第1.3話 狼の母ロキ、息子たる魔狼の変わり果てた姿を目にすること

 《羽靴フレスヴェルグ》の爪先で地を叩くことで軽くなったロキは、大きく一度羽ばたいて上空に出た。

 暑い日ながら、上空に出ると三平面の地に張り巡らされた世界樹ユグドラシルの根から離れるにつれ、空気は冷たくなってくる。ロキはケープで腕を隠したまま、ほとんど羽ばたくことなく翼を固定し、猛禽の滑空のようにアースガルド西の大草原を目指す。


 出せる限りの速度で一目散に飛んできたが、西の草原に着いたころには既に太陽が傾き、空気を赤く満たしていた。

(どうしよう………)

 如何にロキが空を飛べるとはいえ、如何にフェンリルが巨大とはいえ、如何に〈神々の宝物〉の魔力を借りられるとはいえ――この広いアースガルドの西の大草原でたったひとりの相手を見つけるのは簡単なことではない。おまけに暑い日は夕立を残していこうとしていた。雲は重苦しい色で、すぐに雨が降ってくるだろうし、悪くすると雷まで鳴り始めるかもしれない。そうなったとしてもフェンリルを探すのを諦めるつもりはないが、空を飛ぶのは困難になるだろう。

(とにかく、探そう)

 考えあぐねた挙句、ロキはこれまでずっとそうだったように愚直に努力をすることにした。早く探してやらねば、どうなるかわからない。


「あの犬は、母さん、母さんって最後まで言っていたぞ」

 チュールの言葉が脳裏に込み上がってくる。フェンリルの苦しみざまについて述べるときの彼の表情は、愉悦に満ちていた。

(グレイプニルを使ったって言ってた………)

 《銀糸グレイプニル》。それは人神を拘束する上ではこれ以上ないほど優秀な〈神々の宝物〉だ。見た目は蜘蛛の糸ほどの太さの、触れればすぐに切れそうな糸の塊でしかない。だがそれが口内などから生物の内側に入るや否や、腹の中に住み着く虫のように這い回り、臓腑に寄生する。

 本当にグレイプニルに寄生されたのであれば、彼の命は保障されるだろう。だが彼の自由は永遠に失われるだろう。宿主から血肉を奪うために命を守るのがグレイプニルだ。


「フェンリル!」

 〈狼の母ロキ〉は声の限り叫んだ。

「どこにいるの、フェンリル!」

 丈の長い草原の中を歩くのは大変だった。常夏の第一平面アースガルドに繁茂する鋭い葉が足に刃を当たり、血の玉が浮かび上がる。しかしチュールに縛られたフェンリルの痛みはこんなものではないだろう。ロキはグレイプニルの魔力と寄生されたときの痛みについては熟知している。

 ヴァラスキャルヴの館で会ったチュールからは、狼の体液のような臭いがした。彼が浴びていた血は自身のものだけではなく、フェンリルの返り血も混じっていた。しかも、かなり大量にだ。

(お願い、フェンリル………!)

 ロキは強く願いながらフェンリルの姿を探す。もしやチュールに騙されたのだろうか、と厭な予感が付き纏ったが、他に手がかりもない。彼の言葉を信じるしかない。

 だんだんと暗くなりつつある草原の中で突如として現われたものがあった。いや、おそらくずっと前からそれはそこにあった。いや、いた、が、まるで岩の塊のようにしか見えなかったので、ロキが気がつかなかっただけだ。

 その像は苔生していた。

 皮膚に付着した苔や垢は層を作り隆起を作り出しているため、それらがまるで皺のように見えてしまい、老人のようにも見える。外套も下袴も髪も元の色がわからぬほど汚れきっていて、ただ腰に差した曲刀だけが薄くなった夕陽を反射し、異様な光を放っている。

「ヘイムダル………」

 ロキを目の前にしても、声をかけても、その男――白きヘイムダルは微動だにしなかった。

 いや、そうではない。〈白きヘイムダル〉は目の前に出現した女に対して反応しているのだということをロキは知っている。ただ彼の時間があまりにも遅いだけで。


「時間の流れが遅い?」

 かつてロキはヘイムダルという男について、独眼の主神オーディンに尋ねてみたことがある。時間の流れが遅いとはどういうことなのか、と。

「そのままの意味さ。彼にとっての時間は、きみにとっての時間よりもずっと長い。だからきみが声をかけたとしても、ヘイムダルはすぐには反応しないだろうし、する必要が無いのさ」

「それって、変なの」

「そうかな? だって、命の長さが違うんだ。時間の感覚が違うのもべつに変なことじゃないさ。もし変だと思うなら、野山を駆ける狼は、人神よりもずっと短い時間しか生きられないぶん、ずっと早い時間の中を生きていて、きみやほかの人神のことを奇妙だと思っているのかもしれないね」


 オーディンとの会話の回想を頭から振って追い出して、ロキはヘイムダルに注目した。彼の背後には、草原の草を薙ぎ倒した跡があった。まるで轍の跡のようだが、これはヘイムダルの歩行跡だろう。彼はゆっくり、ゆっくりと歩みを続けているのだ。そう、かつてロキが彼を見たときには、もっと西方……、アースガルドの西端、虹の架け橋ビフレストの傍に居たはずだ。それなのにいまは東に進み、このアースガルドの大草原まで来ている。彼はどこを目指しているのだろう、とヘイムダルの視線を辿る。その先には長大な防壁しか見えない。彼が目指しているのは、アース神族たちの都であるヴァルハラかもしれない。


 ともあれ、今は彼に構っている暇はない。重要なのは、フェンリルのことだ。

「ヘイムダル……、教えて。フェンリルを見なかった? 大きな、狼。知ってる? お願い。わたしの――わたしの大事な子どもなの」

 ロキはヘイムダルに問いを投げかけた。我ながら馬鹿馬鹿しいと思う。ヘイムダルは長い目で見れば明らかに生きてはいるが、己の周囲の動きに対して何らかの反応を示したのを見た者はいない。だがそれは彼の時間の流れがあまりにも遅いからなのだ。オーディンの言葉が正しければ、彼はロキに比べてあまりにも長い時間をゆっくりと消化しているだけで、これまでは人神たちはそれに付き合おうとしてこなかっただけなのだ。

 ロキは待った。辛抱強く待った。 

 長い時間だった。太陽は沈み、とっぷりと暗くなった頃になって、ようやくヘイムダルの首が動いた。いや、おそらくずっと動いていたのだが、動いたのがわかるようになった。

 彼が向いた方角は、左だ。北か。フェンリルは北の洞窟にいるのか。

 あるいはこれは単に生理的な反応なのかもしれないし、今頃になってロキの出現に驚いた結果の首の動きなのかもしれない。もしかすると、わからない、とでもいうように首を振ろうとしたのかもしれない。

 だがロキにはほかに手掛かりがなかった。

「ありがとう、ヘイムダル」

 ロキは消費した時間を取り戻すために、短く礼を言って素早く羽を広げ、飛び立った。


 北。

 曖昧な、正しいかもわからない情報ではあったが、ロキはすぐにフェンリルがいるであろう場所を見つけることができた。というのも、巨大な洞穴があったのだ。巨人族のお伽噺に出てくる、山ほどの大きさの巨人スクリューミルが入れそうなくらいだから、洞穴というよりは大草原に鎮座する山に穿たれた穴とでも形容するべきかもしれない。

 中は暗かった。目を凝らして、耳を澄まして辺りを探る。息を大きく吸い込むと、洞窟の中から漂ってくる冷たく湿った空気の中に、血の匂いを嗅ぎ取ることができた。

(この中だ………)

 フェンリルがいる。間違いない。匂いでそう確信して、やはり自分は〈狼の母〉だ、とロキは思った。

 如何にも暗くおどろおどろしく、入るのが躊躇われる。

(どうしよう………)

 中に入ってフェンリルを見つけ出せるだろうか。迷って出てこられなくなるのではないか。熊や狼といった野生の動物の寝倉になっているのではないだろうか。ロキは〈狼の母〉にあるまじき躊躇に襲われた。

 とりあえず中を窺ってみようと地に降り立つと、足下が滑ってロキは転んだ。頭に瘤が出来ていないかと確認してみると、手には赤黒いものが付着していた。

(血………!)

 自分の血ではない。転んだだけで、何所も怪我をしてはいなかった。この血は、この血は、冷たい地面に溜まっていたものだ。フェンリルの、血だ。動物の毛のようなものも散乱している。

 匂いでフェンリルが怪我しているのはわかったが、これほどの多量の出血をしているとは思わなかった。こんな、酷い。これでは、死んでしまう。

 もはや躊躇はなかった。松明や燭台の代わりになるようなものはなかったので、ロキはいつも腰に差している短剣ほどの大きさの手斧を引き抜き、両手で握った。ロキの所有する〈神々の宝物〉のひとつ、《炎斧レヴァンティン》である。

 ロキが〈宝物殺し〉の異名を持つ《炎斧レヴァンティン》に魔力――ルーンを注ぎ込むと、斧の刃が徐々に赤熱し、赤く輝き始める。手袋をしていなければ手が爛れてしまうほどの熱は、レヴァンティンがロキのルーンを変換して発生させたものだ。


「この世界には三つの魔法がある」

 そのうちのひとつが魔術である。神々の宝物の素材そのものは他の武具とそう変わらないが、そこに緻密に刻まれた術式が、神々の宝物を魔法の道具足らしめているのだ。術式の多くは使用者のルーンを吸い取って他の物理量に変換するという単純なものだが、中にはもっと複雑な術式が刻印されているものもある。だが複雑なものは限定的な条件下でしか使えず、またルーンのロスも大きい。だから戦争ともなると、《雷槌ミョルニル》のようなより単純なものが大きな効果を発揮する。

 それがロキがかつて聞いた、神々の宝物に関するオーディンの説明だった。

「なぜあなたはそんなことを知っているの?」

 説明を聞いたとき、ロキは自分がそんなふうに尋ねたことを覚えている。オーディンの返答はなく、僅かに微笑んで首を振るだけだったが、ロキにはオーディンこそが〈神々の宝物〉を作ったからなのではないかと思ったことを覚えている。


(オーディンも、昔はあんなに優しかったのに………)

 と、そんなふうに昔を懐かしむとともに現在を嘆く気持ちは、突如として聞こえた唸り声によって一瞬にして吹っ飛んだ。

「フェンリル……!?」

 ロキは走り出したが、途中で地面が急に揺れて転んだ。

 転んだ先には水溜まりのようなものがあり、そのねばねばした液体の中に腕を突っ込んでしまった。濡れたレヴァンティンが液体の水分を蒸発させ、じゅわと音を立てて暗くなる。温度が低くなったため、明かりも消えた。真っ暗になる。

 もう一度レヴァンティンを赤熱させたとき、ロキは水溜りの正体を知った。――フェンリルの涎だ。


 洞窟の奥深くに、フェンリルの姿はあった。

 しかしその姿は、以前にロキが見たときとまったく違っていた。

(なに、これ………?)

 以前のフェンリルはただの狼だった。

 小さくて、可愛くて、自分より身体の小さな兎も狩れないような優しい子だった。


 だが目の前のフェンリルは違った。身体は何倍も大きくなり、うつぶせに寝ているのにロキよりも高さがある。身体からは触手のような糸が無数に伸びており、縫い付けられたような口からは水溜りほどの涎を垂らしている。四肢からは血を流しながら横たわっているのだが、横たわったままでフェンリルが四肢を壁や地に打ち鳴らすたびに、洞窟が震えた。


 〈魔狼〉。


 フェンリルが唸る。身体から伸びる触手が洞窟の天井を何度も何度も突く。天井はどんどん削られていく。いつか星空が見えるようになるのかもしれない。

「フェンリル!」

 ロキは思い切って叫ぶが、彼女の声は狼の咆哮にかき消された。フェンリルはまったく彼女の存在に気づいていないかのようだ。


 ロキは洞窟にへたり込んだ。

 オーディンがロキを愛していないことは知っていた。

 だがフェンリルら子供たちのことも愛していないというのだろうか?

 三人の子のうち、ヘルは第三平面ヘルモードへと突き落とされ、ヨルムンガンドは第二平面ミッドガルドの海に落とされた。残ったフェンリルもこうして縛られている。痛みに苦しみ、孤独に苛まれ、眠ることもできずに長い長い時間を過ごしている。


 ロキはその晩、洞窟の中で一夜を過ごした。

 眠れなかった。フェンリルの苦しみはずっと続いていた。


 朝になってから、洞窟の外に出た。外は晴れていた。

 長いことオーディンの姿を見ていない。早く、早く、オーディンを探さなくては。

 ロキは翼を広げ、飛び立った。洞窟から幼さの残る声が聞こえた。母さん、母さん。

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