第1.11話 軍神チュール、黄金の林檎を奪われること

「ロキ、元気になったみたいで良かったね」猛禽のように翼を広げて、晴れ上がった空に飛び去っていくロキを遠くに見送り、イドゥンが呟いた。「来たときは、元気なかったからね」

 そうだろうか、とチュールは思った。あれは単に元気がない、という様子ではなかった。目に生気はなくとも眼球だけは動いていて、何かを探しているような視線だった。だからこそ、彼女をチュールは警戒したいたのだ。

「チュール、眠そうだね」家の中に戻りながらイドゥンが言った。「寝るのが遅いんじゃないの?」

「体質だ」チュールは欠伸を噛み殺して答える。

「早寝しないから早起きできないんだよ」

 実際のところは、昨日はロキを警戒してずっと浅い眠りであった。朝も半覚醒状態でロキとイドゥンが一緒にいるときはイドゥンに危険がないように付き従っていたので、非常に疲れた。寝たい。

 ロキを見送った日はそんな体調だったので、その日はぐっすりと眠った。おかげで起きるのも遅くなってしまう。目覚めたときにはだいぶ陽が高く起き上がっている。イドゥンはチュールを起こさなかったらしい――いや。まさか。


 厭な予感を感じて居間へと急ぐが、予想は外れてイドゥンは無事だった。

「あ、自力で起きた」チュールを見るなり、イドゥンは愉快そうに笑った。「さすがにそろそろ起こそうと思ってたんだけど………」

「できればそうしてくれたほうが望ましい」

 チュールは自分の日頃の意志とは反対に言う。本当はできればぐっすり眠っていたいところなのだが、イドゥンを守るためにはそうしてはいられない。彼女が家の中にいる夜ならば浅い眠りもとれるが、外へ出て羊や猪の世話をしたり、洗濯物を干したりする、朝は眠ってしまっていては危機に気づかない可能性もあった。

「そうしてって、どっち?」

「起こしてくれたほうが良い」

「あれ、そうなんだ………ふぅん………」一人で頷くイドゥン。「昨日は自分でちゃんと早起きできたのにね」

「ロキがいたからな」チュールは答える。

 昼餉まではまだ少し時間があった。チュールはティーポットに入った茶を自分が使うようになったカップに注ぐ。

 今日も穏やかな日だった。西側ではアースガルドとミッドガルドを繋ぐ三色の虹の橋ビフレストの袂で戦争をアース神族と巨人族が繰り広げているはずだが、この妖精の国沿いの森まではその余波はまったくといっていいほど来ておらず、平和そのものだ。

 自分の存在は本当に無意味なのかもしれない、とチュールは思う。イドゥンが狙われることなどあるのだろうか。それよりはむしろ、戦線に立っているフレイが負傷する可能性のほうが高いだろう。

 大切なものを失い、力を求め、逆に片手を奪われ、そしてここにいる。自分の生きてきた軌跡とはなんだったのか。


「チュールってさ、ロキのこと好きなの?」

 急にイドゥンが訊いてきたので、チュールは茶を噴き出しかけた。気管に液体が入って苦しい。咳き込む。

「だ、大丈夫?」

 とイドゥンが慌てた様子で駆け寄り、小さな手で背中をさすった。「吃驚したぁ、いきなり……どうしたの?」

「いや……」

「で、チュールはロキのこと好きなの?」イドゥンはまた訊いてくる。「昨日もロキのことじっと見てたし……」

「あいつは、巨人族だ」

「そんなの関係ないじゃん。アース神族だって、巨人族だって。わたしだってヴァン神族だよ。でも、チュールは護ってくれてるじゃない。だから、そういうのは関係ないよ。それにフレイだって差別とかしなかったもん」

「あいつは、普通じゃない」

「綺麗だもんね。スタイル良いし。おっぱい、すごいおっきい」

「あいつは巨人族で、しかも向こうを裏切っている」チュールは少し迷ってから言った。「それに、あの狼の母親だ。得体が知れない。あの耳も――翼もだ」


 ロキがフェンリルの母親であることは、トールなど一部の鈍いものを除いてアース神族の上級神ならだいたいは知っている。ヴァン神族でも、指導者の娘であるイドゥンなら知っているだろう。チュールは歯に布を着せなかった。

 ロキの異常性は、狼の母親であることだけではない。彼女には他の神々にはない、対の翼が背中についている。神々の身体に鳥のような羽の生えている生物が他にいるだろうか。彼女はそれを鳥が飛ぶようにではなく、ふわりと、身体が軽くなったかのように飛ぶ。

 ときには魅せられることもあるかもしれない。しかし決して入れ込むべき対象ではない。チュールはそう確信していた。


「可愛いじゃない。天使みたいで」とイドゥンが言い返す。

「天使だ? なんだ、そりゃ。いいか、あれは普通じゃないんだ」チュールはこれからの護衛をやりやすくするためのつもりで言った。「できるだけ、昨日みたいなことはないほうが良い。あんたは大事な人物なんだから」

「そういう虐めって良くないよ?」イドゥンは首を傾げる。「ロキはもう友達だし」

「普通じゃない」

「普通じゃなくても良いじゃない」

 いつの間にかイドゥンはその小さな顔をチュールから椅子ごと背け、薄い背中で相対していた。表情は見えない。その黒い瞳も。泣いているのか。いや、そんなはずがないだろう。肩は震えていない。声も。水の滴ひとつ垂れていない。そもそもチュールはイドゥンを刺激するようなことを言った覚えはない。それでも――それでもチュールは謝ることにした。

「すまなかった」

「なにが」

 後頭部越しに聞こえるイドゥンの声は平坦だったが、ここに来て以来、彼女の身体以外で平坦なものはなかった。イドゥンはいつでも喜怒哀楽に富んでいて、だから――。

「言いすぎた」自分でも何を言いすぎたのかわからなかったが、チュールはとにかく謝った。それが事態解決の早道だと思ったからだ。「すまなかった」

 イドゥンの返答は沈黙だった。彼女が沈黙を護り、チュールもそれ以上踏み込むことができないでいたところに玄関のほうから呼び鈴の音が聞こえた。イドゥンは音もなく立ち、グリンブルスティとともに部屋を出て行く。去り際に水が零れ、床に落ちた。小さな水が僅かな染みを作った。茶か。涙かもしれない。チュールはそれを見ていなかった。


 玄関からルーンを感じる。濃いルーンが流出している。同じ形のルーンが二つ、左右対称に並んでいて、そこからの流出が扉を通ってチュールのところまで溢れてきた。

 チュールは剣を抜いて玄関へ向かう。

 開かれた玄関には昨日出て行ったはずのロキがいた。猛禽の翼はいつもより巨大で、鋭く輝いている。目は虚ろで、どこを見ているのか知れない。彼女は瞼を閉じて意識のないらしいイドゥンを抱えている。

 呆然と突っ立った姿勢のままで、まるで無造作に腕を伸ばすかのように片翼がチュールに向かって伸びてきた。チュールは隻腕の剣を振るい翼を叩き落そうとしたが、ロキの翼はまるで金属のように固く、勢いを止められずにチュールは壁に叩きつけられた。床に落ちた剣は、ロキのもう片翼で弾かれた。

(ティルヴィングが――!)

 失敗した。《魔剣ティルヴィング》の魔力を即座に使うべきだった。得体の知れない〈神々の宝物〉なだけ、躊躇したのが失敗した。


 チュールはもう一本の剣を抜いたが、ロキに接近する前に容易く翼に叩き折られた。また吹っ飛ばされ、しかし身体が叩きつけられた場所にはあつらえたようにティルヴィングがあった。手を伸ばす。ロキの翼は目の前に迫っていた。

(まだ死ねない)

 チュールはそう思った。願おうとしたが、果たしてそれが本当に己の願いなのか、自信が持てなかった。だから迷い、言葉にできず、そうしている間に、ロキの翼が――。


 湾曲した剣がロキの翼を叩き落とした。その剣に持ち手はいなかった。剣が独立して動き、翼と戦闘をしている。まるで幻想物語だ。ひとりでに戦う剣だなんて、そんな剣の持ち主はひとりしかいない。

 グリンブルスティの豚のような咆哮が外から聞こえる。あの獣は、己の仕事を為したらしい。

 剣の相手をしているロキに向かって跳びかかったが、翼が何倍にも膨れ上がってチュールの剣劇を阻んだ。宙に浮く剣も叩き落され、その間に滑るように家を飛び出し、飛び去って行く。床に突き刺さっていた剣も後を追うように飛んでいくが、途中で失速して森へと落ちていってしまう。いや、持ち主のところに戻ったのだろうか。


 チュールはティルヴィングを鞘に入れて、外の厩へと駆ける。馬に飛び乗り、ロキが飛んで行った方向へと馬首を向け走り出すと、途中で白馬に乗ったフレイが追い付いてきた。彼の傍らには、先ほど空を飛んでいた湾曲した剣が並行して飛んでいた。フレイの〈神々の宝物〉である《妖剣ユングヴィ》だ。

「イドゥンは?」

 とフレイは強い口調で訊いてきたので、「ロキに攫われた」と事実のみを端的に返す。

「どういうことだ」

「知らん。このまま追う」

 ふたりで全力で馬を走らせたが、鬱蒼とした木々に阻まれて、もはやロキの姿は見えない。目を凝らしても、空の奥深くに濃く、黒く見えるのは低い雲ばかりで、雨と雷が起こっているであろうことだけがわかった。

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