第2章

 僕は、日々忙しく、検案や行政解剖に動いていた。検案し、事件性のありそうなご遺体が一体あり、僕は、法医学センターに連絡し、司法解剖室へご遺体を搬送した。

「腕にあざがあったのが気になって、乃木にCTで見てもらったら、骨折の跡があって、事件性のありそうなご遺体だったとはな」

「ああ、驚いたよ、お前から、虐待されていたか何かあったかもしれない。CTを撮ってくれって言われたときには驚いたよ」

「悪い。体のあちこちにあざがあったから、気になって」

「いや、事件性の有無とかも調べるのが俺たち仕事でもあるしな」

 休憩室で乃木と僕は、コーヒー片手にデジタルサイネージに流れるネットニュースを見ていた。

「あ、そういえば、来週、病理解剖で第一解剖室を使わせてほしいって、連絡が来てたぜ」

「病理解剖か? 珍しいな」

 病理解剖とは、病気で亡くなった人を対象として、臨床診断が問題なかったかどうか、治療の効果の判定などを目的とした解剖である。病院の病理診断部は、病理診断に特化し、病理解剖を行うに際しては、この法医学センターの解剖室が使われる。

「どこの病院だよ」

「新東京大学付属病院」

「ってことは、あいつがくるのか?」

「ちょっと、何よ、失礼しちゃうわね」

「長沢」

「久しぶりだな。長沢」

「久しぶり、日野君、乃木君」

 振り返ると、小柄で髪の長い女性が立っていた。彼女の名は、長沢千晶、僕と乃木の大学の同期で、病理医を目指して医学部に入り、病理医への道をまっすぐに歩いていた。彼女の地頭の良さと手先の器用さ、容姿、人当たりの良さを考えたら、臨床の現場を選んでもなんらおかしくはないのに、縁の下の力持ちとも取れる病理医を選んだ。これは、僕たちが卒業した横浜市大学医学部の七不思議に数えられている。飲み会の時、彼女に聞いてみたことがある。長沢は「病理と臨床って、どっちも必要だと思うの。わたしは、自分が表に出るより、縁の下の力持ちでいたいんだ」とあっけらかんと言った。今では、男女問わず病理医の道を選ぶこともさほど珍しいことではないが、僕たちが大学に入った頃は、まだ珍しい部類に入っている。

「第一解剖室を使って病理解剖するのって、長沢、お前なのか」

「そ、わたし。ほかの先生たち、病理検査で手一杯だから」

「|AI全盛のご時世でか?」

「病理検査だけはどうしても人の目で見ないとね。AIで誤診トラブルなんかもあったし。だから、AIに頼りすぎないで自分の目で見ることも大事なんだよね」

「そうだったな、でも、病理医って増えたよな」

「そうね。病理専門医の認定を受けるには、件数をこなさないといけないんだけどね。わたしが目指しているのは、病理医のジェネラリストだから」

「全般的に診られる病理医か」

「そ、あ、ミルク少しと、お砂糖少し、覚えててくれてるんだ」

 僕は、長沢にコーヒーの入ったカップを渡した。長沢は、ソファに座ると、コーヒーを飲んだ。病理医になるには、医師免許を取得し、日本病理学会と呼ばれる団体が認定する研修施設で、3~4年病理学研修を受け、専門医試験を受けて、合格して初めて、病理専門医となる。

「ねえ、日野君」

「ん?」

「奥さん、七回忌だったっけ?」

「ああ」

「今でも、悩んでる?」

「ああ、でも、あの時、僕が選んだ答えは、あれで正しかったのかもしれないし。確かに、病理解剖をすれば、時間はかかるけれど、死因が分かった。ただ」

「ただ、何?」

「それは医師としての僕の判断だ。夫としては、綺麗な体のまま荼毘だびに付してやりたい思いもある。今でも、あの時の僕の決断が正しかったかどうか、分からない」

 僕は、コーヒーを飲み干した。僕と長沢、日野の間に、わずかに重い空気が流れた。

「長沢先生、解剖準備が整いました」

「はい」

 長沢は「じゃあ、行ってくるね」と言うと、解剖室に向かっていった。僕は、電子タバコを吸うべく、屋上にある、喫煙室に向かった。

「七年か、そんなになるんだな」

 メンソールフレーバーのポッドを本体に射し込むと、僕は、深く吸った。メンソール特有のすっとした空気が口の中に広がる。

「あの時の僕の選択と決断は、本当に正しかったのだろうか」

 僕は、ぼんやりと7年前のことを思い出していた。

「七年か、あっという間だな。」

煙を吐き出す。煙と言っても水蒸気なので、すぐに消えてしまう。二、三口吸うと、僕は、喫煙室を出た。

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