第1.6話 軍神チュール、黄金の林檎の下で羽を休める狼の母と対峙すること
小作りな部屋を見れば、この家はイドゥンがひとりきりで暮らしているのだろうというのは想像がついた。でなければ、レースだの指編みだのクロスステッチだのと、編み物や飾り模様が散乱する空間でフレイが生活していることになる――あの〈
ま、それはいい。護衛対象の女がどんな場所に住もうが、それは自由だ。
だが居住空間となる場所に、犬耳に鷲のような羽を持つ女がいるのはいただけない。巨人族でありながら離反し、アース神族に与しているという異形の女の存在に反応して、チュールは腰元の剣へと手を伸ばしかけた。
だが木造りの椅子に座ってカップを両手で抱えていた〈
「ロキ、大丈夫!?」
すぐに反応したのがイドゥンだった。台所の突っ張り棒に掛けられていた布巾を取って駆け寄る。大袈裟なくらいの慌て方で、ロキの服を拭く。
呆然とした様子で座ったままで拭かれるがままに任せるロキと、心配そうな様子のイドゥンを眺めながら、チュールは一先ずの警戒を解いた。こんな呆けとした女に警戒するのは馬鹿らしい。
それにしても、と改めてロキの様子を観察すると、やはり身体だけ成熟したような女だと感じ、イドゥンと対比させるとそれが際立つ。イドゥンも少女然としているが動きが素早く、細々なことに気づくうえに新たな飲み物さえ準備しているのに対し、ロキはされるがままで、狼狽えたり、従順に頷いて座っているだけで、一言でいえば、とろい。
「ごめん、イドゥン」
とロキはようやく謝罪した。遅い。
「いいっていいって。こうね、淹れるたびに新しい味があるからね、お茶は。あ、チュールも座って。今飲み物出すから」
イドゥンは囲炉裏で鍋を沸かしながら、茶を淹れる準備を始めたが、しばらく炉の傍の瓶を幾つか開け閉めしたのち、「あれ、お茶葉が無い」などと言い出した。曰く、「ちょっと茶葉を摘んでこないと……ふたりでお喋りして待ってて」だ。何がお喋りだ。
「おい、どこへ………」
「大丈夫。すぐそこ。そこの畑だから。乾燥させる必要がないやつだし」
とイドゥンが指し示したのは家の前の小さな畑で、確かにすぐそこだ。目の届く範囲なら、ロキのほうを見張っていたほうがマシだ。チュールはイドゥンが出て行ってからも動かず、壁に背を預けたままでロキの背を見下ろして監視しようとした。
だがすぐにロキはそわそたとし始めるや、立ち上がってチュールに向き直った。
「あのっ、わたしっ、帰るから……ごめんなさい。イドゥンによろしく言っておいて」
言うが早いか、ロキは玄関から飛び出してしまった。
チュールはすぐさま後を追ったが、家の外に居たのは呆然と空を眺めるイドゥンだけだった。彼女の視線を追うと、小さくなっていく鷲の翼があった。ロキの後ろ姿は西のほうへと消えていった。
「ロキ……、帰っちゃった。残念。チュール、何か言ったの?」
「何もない」それより、とチュールは畑に生えていた植物の葉を摘んだ手籠を抱えたイドゥンに向き直る。「おまえは本当にイドゥンなのか。フレイの妹の」
栗毛や白い肌は確かにヴァン神族らしいものだし、容姿と、何より性格がフレイに似ている。だがチュールは護衛対象の特徴などを聞いていないし、これまで会ったことがない。こんな妖精めいた場所で出会った女を急に信用するよりかは、妖精に化かされているのだと考えたほうが自然だと感じる。
「おまえがイドゥンだと証明するものはあるか」
「どうしたの? 急に………」とイドゥンは首を傾げた。「証明するもの? うーん、ブリーシングの首飾りとか?」
イドゥンは胸元から首飾りを取り出した。《金環ブリーシンガメン》という〈神々の宝物〉の存在について、名前だけは聞いたことがある。どんな魔力を持っているのかまでは知らないが、それがヴァン神族に伝わる宝だというなら聞いている。
チュールはイドゥンの胸を凝視した。彼女の首飾りは明らかに異常な魔力を発しているうえ、先端の掌大ほどの大きさの飾りには複数の針がついており、しかもそれが動き続けていた。《魔剣ティルヴィング》や《雷槌ミョルニル》に相当するほど――いや、それ以上かもしれない。剣でも槍でも槌でもない、武器にはまったく見えないこの首飾りにこれほどの魔力が込められているのが不思議だが、これがヴァン神族の宝であることは間違いないだろう。やはり、この少女はヴァン神族首長の娘――イドゥンなのだ。
「もう、いいかな」
と頬を赤らめてイドゥンは問いかけてきた。チュールが頷いてやると、開いた胸元にブリーシングの首飾りを仕舞い直し、服を正した。
「で、チュール。あなたは?」
「何がだ」
「わたし、チュールって人のこと知らない。だから、あなたがわたしのことを疑ったんだから、わたしもあなたが護衛のチュールって人かどうかを確認させてもらうべきじゃない? どう?」
悪戯めいだ笑いは意趣返しのつもりか。チュールはイドゥンと違い、名の知られた〈神々の宝物〉など持っていない。《魔剣ティルヴィング》は手に入れたばかりで、それをチュールと結び付けられる人神はいないだろう。
だからチュールは右腕を突き出してやった。手首から先がない右腕を。
先ほど掴んだときには気付かなかったらしく、「わ」とイドゥンは目を丸くした。もともと目が大きくて丸いので、表情によては本当に真ん丸になる。「これ、どうしたの」
「狼に喰われた。知らないか? フェンリル狼だ。ほかに狼に手首から先を喰われたやつがいるか?」
「そんな話、初めて聞いたよ………。ま、とりあえずわかったよ。そんなに自信満々に言うんだもんね。あなたはチュールだ」
あなたはチュールだ、と認めるイドゥンの言葉がチュールの頭の中で反響した。そうだ、おれはアース神族で、チュールだ。今は、まだ。いつ父親のような頭が無数にある化け物になるかはわからないが、今は、まだチュールだ。
「じゃあ、当分の間、護衛よろしくね、チュール」
とイドゥンは右手に手籠を持ち替え、わざわざ左手を差し出してきた。こちらなら握手できるだろう、という意味だろう。
チュールが動かないでいると、女は勝手に手を伸ばしてきて、無理矢理手を握ってきた。小さく、柔らかい手だった。つまり、見た目通りだ。
「それじゃあお茶を淹れようか。護衛っていってもさ、そんな、たぶん襲われることなんてないんだから、お喋りでもしよう」
「いや………」
チュールは唇を捻じ曲げた。茶会をしに来たわけではないし、護衛任務に当たって、ある程度は説明をしておく必要がある。でなくても、喋るのは好きではない。相手が小娘なら、なおさらだ。
「あれ、お茶は嫌い?」
「いや、好きだが………」
「じゃあ、良いでしょ? あ、お菓子もあるよ」イドゥンは家の中に入っていきながら、沸いたお湯でてきぱきと準備を進める。
「それは――」
「あ、そうだね」イドゥンは手を胸の前で合わせる。「ごめんね、一人で先走っちゃって………」
ようやくイドゥンが落ち着きを見せたので、チュールはほっとした。ようやく護衛任務の説明ができる。念のため、彼女には先ほどのようにはあまり一人で行動しないようにと言わなくては。
イドゥンは言った。「そうだよね、もうそろそろお夕飯の時間だもんね」
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