために他の神々がいるのだが、彼と対等に話すことのできるチュールとフレイは前線を離れて第三世界アールヴヘイム近くの森の中にいる。他の人神だけでは彼を抑えることは難しいだろう。トールは敵の罠に掛かっているかもしれない。
(まぁ、それでもあいつは死にはしないだろうけどな)
トールは強い。それほどまでに強いのだ。数日程度フレイが前線を離れても問題がない程度には。
無意識にチュールは《魔剣ティルヴィング》に触れていた。
「そういうふうに好い加減に動くから、他の人が迷惑するの。チュールだってお仕事が大変になっちゃうんだから、ねぇ?」
とイドゥンがチュールに振り返ったので、反射的に剣から手を離す。「いや………」
「そう、迷惑なんてないはずだ。良いことを言ったな、チュール!」
チュールがほとんど何も言っていないのにも関わらず、フレイは立ち上がってチュールに詰め寄る。チュールは立ち上がって退きかけた。
「はい、迷惑迷惑」イドゥンが手を水平に伸ばしてチュールとフレイの間に差し入れる。「で、なに、今日は結局なにしに来たの? もう帰るの?」
「帰らないよ。もうお外真っ暗だよ。お兄ちゃんここに泊まるよ」
「でも部屋ないよ」
「いや……あるよね、普通に。それはさすがに意地悪じゃない?」
「フレイの部屋ではチュールが寝るから」イドゥンがチュールに視線を送る。フレイが切羽詰ってそうなこの状況ではやめて欲しい。「お客さま優先だよ」
「なんと」
「なんとじゃないよ。床で寝る?」
「仕方ない、そこは妥協しよう……」
「床で寝るんだね?」
「おれはおまえと一緒に寝よう」
「厭」
「おい、おまえの大好きなお兄ちゃんだぞ。この男と一緒に寝るのとどっちが良い?」フレイはチュールを一瞥した。
「わたしはわたしの部屋、チュールはフレイの部屋、フレイは床が良い」
「まぁ、良いんじゃないか」チュールは口を挟んだ。「おれはあんたがたが一緒のほうが守るのは楽だ」
「その理屈だとフレイがいないときにはチュールと一緒に寝るのが良いってことになるけど」とイドゥンは顎に手をやる。
チュールの言葉を聞いて一瞬顔を輝かせたフレイだったが、イドゥンが言ったことにすぐ反応する。「いや、それは駄目だ。駄目だ」
「そこまではする必要はない」話が拗れそうだったのでチュールは無理矢理理屈をつける。「このくらい小さな家だったら誰かが入ってくればすぐにわかる。フレイの部屋はあんたの部屋のすぐ傍だろう? それなら危険が迫ったときにすぐに対応ができる。ただ、それにしても常に気を張り詰めておくのは疲れる。今日のところはフレイが付き添ってくれるとありがたい」
イドゥンは少しの間悩ましげに空を見つめ、ややあって言った。「チュールがそう言うなら……仕方ないか」
「おぉ、わかってくれたか、妹よ」フレイは言ってからチュールに近付く。「きみもありがとう。ありがとう。ありがとう。もうひとつ、ありがとう」
チュールは座ったまま退く。イドゥンが零れんばかりの笑顔で微笑んでいるのが見えた。この兄妹はあけすけなく物事を言うように見えて、実際は素直とは程遠いようだ。
「ところで馬を飛ばしてここまで来たんだけど……、晩御飯は何か出してくれないのかな?」フレイは首を動かしながら訊く。
「残ってたものは、さっきグリンブルスティにあげちゃったよ」イドゥンが言った。
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