第4章
妻が亡くなって一年、一周忌の法要を終えてから、一週間が経ったある日のこと、僕の体に異変が起きた。不眠、気分の落ち込み、早朝覚醒、今まで興味のあった事柄に興味がわかなくなった。食欲不振、集中力が続かないと言ったようなものだ。それがもう二週間も続いている。
「日野、お前、最近なんかおかしくないか?」
「斉藤か。そうでもないよ」
「表情も暗いし。一度さ、精神科で診てもらった方がいいんじゃないか?」
「精神科?」
同期の斉藤に声をかけられた。確かに、いつもの僕なら、素早く反応できるが、今はゆっくりとした反応できないでいた。僕は薄々、自分がうつ病なのではないかと感じてはいた。が、認めたくないという気持ちもあった。僕は、思い切って精神科のクリニックを受診することにした。
「あの、初診なんですが」
「初診の方ですね? 16時からの予約になりますが、よろしいですか?」
「はい」
僕は、精神科クリニックに電話をした。今日の16時の予約だ。僕は、病院に休みを取ると一報を入れた。時間になり、僕は、クリニックに向かった。クリニックは、駅ビルの中にあった。入ってみると、いかにも精神科のクリニックという感じではなかった。患者が顔を合わせることのないように配慮されているのか、待合室の一人がけや二人がけのソファが、電子掲示板を見るような形に並べられている。
「初診の日野ですが」
「こちらに必要事項を書いてお待ちください」
受付で問診票を渡されると、僕は、一人がけのソファに座り、問診票を書いた。書き終えると僕は、受付に問診票を渡し、看護師との事前の面談を済ませ、本棚から漫画を取り出し、それを読んで待っていた。電子掲示板に番号がされるシステムになっていた。少し経って、掲示板を見上げた。僕の番号が表示されていた。僕は、漫画を本棚にしまうと、中待合室に向かった。少し経ち、「日野さん」と呼ばれたので、僕は、診察室に入った。
「日野彰さんですね。どうされました?」
50代ぐらいの医師が穏やかな声で僕に問いかける。僕は、看護師に話したとおりのことを話した。一年前に妻が亡くなり、一周忌の法要を終えたこと、それから、一週間が過ぎたころから、僕に起きた異変のことを事細かく話した。
「うつ病ですね。症状が出て来ていますね、お仕事を休まれた方がいいですね」
医師は、僕にうつ病であることを告げた。何かがおかしいと思っていた、気持ちのモヤモヤが少しだけ楽になったような気がした。
「仕事を続けながら、治療するのは難しいでしょうね」
「日野さんもお医者さんなら、分かりますよね、うつ病には休養が第一であるということは」
「仕事をしていると、気が紛れるような気がするんです」
「日野さんの今のお仕事は、食べて、寝過ぎるぐらい寝ることですよ」
医師に言われ、僕には休養が必要であるということを悟った。医師と少し話をし、僕は、診察室を出た。処方された薬は、抗うつ薬として、フルボキサミンマレイン酸塩25mg錠と吐き気止めのモサプリドクエン酸塩5mg錠、睡眠薬としてブロチゾラム0.25mg錠だ。僕は、会計を済ませると、クリニックを出た。処方箋は、データが既に薬局に送られているとのことだった。僕は、隣にある薬局に立ち寄った。
「こんにちは、こちらに必要事項をご記入の上、お待ちください」
僕は、事務の女性から、液晶タブレットとペンを渡された。タブレットには、問診票が表示されていた。僕は、必要事項をすべて記入し、アンケートに答えると、受付にタブレットとペンを渡した。
「日野さん、お薬の準備ができました」
白衣を着た青年が僕の名前を呼んだ。僕は、3番と書かれているカウンターに行き、座った。
「日野さんのお薬は……」
薬に関する説明と、副作用の説明、飲み忘れたときの対処法などを教えてもらい、会計を済ませると、僕は、薬局を後にした。
「休めと言われても、どうしたらいいものか」
家に着き、薬袋をテーブルの上に置き、ソファに横たわった僕は、ため息をついた。デジタル時計の表示を見ると、17時30分。夕食を取るには、まだ少し早い、僕は、ソファに横たわったまま、ただ、ぼんやりしていた。
「僕は、自分が思うより、紗雪を愛していたんだな」
天井を見つめながら、僕は、自分が思う以上に紗雪を深く愛していたことを思い知らされた。紗雪が亡くなってから、一年、ただただがむしゃらに動いていた。うつ病だと気づく前、時々、僕は、紗雪の夢を見た。笑顔、泣き顔、怒った顔、すべてが愛おしい。一緒にいた日々、苦しいときもあった、悲しいときもあった、それでも僕は、紗雪を愛していた。そのことが思い出され、僕の目からは涙があふれていた。
「ん……」
いつの間にか眠っていたのだろうか。僕は、目を覚ました。時計を見ると、19時になっていた。、僕は、冷凍庫に入っていた作り置きのおかずとご飯で食事を済ませ、薬を飲んだ。食事をしても、味を感じない。砂を噛むようなといった感じだった。うつ病と診断された翌日、僕は、病院に診断書と休暇願を出した。薬を飲み始めてから2~3日経って、ふらつきが出るようになった。これは、いきなり立ち上がらず、壁に手をついて歩くと言うことで解決はできている。味覚に異常が出たため、薬局に相談をしたら、時々ある副作用とのことで、薬が体になじんだら、楽になると教えてもらった。実際にそうだった。飲み始めて一週間ぐらい経ったある日のこと、味覚も正常になり、ふらつきも楽になり、不安や落ち込みも徐々にではあるが、軽くなっていた。
「日野さん、調子はどうですか?」
「そうですね、気分の落ち込みや、不安は軽くなってきたように思います」
「夜はよく眠れていますか?」
「はい、いただいた睡眠薬のおかげでよく眠れています。が、寝付くのに少し時間がかかるような気がします」
二週間目の診察。僕は、診察室で先生と面談をした。僕は、この二週間、感じたことを先生に話をした。
「寝付きが悪いと言うことですか?」
「はい」
「朝早く目が覚めてしまうと言うことは?」
「それはないです。ブロチゾラムでぐっすり眠れています」
「では、寝付きをよくするお薬を追加しますね。うつのお薬は、もう少し、この容量で続けていきましょう」
僕は、先生にお礼を言うと、診察室を出た。会計は診察室を出てすぐの所にある。会計を済ませると僕は、薬局へ向かった。処方箋は、すでにデータが薬局に送られている。
「日野さん、お待たせいたしました。お薬が追加になっているようですが」
「はい、寝付くのに時間がかかると言うことで、追加になりました」
「こちらのゾルピデムと言うお薬は寝付きをよくするお薬となります。寝る前に服用してください。ブロチゾラムと一緒に服用していただいて大丈夫ですよ」
薬局で会計を済ませると僕は、薬局を出た。帰り際に、駅ビル内にあるカフェでお茶をすることにした。紗雪の好きだったアップルパイとエスプレッソのダブル。
「久しぶりにこんなにゆっくりした時間を過ごせたな」
相談に行った一週間目は、気分も悪く、カフェでお茶をする余裕すらなかった。が、薬が体になじみ、効き目が確実になった今は、こうして、カフェに立ち寄るようにもなれていた。薬を150mgまで増量し、症状が安定したのは、うつ病になってから、半年が過ぎていた。そのころから、僕は、焦りの罠に落ちかけていた。
「先生、早く、仕事に出られる方法はありませんか?焦りは禁物です。うつ病の回復には個人差があります」
「リワークプログラムを行うにしても、日野さんは、まだ少し早いかもしれません」
僕は、診察の度に先生に職場復帰をしたいと申し出た。うつ病を克服した人のブログを見たりするようになると、大体、三か月から半年で職場復帰をしている人が多いことを知り、同期に後れをとっているのではないかという思いが、僕に焦りを呼び起こさせていた。
「先生、僕、臨床医から監察医になろうかと思っています」
うつ病になってから、もうすぐ一年になろうとしているある日のこと、僕は、カウンセリングを受けていた。カウンセリングを受けている中で、僕は、僕のように死因が分からないまま大切な人を見送る切なさや辛さを味わって欲しくないと思うようになっていた。
「法医学ですか?」
「はい、僕のように死因が分からないまま、大切な人を見送る辛さを味わって欲しくないんです」
「そちらの道を歩かれますか、僕はいいとおもいますよ。回復の兆しが見えてきましたね、ただ、もう一年お薬を飲んでいただいて、それからになりますよ」
「はい」
「お疲れ様でした」
「お世話になりました」
「監察医の道を進みますか」
「僕のように、『なぜ、彼女は死んだのか』とずっと答えのない問いを探し続けて、悲しい思いをする人を少しでも減らしたいんです」
それから、一年後、僕は、勤めていた病院に退職届を出した。ささやかではあったが、送別会が行われた。新東京大学の法医学教室で経験を積み、監察医になった。僕は、新東京大学の法医学教室の教授から、新東京都監察医務センターを紹介され、そちらに勤めることになった。今は、解剖医や監察医、臨床医に格差がなくなり。給与水準も勤務医時代とさほど変わらないものとなっていた。
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