犬の一生

山田恭

一、ロキの子どもたちとフェンリルの捕縛

第1.1話 魔狼フェンリル、捕縛されること

「彼らの母親は悪い」とウルドは言いました。

「だが彼らの父親はもっと悪い」とヴェルダンディが言いました。

(K・クロスリィ‐ホランド『北欧神話物語』(青土社)「七 ロキの子供たちとフェンリルの捕縛」より)


 *


 その日はだらりと垂れ下がった犬の舌から涎がぼとぼとと零れ落ちるほどに暑かった。


 野の獣程度であれば身体をすっぽりと隠してしまうほどの丈の草がどこまでも続く広大な大草原は、付着した獣の唾液で眩しく照り輝いていた。そしてその直中を舌をぶらぶらと揺すり、口の端から涎を零しながら、草丈では身を隠すこともできずにひたすら四つ足を動かして駆けている獣がいた。人の身の丈よりも遥かに巨大な犬――否、狼である。


 人の母を持つ〈魔狼〉。名をフェンリルといった。


 これまでフェンリルは自由であり、孤独だった。いや、母と別れるまでは孤独ではなかった。人神じんしんの姿ながら、やはり頭に犬耳、背中に翼という異形の母親ではあったが、獣というほかに表現しようがないフェンリルとは違い、母は美しかった。綺麗で、優しくて、小さくて、可愛らしくて、料理が上手くて、小さくて、おっぱいが大きくて、良い匂いがして、髪はふわふわで、おっぱいもふわふわで、舐めるとくすぐったそうに身を捩って、笑いながらフェンリルの腹や耳の裏を掻いてくれて――。


 鼻先をぶつけた地面は母の胸や髪と違って固く、口の中に入り込んできた土は母のように甘くはなく苦かった。

「やっと止まったか」

 耳に入り込んできた声は、どこか幼さを感じさせる母の可愛らしい声音とはまったく違う、低くて冷たい男の声だった。


(にっ、逃っ、逃げっ……、逃げっ……)

 己が突如として転び、鼻先をぶつけてしまった理由について考えることができず、ただただ背後に迫る恐怖から逃れようと前脚でがりがりと地面を掻く。どうにか立ち上がり、駆け直そうとしたが後ろ足に激痛があり、それでようやくいつの間にか足を怪我していることに気付いた。いや、させられたのか。馬の嘶きが近づいてきていた。

(逃げないとっ!)


 いつかこうなることは予想できていなかったわけではなかった。

 異形の姿であるフェンリルと母は、神々にとって邪魔者だった。

〈世界樹〉ユグドラシルによって支えられている3つの平面のうち、最も高い位置に存在する大地、アースガルドに住まう民族は神と呼ばれている。その神々は、神ではない母やフェンリルを嫌った。

 だから、ただただアースガルドの森の端の小さな家に隠れ住んでいたのだ。だから、何も悪いことなんてしなかったのだ。だから、そっとしておいてくれればよかったのだ。

 それなのに、それなのに、神々はフェンリルと母を疎んだ。やはり異形の姿を持つふたりのきょうだいは、アースガルドの平面そのものからさえも追放されていた。

「ごめん、ごめんね……。お母さんのせいで………」

 同じ寝台で寝ているときに、母が嗚咽と謝罪の言葉とともに涙を浮かべるのを何度も目にしている。そのたびにフェンリルは己の舌でぺろりとその涙を舐めとってやった。涙を舐めてやれるというのが、フェンリルの身体の唯一の利点だった。人の姿なら、顔に舌を近づけることでさえ異常で、許されなかったに違いない。獣の姿だからこそ、容易に近づかせてもらえた。触れさせてくれた。母はまだ目元を赤らめていたが、それでようやく明るい笑顔になり、キスして抱きしめてくれたのを昨日のように思い出せる。


 だから、そう、フェンリルも母も、神々にとっては邪魔者であるはずだったのだ。だが母は第一平面アースガルドの神々によって連れ去られた。母の夫、つまりフェンリルの父を名乗る男によって。

「殺さないだけ、ましだと思え」

 そう言って男は母を連れていこうとした。

 当時、フェンリルは母を守るために、その男に噛み付こうとした。引っ掻いてやろうと思った。だが母に「やめて」と叫ばれたので踏み止まった。当時は思った。母さん、なぜそんな男を庇うのだ。母さん、なぜその男とともに行ってしまうのだ、と――。

 今ならわかる。母はフェンリルを守ろうとしてくれたのだ。


 後ろ脚の激痛に堪えながら、フェンリルは前脚で這った。背後の襲撃者がどんな状態であり、どんなふうに追跡してきているかなんて気にする余裕はなかった。ただ、せめて暗がりでフェンリルの姿を見失ってくれれば、と祈りながら、目の前にあった岩山に穿たれた巨大な洞窟を逃げ場に選んだ。

(こんなに、こんなに大きくなったのに――)

 フェンリルの身体は母と一緒に暮らしていたときよりもずっと成長していた。かつては小さな狼の姿ではあったが、今やその顎を開けば人神の半身を喰らうことができるほど、腕を凪げば骨も肉をも断てるほどに巨大になっていた。

「この身体を、母さんは愛してくれるだろうか」

 水溜まりに映る己の姿を見て、そんな不安に駆られたこともある。昔の、母がいつも優しく撫でてくれた、顔を舐め、香りを嗅ぐのを許してくれた姿ではなくなってしまった。まさに〈魔狼〉だ。いまフェンリルが舌を出せば、母は喰われると思って怯えるのではないか。

「それは、厭だ」

 怖い。フェンリルの姿を見て泣き叫ぶ母親の姿を想像すると、それだけで涙が溢れた。やだ、やだよ、母さん。助ける瞬間のことを夢に見ることもあった。アース神族の兵士を薙ぎ倒し、塔の天辺についに辿り着いたフェンリルを見て、来ないで、と母は叫ぶのだ。化け物、と。そして父に抱きつく。

 そんな光景を夢見て飛び起きることさえあった。


 だが、だが――問題はそれ以前だった。

 フェンリルは弱いのだ。身体がいくら巨大になろうと弱いのだ。どんなに大きく顎を開くことができても、鋭い爪を光らせることができても弱いのだ。戦うのが怖いのだ。戦ったことがないのだ。狩った兎や小鳥を前にしても震えてしまうほど恐がりなのだ。血が怖くて、死が怖いのだ。母を救い出すことなどできないのだ。己を護ることすらできないのだ。それを理解していたからこそ、母はフェンリルを止めたのだ。大人しく父に従ったのだ。

 そしていまも………。


「おい、そろそろ止まれよ」

 低い声と同時に後ろ脚にまたしても激痛が走った。左。右。すると動けなくなった。首を動かして痛みが走る脚を見れば、ナイフが幾つも突き刺さっていて、このうち幾つかは最初に転んだときの痛みを産み出したものであるとわかったが、ナイフにしては明らかに長すぎるものも後ろ足からは突き出していた。いや、縫い止めていた。巨大な長剣が。

 己を殺す刃を目の当たりにし、それが実際に己の身体を貫いているのを見た瞬間、尻のほうからぷすぅと音が鳴って屁が出た。全身が脱力し、前足を投げ出してしまった。するとその前足も剣で貫かれた。まるで磔だ。

「ぎっ」

 いや、胴にまで剣が突き刺され、地面に縫い止められたからには、むしろ百舌の速贄だ。ぎっ、ぎっ、ぎっ。フェンリルは己の喉から奇妙な声が漏れるのを聞いた。

 フェンリルは幼い頃に森で遊んでいて、交易をしていた隊商と遭遇したときのことを思い出した。狼の姿をしたフェンリルは恐れられ、剣を向けられた。あのときは母がその身を晒してフェンリルを庇ってくれた。母さん、母さん、また、助けて。


 眼前に現れたのは可愛らしい母とはまったく違う、精悍な顔をした目つきの悪い男だった。黒い髪は短髪に刈り上げられており、痩せた身体であるが筋肉が程良く付いている。戦いを生業としているアース神族軍の戦士であることは明らかだ。見たことがない顔だったが、フェンリルを追いかけ回し、地面に縫い止めた追跡者であることは間違いない。

 それが――。

 フェンリルの頭が仰け反った。蹴られた。蹴られたのだ。蹴られた拍子に縫い止められた部分の傷が広がり、フェンリルは絶叫した。


「お、生きてるか。生きてるよな。犬コロ。急に黙るなよ。死んだかと思った。おい、口開けよ」

 男の声には抑揚がなく、フェンリルの傷を、痛みを、命を何とも思っていないことは明らかでそれが恐ろしかった。

 命令された通りに口を開く。それだけではなく、吠える。どうだ。おれの口はこんなにでかいのだ。おまえなど簡単に喰ってしまえるのだ。怖いか。怖いだろう。怖いって言え。怖い。怖いよぅ。母さん。助けて。泣きそうだった。いや、もう泣いている。だって、痛いんだ。母さん、母さん。母さん、助けて。

 フェンリルは吼えた。


 母さん、母さん。


 母に逢いたかった。

 母に助けて欲しかった。

 母に撫でて欲しかった。


 母さん、母さん。


 母を助けたかった。

 そのために必死で生きてきた。それなのに、それなのに。悲しく吼えた。絶望し、吼えた。顎を前に突き出し、相手に自分の絶望を知ってもらおうとして吼えた。

 口の中に何かが入ってきて、フェンリルはそれを勢い良く噛み砕いた。目の前に追跡者の顔がある。追跡者の腕はフェンリルの口の中に伸びている。

 フェンリルは自分の口が追跡者の右腕を咥えていることに気づく前に、口を完全に閉じていた。右手が相手の手首から離れ、中から血が噴き出した。


 追跡者は目を見開いていた。怒りに震えていた。フェンリルにはそれが怖く、口を開いて弁明しようとしたが、口を開くことができなかった。

 いつの間にか自分の口に無数の穴が開いていた。細かい穴で、その穴を通って糸が生えている。縫い付けられたように身体が動かない。

 腹の中が熱い。腹が。胃が熱い。胃ではないかもしれない。心臓だろうか。とにかく身体全体が熱かった。剣で突き刺されるのとは、また別の痛みが身体中を支配していた。

 何か口の中に入れられたのだ、と気づく。そのときにフェンリルが顔を前に突き出して口を閉じたから、相手の手を噛み千切ってしまったのだ。何を入れられたのだろう、毒だろうか。

 そのことも怖かったが、目の前に立っている男のほうがもっと恐ろしかった。目を完全に見開き、口を薄く開け、腕を食われた怒りで燃えている。

 恐怖で逃げ出そうとしても、身体は糸で縫いとめられたように痛い。心臓が痛い。相手を傷つけてしまったという心が痛い。


 縫いとめられた無抵抗な身体を男に蹴りつけられ、剣で刺された。

 何度も、何度も。

 何度も、何度も、何度も。

 もし男に腕の負傷がなければもっと長い時間甚振られ続け、殺されていたかもしれないが、しかし怪我の治療のためか男は馬を呼んだ。もう帰ってくれるはずだ。自分は今、どうなっているだろう。まだ生きているのはわかるが、草原を駆けるための四つの足はちゃんとついているのだろうか。「ちょっと違うけれどお揃いだね」と母が言ってくれた、ぴんと立つ耳は千切れてはいないだろうか。

 それを確認したかったが、もはや身体が動かない。今日は暑い日だったが、もうフェンリルの身体は温度を感じなくなっていた。


 母さん、母さん。フェンリルは心の裡で、ただひたすらに母のことを呼び続けた。母さん、母さん。

 母さん、ロキ母さん。


 母さん。

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