第3章

 僕には妻がいた。僕が結婚したのは、今から11年前、2034年4月15日。僕が35歳。妻が、30歳の時だった。彼女は僕が外科医として勤務している病院で看護師をしていた。一緒に仕事をしていく内に、お互いに惹かれ合い、結婚に至った。結婚生活はとても穏やかであった。そんな穏やかな生活にある日突然、事件が起きた。2038年6月20日、妻の体に紫斑しはんを見つけた。妻に尋ねると、どこにもぶつけた覚えがないとのことだった。6月25日、家の近くにある市民病院の血液内科を受診し、特発性血小板減少性紫斑病と診断され、入院治療が始まった。特発性血小板減少性紫斑病は今現在も難病として指定されており、公費での治療が可能である。

紗雪さゆき、調子はどう?」

「ちょっと微熱があるけれど、それ以外は問題ないわ」

「そうか、よかった」

「明日、ピロリ菌の検査をすることになったの」

 僕は、休みの日のたびに、妻の病室を訪れた。他愛もない会話を交わし、面会時間終了5分前まで、病院にいた。家事は僕自身できる方だったので、部屋の掃除や食事の支度、洗濯などに関しては問題なくできている。これが、僕と妻の最後の会話となった。

「日野先生、市民病院の清水です。奥様がピロリ菌の検査の際、過呼吸を起こし、意識不明になりました」

 6月26日。医局の電話が鳴った。電話は、妻の入院している病院からだった。ピロリ菌の有無を調べるために呼気検査を行った際、妻が過呼吸を起こし、意識を失った。僕は、勤務中にその連絡を受け、病院に駆けつけた。

「先生、妻はどうしてこのような状態になったのですか?」

「分かりません。詳しい検査をしたところ、病名が、特発性血小板減少性紫斑病から血栓性血小板減少性紫斑病となりました」

 特発性血小板減少性紫斑病とは、血液中にある血球の内、血小板だけが著しく減少する病気である。体の中の免疫が血小板を敵として攻撃してしまうことにより、起きる病気である。血栓性血小板減少性紫斑病とは、全身の細血管、毛細血管の内側で、なんらかの異常が起こって血栓ができ、この血栓の形成によって血小板が多量に消費され、血小板が減少しておこる極めてまれな病気である。

「治療法としては、血漿交換けっしょうこうかんと輸血です。この治療で改善が見られない場合は、ステロイドパルス療法を行います」

「わかりました。お願いします」

 僕は、妻のいる病室に入った。体には、ありとあらゆる管がつながれていた。

「紗雪……」

 僕は、心拍モニター、輸液ポンプ、輸血、尿管カテーテル、指先にはパルスオキシメータが付けられていた。そんな妻の姿になんとも言えない切なさを覚えた。翌日から、僕は、病院を休み、妻のそばにいた。一度、意識が戻り、僕が問いかけると、うっすらと目を開け、うなずいてくれた。それだけでも僕はうれしかった。泊まり込んで2~3日後、病院の先生から、お疲れでしょうから一度、帰ってご自宅でゆっくりと休んでくださいと言われたので、その言葉に甘え、僕は、一度、自宅に戻ることにした。

「本日から、ステロイドパルス療法を行います」

 翌日、先生から、そう言われ、僕は、承諾した。ステロイドパルス療法とは、メチルプレドニゾロンを500 mg~1000 mgの点滴を三日間行う治療である。これで意識が戻らなければ、2019年に保険適用となっているリツキシマブを使うことになる。僕は三日間、妻の治療に立ち会った。帰りに一緒によく通ったカフェで、妻が好きだったエスプレッソのダブルを頼み、砂糖を少し入れて飲んだ。あの日が、僕と妻が過ごした最後の時間になるとは、思ってもいなかった。

 翌日、僕が、妻の病室に見舞いに行くと、妻のベッドがなかった。病室に入ると、ベッドサイドにある金属のトレイを見た。ジアゼパムのアンプルと注射器が残されていた。

「あの、すいません」

「どうかしましたか?」

「307号室の日野紗雪の夫ですが、妻は今どこに?」

「日野さんですか? 今、CT室にいますよ。けいれんが起きたので、その要因を調べるために」

「そうですか、ありがとうございます」

 通りがかった看護師に僕は妻がいない理由を尋ねた。看護師からの答えに、僕は、ジアゼパムのアンプルと注射器があることに納得した。しばらく病室の前で待っていると、妻が戻ってきた。

「容態も安定してきていますので、お帰りいただいても大丈夫ですよ」

 主治医の言葉に、僕は、家に戻ることにした。帰って、部屋の掃除や片付け、洗濯、食事を作った。風呂にも入り、さあ寝ようと思った深夜二時、携帯端末が鳴った。発信者を見ると、妻の入院している病院だった。

「はい」

「日野さんですか? 市民病院の清水です。奥さんの容態が急変しました」

「分かりました。すぐ向かいます」

 言葉が出なくなった。僕は慌てて、パジャマから着替えると、車を飛ばし、病院へと向かった。が、既に妻は亡くなっていた。

「午前2時30分、死亡確認いたしました」

「ありがとうございました」

 僕は、主治医に一礼すると、エンゼルケアを施された妻の姿を見た。エンゼルケアとは、亡くなった人に行う、死後処置および死に化粧の総称である。妻の顔はとても穏やかで、眠っているようにしか見えなかった。

「紗雪……」

 僕は、病室で嗚咽を漏らした。妻の死因は何だったんだろうか。あの時、リツキシマブを提案できなかった自分にわずかな怒りがこみ上げた。

「先生、妻に病理解剖をしてはいただけませんでしょうか」

 僕は、主治医の先生に病理解剖を申し出た。主治医は驚いたような、少しむっとしたような顔で僕を見た。

「かまいませんが、死因が明らかになるまでには、時間がかかりますよ。解剖自体には、時間もかかりませんし、ご遺体も解剖が終了次第、お返しできますが、ただ、当院では、病理解剖を行ってはいませんので、他の病院に回すことになります」

「僕は、真実が知りたいんです。妻がなぜ死んだのか」

「結果がわたしの元に届くまでに一ヶ月はかかります」

 僕は、少し考えた。このまま荼毘に付して、綺麗なままで天国へと旅立たせるべきなのか、僕のエゴで、体に傷跡を残したまま、荼毘だびに付させてまでも、真実を追究するのが正しいことなのか。僕は、病理解剖をやめ、妻を綺麗な体のまま、旅立たせることを選んだ。妻の葬儀は、梅雨の晴れ間に行われた。雲一つない青い空が悲しい程綺麗だった。弔問客は妻の性格を知っているかのように、賑やかに妻を送ってくれた。

 妻の葬儀を終え、僕は、香典返し、遺品整理に時間を費やした。僕の体と心に異変が起きるのは、それから一年程経った後のことだった。

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