第1.7話 軍神チュール、妖精王に対面すること

 狼の遠吠えが外の森から響く。


 夕餉の準備をしている間から食事の間も、イドゥンは一方的に喋り続けてきて、チュールは精神的に疲弊していた。彼女が作った料理と食後のお茶が美味くなければ、チュールは席を立って外で干し肉を嚙み、麦酒エールで乾きを潤していただろう。


 彼女の淹れる茶は不思議な香りがある。茶葉が特別なのだろうか。視線を火の傍へと向ければ、炉の傍らには幾つもの瓶が置かれているのが見える。個々の瓶に入っている茶葉は見慣れたものだけではなく、何かの果実の肉や皮らしきものを干したものが入っていた。甘い香は、果物由来なのかもしれない。嗅いだことのない香りは、ヴァン神族の国、ヴァナヘイム特有の果物かもしれない。

「この茶は――」

「そういえば護衛の――」

 チュールが口を開いたのと同時に、イドゥンも言葉を発しようとした。

 互いに黙り、それから先を促すようにイドゥンが手を差し出してきたのだが、相手が護衛の話にようやく触れようとしてきたのに、茶だの果物だのといった女のような話をすることはできない。


「護衛が、どうした」

「ううん……、えっと、護衛のことは聞いてたんだけど、詳しい事情は聞いてないの。なんで護衛なんて必要になったの?」

「巨人族との戦争が本格化したからだ」

 やっとまともな話になってきたな、とチュールは簡潔に答えてやり、カップに口をつける。甘く若い、青い味と芳醇な香り。美味だ。


「これは、何の茶だ?」

 いちおう質問に答えたあとなので、チュールは我慢できずに問いかけた。

「林檎のお茶だよ。チュール、好き?」

「なに茶だって?」

「林檎。気に入ったの?」

「聞いたことないな……。ヴァナヘイムで採れる果物なのか?」

「そんなかんじ。美味しいでしょ」

「まぁ………」チュールは唸り、返答を思案し、結局正直に頷いた。「そうだな」

「淹れるひとが上手だから美味しいんだよ」

 とイドゥンは得意げに笑う。

 実際、その通りだろう。どんなに素材が良かろうが、下手な者が茶を淹れたところで不味くはならずとも、美味くはならない。この茶だけで、チュールは少しだけイドゥンのことが好きになった。


「それで、さっきの話の続きなんだけど……えっと巨人族との戦争が始まったの? ほんと?」

 戦争と護衛任務の話に戻されてしまった。茶の話だったらしていたいだけ、ときどき真面目な表情になるイドゥンの話の転換を残念に思いつつも、チュールは頷いてやった。「事実だ。あんたたちは和睦交渉でやってきた重要な人物だ。丁重に持て成す必要があるし、巨人族に脅かされる事態はあってはならない。フレイのほうは護衛など必要ないし、おそらくは戦線に赴くだろうから、あんたに護衛が付けられることになった」

「それで、チュール?」

「戦況が安定するまで……、少なくとも第二平面――ミッドガルドに通じる虹の架け橋の周辺から巨人族が掃討されるまでの当分はここに厄介になるだろう。何か問題があるか」

 それとも隻腕の護衛では不満か。チュールは言外にそんな意味を含みつつ問いかけた。

 

「チュールって、奥さんとかいないの?」

 イドゥンが首を傾げながら投げかけてきた問いに一瞬耳を疑ったが、チュールは正直に答えることにした。「いない」

「あ、ご飯作るまえに訊き忘れてたけど、嫌いな食べ物ってある?」

「ない」

「じゃあ大丈夫だね」人差し指を顎に当ててイドゥンは考えるように上方の空間を見つめる。「あとは、えっと……うーん、ないかな。もう」

「それだけで良いのか」

「フレイが来たときに使うベッドとかあるから、寝るところとかは大丈夫だよ。衣食住が揃ってて、チュールのほうも待っている人がいないんだったら問題なし。これからよろしくね」


(あっさりしたものだな)

 フレイもそうなのだが、ヴァン神族とはえてして細かいことに気にしないのかもしれない。

 イドゥンは右手を動かしかけてからチュールの右手を見、それから左手を前に出す。また握手か。イドゥンはにこにこと微笑みを崩さず、握ることを促すように手を軽く振った。

 諦めて手を握ってやろうとしたとき、チュールはルーンの奔流を感じた。明らかに異常な魔力を。腰に差した《魔剣ティルヴィング》ではない。ティルヴィングのルーンは肌身離さず持ち歩いているうちに嗅ぎ分けられるようになった。目の前の少女の胸元にある《金環ブリーシンガメン》でもない――だが何の魔力かといわれても、まだ〈神々の宝物〉を手にして間もないチュールにはよくわからない。熱く、慌ただしく、無造作で、野性的な――。


 音ががんがんと玄関のほうから聞こえたからには、もはや侵入者の存在を問う必要はない。チュールは左手で剣の柄を握りながら右手でイドゥンを奥へと誘導しようとしたが、右手の先は無い。

 部屋を出ていきかけたイドゥンを制して廊下に躍り出る。玄関からルーンが溢れ出ているのを感じる。明らかに〈神々の宝物〉だ。

 問題は扉向こうにいるのが敵か味方か、ということだ。否、味方ならば声をかければいいだけの話だ。そうでないのだから、敵か。巨人族か――と考えてみたが、しかし敵にしてもここまで強大なルーンを垂れ流す巨人族が前線を離れてこんな辺境まで来ているとは考え難い。否、だからこそ、か。トール相手ではどんなに強い巨人族でも相手にはならない。それならば前線で正直に戦うよりは、ヴァン神族とアース神族の講和関係が破滅するようにイドゥンを狙うほうが良い、と考えるだろう。巨人族がそんな姑息な手段を取るとは思っていなかったが、アース神族との全面戦争に向けて、取れる手段はすべて取ることにしたということだろうか。

 逃げるべきか。だがイドゥンを庇いながら逃げるのは容易ではないだろうし、おまけにチュールはいまだこの家の内部構造を把握していない。小さな家だが、しかしどこから出られ、その出た場所が森のどの辺りに位置しているのかということを知っていないようでは逃げるのも難しい。


 戦うか、逃げるか。


 腕は一本しかない。

 戦うか、逃げるか、それしかない。ふたつにひとつしか選べない。

 二本の腕があるというのは、それはそれで弱みだ。一本の腕が使えなくなっても、もう一本の腕があると思えば死ぬ気で戦う意志が弱まる。最初から一本しかなければもう後がない。何も考えずに戦える。

 しかし今はイドゥンがいて、チュールが守るべき腕は一本ではない。彼女の短い両の腕を合わせれば、三本だ。それらをひとつきりの腕で守らなければならない。

 チュールは、弱い。


「チュール」

 背後から能天気な声をかけてくるイドゥンに視線を向けようとしたが、彼女は既にチュールを擦り抜けて玄関へと向かっていた。

(いつの間に――)

 剣を鞘に納めてから彼女の襟元を掴んで後方へと引こうとしたが、間に合わない。一本しかない腕では一度にひとつの行動しかとれない。玄関の扉は開かれ、夜と森と星空が家の中にが入り込んできた――が、それだけだった。誰もいない。


「チュール、チュール」イドゥンがチュールの服の袖を引いていた。「グリンブルスティだよ」

 足元に何かが当たる。下を見ると金色の毛並みの小さな猪がいた。鼻息荒くチュールの足に頭をぶつけている。

「おぉ、偉いね、グリンブルスティ。お手紙?」イドゥンが猪の傍にしゃがみこみ、猪の背中に括りつけていた赤い鞄から白い紙を取り出す。

 チュールは入口の戸を閉めた。猪はイドゥンの傍を一周し、それから玄関傍で待機する。

「今ご飯あげるからね」イドゥンは猪に言って、炉のある部屋へと戻っていく。「あれはグリンブルスティだよ」

「あんたのペットか」

「うーん、どっちかっていうとフレイの、かな。手紙もフレイからかなぁ。なんだろう……」

 巨人族と戦争が始まったこの時期に来る手紙といえば決まっているだろう。最悪の事態を想定した手紙だ。


 フレイでもそんな手紙を出すことがあるのだな、とチュールが考えたとき、外から馬の鳴き声が聞こえた。チュールの馬のものと、もう一つ違う種類のものが。

 玄関の開く音。

「やぁ妹よ! 独り淋しがっているきみの元にお兄ちゃんが帰ってきたよ!」

 男の声。

「あ、痛い、グリンブルスティ痛い!」

 フレイの登場だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る