第1.2話 軍神チュール、魔狼の母親に出会うこと

「糞忌々しい犬め」

 軍神チュールはフェンリルの頭を蹴り上げた。


 〈魔狼フェンリル〉は半ば開いた口からはだらしなく紫色の舌と涎と血を流していた。瞳は鼠色に曇ってはいるが、ぎょろぎょろと視界の定まらぬままに動いているのだから、死んではいまい。時折ひくひくと舌や四肢は痙攣させており、狼の心臓を中心に纏わりつく糸が、まるで血管のようにびくびくと波打っている。

 わざわざ真正面から近付くという危険を犯し、結果として右手を食いちぎられるという結果になってまで捕獲に出たのだ。殺してしまっては報酬がもらえないということになっているので、死んでしまっては困る。


 苦労しながら、左手と口で右肩の付け根と手首の切断面のすぐ傍を紐で縛ったが、この程度では手を噛み千切られたことによる出血は止まらない。頭がふらつく。嘔吐感がこみ上げる。フェンリルの口の中にはチュールの食いちぎられた右手があった。口の端からグロテスクな切断面が見えている。チュールはその場で吐いた。吐瀉物を悶える犬の頭に吐きかける。

「糞忌々しい犬め」

 戦う力を求めてこの依頼を受けたというのに、右手を食い千切られることになるとは思っていなかった。利き腕ではないのが不幸中の幸いだ。運ぶ手間を惜しんで、一撃で狼の戦闘力を奪わず、逃がして洞窟まで誘導したのがいけなかった。


 反撃を受けた原因として、依頼者からは、反撃してくることなどない大人しい狼だと聞いていたので油断したというのもあった。ただ図体がでかいだけの犬っころだと思っていたが、少しは骨があったらしい。とはいえ今はその骨も、肉を喰らい血を吸って成長する〈神々の宝物〉、《銀糸グレイプニル》によってぐちゃぐちゃに砕かれてしまっただろうが。砕けるものは砕かれ、吸えるものは吸われ、抉れるものは抉られ――身体の中身を掻き回される痛みに悲鳴をあげてのた打ち回りたほどだろうが、銀糸は魔狼から痛みを訴える自由さえをも奪っていた。

 チュールはもう一度、ただただ口から涎を、瞳から涙を、鼻から血を零すだけの狼の頭を蹴りつけた。満足すると、フェンリルを拘束するために預かった残りふたつの〈宝物〉、《縛鎖ドローミ》と《封錘レージング》を投げつける。

 それぞれの宝物は、ルーン文字で刻まれたその魔法の通りに動いた。巨大な鎖の形をした《縛鎖》は既に骨を砕かれてぐにゃぐにゃになったフェンリルの四肢を、まるで腸詰めでも作るかのようにぐるぐる巻きに固定し、膨れ上がった錘の形の《封錘》は、フェンリルがどんなに動いても外れないようにドローミに絡んだ。

 魔狼を銀糸、縛鎖、封錘で拘束し、アースガルド大草原の洞窟かどこかに閉じ込める。依頼された内容は達成した。これで新たな〈神々の宝物〉が得られる。

 チュールは無理矢理に鼻歌でも奏でたい気分にしようとした。おい、喜べよ、糞犬。おまえでも役に立つんだぞ。


 チュールは最後にもう一度フェンリルを蹴りつけてから、洞窟を出た。自分の乗ってきた馬を探すと、先ほどの狼の咆哮のためか馬は遠くの丘のほうへと行ってしまっていた。

 チュールは右手の人差し指と親指で円を形作って口笛を吹こうと右腕を口の前まで持ってきて、それが不可能になっていることに気付いた。

「糞忌々しい犬め」

 このままでは気が収まらない。チュールは左手で持ってきていた最後の剣を握ると洞窟の中に取って返し、フェンリルの上顎に突き刺す。剣は上顎を貫通し、口内のチュールの右手を貫き、下顎をも通り抜けて魔狼の顎を地面に縫い止めた。

 魔狼は剣を突き刺された瞬間、暴れようとした。どろんとしていた目をかっと見開き、口の端から涎と血を噴出させた。が、可能なのはそこまでだ。今や全身に絡みついた《銀糸グレイプニル》の呪力がフェンリルの身体の自由を奪っている。チュールは魔法の原理を知らないが、魔法の絶対性については問うまでもないと思っている。こいつは一生このままだ。グレイプニルに寄生されたままで身体中から血を噴出させ、だらしなく涎を垂らし、耐えることもできぬ痛みとともに永遠に空も見えない場所で生きていくのだ。愉快なことだ。


 外に出て、左手を唇に近づけて下手糞な笛を吹き、今度こそ馬を呼ぶ。馬は躊躇いがちにチュールに近付いてきた。血塗れになった主人に怯えているのかもしれない。

 チュールは這うようにして馬に跨った。走らせると身体が揺れ、血が漏れた。また吐きそうだ。アースガルドの大草原から住処であるヴァルハラまでの道程は遠く、何度も気を失いそうになった。


 ヴァルハラ。

 第一平面アースガルドのほぼ中央に位置するアース神族の世界、グラズヘイムのほとんどは、その大都市によって占められている。もっとも都市部の機能はアースガルドの中でもより中枢に近い一部であり、ヴァルハラの大部分は神々が住まうための場所ではない。馬に乗り、東方へと近づくにつれて見え始めるのは、石造りの塀だ。もし鳥になって空から俯瞰すれば――あるいはアースガルドを貫く世界樹ミッドガルドの頂上から見下ろせば、ヴァルハラを護る巨大な石塀が、まるでアースガルドを分断しているように見えるだろう。結局、ヴァルハラとは都市そのものではなく、その周囲を護る石塀こそが主なのだ。ヴァン神族――そして巨人族との戦争のための。


 石壁を越えるとまた石壁があり、石壁の先にはまた石壁がある。外側ほど度重なる戦争で打撃を受けているので、石壁を見ればいま自分がヴァルハラのどのあたりにいるかがわかる。奥に進むにつれて家々が増え、商店が並び、道は補整され、アース神族やその奴隷の〈狼被りウーフヘジン〉である人間族の姿がちらほらと見えてくるようになる。ほとんど前を見ずに馬上で這いつくばり馬を進ませるチュールに、人神たちが悪態を吐くのが聞こえる。くそ、どいつだ、いま悪口を言ったのは。ぶち殺してやる。

 視線を持ち上げると、見えてくるのは穂先を天へ向けた槍を組み合わせたような形の複数の建物だ。ヴァラスキャルヴはアース神族首長の住まいであるが、その巨大さゆえ、巨大な槍のような中央棟の周囲にある環のような建物はアース神族の戦士たちが生活する宿舎の機能も持ち合わせている。


 厩舎に馬を入れるのも煩わしく、ほとんど乗り捨てるようにしてヴァラスキャルヴの内門を開ける。現在はヴァン神族との戦争が終結し、比較的平和な状態であるため、戦争時に会議場や宿、訓練場としても使用されるヴァラスキャルヴの館に人神の姿は少ない。しかし医務室には医者くらいならいるはずだ。

 落ちていた木の棒を杖代わりにし、中庭を突っ切ろうとすると、戦場の熱気めいた威圧感を感じた。視線を向けずともわかる、身体の奥底に響くほどの力強い気迫の持ち主は、アース神族軍最強の戦士である雷神トールしかいない。


〈雷神〉は中庭で訓練をしていた。平和なこの時期に結構なことだ。いつも身に着けている重苦しい鎧はないのだが、上半身に何も纏っておらず、巨大な鉄塊で素振りをするたびに汗が飛び散るのだから、むしろ暑苦しい。ただでさえ体調が悪いのに、彼の熱気と汗臭さに当てられると、また嘔吐しそうになる。

 逃げるには遅過ぎ、トールがこちらを目ざとく見つけた。おぉ、チュール、どうした、などと無駄に大きな声をかけて歩み寄ってくる。声がでかい。どうしたじゃない。どうもしていない。いちいち頭に響くので、五月蝿いことこの上ない。


「何やら血生臭い匂いがしていたんだが……、どこぞで事件でもあったのかな」

 トールは暢気にそんなことを言いながら視線をチュールの顔から徐々に動かし、そしてようやく右手首の欠損に気付いた。遅過ぎる。おまえ、どうしたんだ、おい、などと一転して心配そうな表情になる。

「おまえは汗臭い」とチュールは返した。

「あ? なんだ。冗談か。ううむ、余裕があるな。しかしおまえ、よくよく見れば顔色も悪いぞ」

 そう言ってトールは勝手にチュールの右腕を取って傷を見始める。この男はいつも勝手で、それなのに誰よりも強いのだから、苦手だ。

「とりあえず、あんまり動かさないほうが良さそうだな。医者を呼んでくるから、おまえは安静にしてろ」そう言ってトールは駆け出しかけたが、不意に立ち止まると、ヴァラスキャルヴの中庭に植えてある木々のひとつに向かって大声で叫んだ。「ロキ! ちょっとこいつのこと、診ててやってくれ!」


「どうしたの、トール?」

 暢気な声と共に木から降りてきたのは小柄な人影。上背のわりに服で隠せぬほどたわわに実った乳房か、白いむちむちとした太腿か、柔らかそうな亜麻色の髪か、大きな山吹色の瞳か、人によって視線が惹き付けられる部位は大きく異なるだろう。しかし間違いなく言えるのは、兎に角目立つ女だということだ。

 ロキ。

 この女を見るたびに、チュールが目を向けてしまうのは、その小さく薄い背中から生えた、猛禽に似た巨大な翼だ。彼女は巨人族であるが、巨人族にはこんな翼を持つ者は他にはいない。どころか、アース神族にも、ヴァン神族にも、人間族にも、こんな翼を持つ者は他ないのだ。良くも悪くも、自然と惹き付けられる。


 ロキはチュールを見るや否や、さっと顔を曇らせ、口に両手を当てた。びくりと両翼が震える。単純にチュールの傷に驚いたというわけではなかろう。

 ロキはアース神族と敵対する巨人族だ。巨人族といっても、大柄なのは男だけで、女の体格はアース神族と変わらないか、むしろ小柄なくらいであり、事実ロキは小柄である。その身体は、胸なり脚なりは肉付きが良いものの、あどけなさを感じる童顔を手伝って、とても3人の子を産んだようには見えない。

 だがこの女こそ、魔狼フェンリルの母親なのだ。

 ロキの頭に生えるのは、人神とは明らかに異なる、四つ足の獣のような毛に覆われた耳である。これも〈狼の母〉である証左のひとつかもしれない。


「見りゃわかるだろ。医者を呼んでくるからな。すぐ戻ってくる」

 と言って、トールはヴァラスキャルヴの中へと入っていってしまえば、チュールとロキだけがぽつぽつと背の高い果樹が散見される中庭に残された。


 アース神族の首長たるオーディンの愛人であれば、いちおうはアースガルドでの生活を許されてはいるが、基本的にロキはヴァラスキャルヴの中央棟、もっとも高い槍の穂先に閉じ込められている――といっても監禁されているというほどではなく、こうして彼女が塔の外に出ているのはしばしば見かける。それでもヴァラスキャルヴからはほとんど離れないようなので、彼女が縛られているのは身体よりもむしろ心ということだろう。

 チュールがロキを見かけるときはたいていひとりで、たまに誰かと一緒にいるときの相手はアース神族軍の最強の戦士であるトールか、アース神族と友好関係を結んだヴァン神族の首長の息子のフレイくらいであり、他の者はそもそも寄り付かない。化け物の母親であり、巨人族の裏切り者など信用できないというわけだ。迫害されているといってもいい。

 ロキの怯えは、己が疎まれ、蔑まれていることを知っているためだろう。それでも数少ない友人であるトールの頼みがあったからか、あるいは単に負傷したチュールを心配してか、彼女は翼を動かさずに二本の足でそろりそろりと近づくと、白い腕を伸ばしてきた。


「触るな」

 チュールは柔らかそうなその手を振り払った。身体にまでは触れなかったが、ロキは声をあげて尻餅をついた。チュールに対する恐怖に足が竦んでいるのか、立つことすらできずに怯えた瞳を濡らしている。

 犬が舌を出すほどに暑い日であるためか、ロキは上半身こそ薄いケープで隠していたが、下半身は脚の出る涼しげな格好をしていた。あどけない表情ながら子を産んだという事実が淫靡ささえを感じさせ、嗜虐心が沸き起こった。


 チュールはロキの腕を掴み、片手の力だけで引き起こした。力を入れたときに、切れた手首から僅かに血が噴き出て、血が地を汚す。

 驚いた表情で、礼を言おうとでもしたのか小さな口を開きかけたロキだったが、小柄な体躯に似つかわしくない、たわわに実った乳房のひとつをチュールの隻腕で鷲掴みにされると、その表情は凍りついた。愉快だ。


「あの犬は」とチュールは言ってやった。「あの犬は、母さん、母さんって最後まで言っていたぞ」

「犬って………」

 ロキの反応がようやく返ってきた。チュールが手に力を籠めると、乳房がそれに応じて歪んだ。

「おまえが産んだ可愛いわんちゃんだ。どうなったか、見たいだろう? 行ってみろよ。アースガルドの大草原で、身体中鎖だらけの血塗れにしながら待ってるぞ。グレイプニルを使ったから、死んじゃいない。安心しろよ、化け物め」

 信じられないとでも言うかのように、ロキは目を見開いていた。黒目勝ちな瞳に涙が溢れる。


 中庭の扉が勢い良く開いてトールが戻ってくる。ロキはすかさずチュールの手から逃れて駆け出した。トールに何事か言った後、両の足それぞれの爪先で地を蹴り、翼をはためかせて宙に浮き上がり、そのまま飛んでいってしまった。目指すは西。おそらくはアースガルドの大草原だろう。フェンリルが本当にチュールの言うとおりに捕縛されたのかどうか、確かめに行くつもりなのだ。

「おまえ、ロキのこと虐めたんじゃないだろうな」

 呆と〈狼の母〉の去りゆく姿を見送っていると、渋い表情のトールが声をかけてきた。そんなに心配するのなら、ロキを置いていかなければ良かっただろうに。あるいはロキが他のアース神と交流を持ってくれればとでも思ったのかもしれない。アース神族軍最強の〈雷神〉の頭の中はお花畑だ。


 治療のためにやってきたのはエイルという女医で、チュールの右腕の手首から先が失われているのを見るや否や仰天し、ヴァン神族とは休戦になったのにいったい何があったのか、まさか巨人族が急襲してきたのか、などと矢継ぎ早に尋ねてくるのだから堪らない。

 女医だけなら無視もできたが、トールもこの女と同じ質問をぶつけてきたのには敵わなかった。

「で、一体全体、何があったんだ?」

 そのまま無言で場をやり過ごそうかと思っていたが、トールという男はこういうときに扱いづらいのだ。疑問に思えば、それをすぐに口に出して尋ねる性質であり、しかも問えば答えが返ってくると純真に思い込んでいるものだから、その問いを切り抜けるためには曖昧な言葉で茶を濁すなどでは生温く、嘘でも良いから適当な返答を返さねばならない。勿論その返答が虚偽明らかなるものであれば、さらなる厳しい追求が待っている。


 残念ながらチュールは口がそう回る部類ではない。結局、話をすることになってしまった。もっとも、仔細まで、とはいかないが。

「フェンリル狼を捕縛するときに喰われた」

「フェンリル?」と声をあげたのはチュールの手当てをするエイルだった。聞いてはいけない話だと判断したのか、また怒鳴りつけられては叶わないとばかりにすぐに治療へと戻る。

 一方でトールは難しい顔をしていた。「捕縛だと?」

「そうだ」

 トールは険しい表情になる。「捕縛する理由など、ないだろう。あれは大人しい狼だ」

「放置できる強さではなくなった。普通の鎖や鉄球では抑え切れないほどに巨大になったからな」

「だからといって……、誰彼構わず危害を加えるようになったというわけではないだろう。大草原で見たことがあるだけだが、気配に気付けばすぐに逃げるような臆病なやつだったぞ」

 それは相手がおまえだったからだろう、などとはチュールは言い返さなかった。決して体格に劣るわけではない、むしろアース神族としては恵まれた体躯のチュールからしても見上げるような巨体であり、筋骨隆々たるアース神族軍最強の〈雷神〉を見れば、たとえ魔狼であっても尻尾を巻いて逃げ出すものだ。

 代わりにと、チュールは自分の食われた腕を見せた。「これを見て、危害がないと言えるか?」

 ぐぅと唸ってトールは押し黙った。不服ながら、反論できないといった表情だ。

 チュールには、なぜトールがフェンリル狼を庇い立てしようとするのか不思議に思った。トールは優秀な戦士であるが、フェンリル狼がロキの息子であることなど知らないだろう。ロキ自身も、己が化け物の母親であることなど話さないだろうし、彼女の垂れた犬耳とフェンリルの立て耳がそう簡単に結びつけられるわけでもない。でなければ、ロキと親交を持ったりしないはずだ。だから彼は、友人の息子だからフェンリルを庇おうとしているわけではないのだろう。

 つまりは捕らえられた〈魔狼〉を憐れに思っての発言か。あの化け物をに哀れみを零すのか。化け物に憐れみを感じられるのは、この男が誰よりも強いからだ。フェンリルなど、何の脅威にもならないと思っているからだ。


「だが、どうやって………?」

 トールの言葉に、あわやチュールは激昂しかけた。もし片腕が負傷しておらず、エイルに治療されている最中でなければ、トールに掴みかかっていたかもしれない。

 怒りの理由は他でもない、トールが見下していると感じたからだ。〈神々の宝物〉の中でも最高の一品とも名高い《雷槌ミョルニル》を持つこの雷神は、どんな相手でも脅威と思うことはないのだろう。ああ、たとえ相手が巨大な〈魔狼〉だとしても。彼は一方で、自分以外の人神が弱いものだと知っている。見下しているのだ。自分より弱い、取るに足らない存在だと。目の前のチュールのことさえも。だからチュールの戦果に疑問を持つ。

 トールは《雷槌ミョルニル》を持っているからこそ、最強なのだ。ミョルニルがあるからこそ、戦果を立てられるのだ。自分だって相応の宝物さえあれば、この男になど負けはしない。なのに目の前の男は優れた武器を持っているから、優越感でこちらを見下しているのだ。そう思うと怒りに打ち震えずにはいられなかったのだ。


 〈神々の宝物〉。それは一言でいうなれば、この世の物理法則を越えた力を持つ魔法の道具だ。

 たとえばトールの持つ《雷槌ミョルニル》は投げれば真っ直ぐに飛んでいき、どんな晴天の日にでも着弾した場所に雷を落とす。

 アース神族の首長オーディンの《戦槍グングニル》はどんな障害があろうとも狙った場所に突き刺さる。

 ヴァン神族のフレイが持つ《妖剣ユングヴィ》は手に取らずとも自由に戦う不思議な剣だ。

 そしてチュールが魔狼フェンリルに使った《銀糸グレイプニル》は、対象の臓器に絡みつくや血と肉と骨を吸い取り、己の一部としてしまうという恐るべき性質を持っている。


 この不思議な魔力を持つ品々がどのようにして作られたのかは知らないが、その名の通り〈神々の宝物〉の多くはアースガルドに住まう神々たち、特にアース神族らによって所有されている。アース神は数が少なく、肉体に優れるということもないが、この魔法の品々による武力を行使し、様々な侵略戦争に勝ち抜き、同じくアースガルドに住まうヴァン神族に勝利した。一応名目は和睦という形にはなっているが、ほとんどヴァン神族を吸収した形だ。

 そして今度はミッドガルドに住まう巨人族や人間族へと侵略の矛先を向けようとしている。それを可能にするだけの力が〈神々の宝物〉にはある。


 だがチュールはアース神軍にいながら〈神々の宝物〉を持っていなかった。幾らアース親族が宝物の多数を占めているとはいえ、やはり貴重な品々であることは変わらないのだ。

(〈神々の宝物〉さえあればおれだって………!)

 ぎりと歯を噛み、チュールは己を抑えた。負傷したばかりのこの身体で殴りかかっても、勝てるはずがない。


「神々の宝物を使った。ドローミ、レージング、それに銀糸グレイプニルを、だ」と正直に答える。

「グレイプニルを? だがおまえは神々の宝物を……」

「持っていなかった。だがオーディンに譲り受けた。この任は、首長たるオーディンから受けた任だ。彼から譲り受けたのだから、不思議ではあるまい」

「オーディンが?」

 と今度はトールが呆気に取られた顔になった。最強の雷神とて、首長たる〈独眼の主神オーディン〉は怖いか。

「そうだ」

「そんなはずがない」

 あんな大人しい獣のことを捕まえろなんて、あのオーディンが言うはずない。そう言ったトールの表情には曇りひとつなかった。彼がオーディンに心酔しているという噂は本当なのかもしれない。

「大人しいなんてもんじゃない」事実おれは腕を噛み千切られたんだ、とチュールは言ってやった。

「それもおまえが先に手を出したからじゃないのか。怯えて反撃したんだろう」

 想像に過ぎないはずのトールの言葉はいちいち真実を射ているだけ、反論しがたかった。答えあぐねていると、おずおずとした口調で「終わったけど……」と医者のエイルが言った。見れば手首にはしっかと包帯が巻かれていた。


「話は終わりだ」

 チュールは女の手を振り払った。トールたちに背を向けてヴァラスキャルヴの外環の宿舎に戻り、狭い私室の薄汚れた寝台の上に横になれば、それでようやく休むことができた。暑い日が終わる。

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