夕立の非常階段

2-1.

 ゴロゴロと外の雨雲が不機嫌な音を立てる中、俺がノートPCと睨み合っていると、傍らに置いていたスマートフォンが不意に震えた。天気予報アプリの通知かと思って無視しようとしたが、二度、三度と震える。電話だ。

 俺は電話が対面よりも更に苦手なので、恐る恐る画面を覗く。

 表示されている名前を見て安心し、俺はスピーカーフォンのボタンをタップした。

「……もしもし」

『もしもし、春日原です』

春の事件の後に、半ば強引に押し切られる形で連絡先を交換して以来、彼は度々俺に連絡を寄越していた。同じ職場に勤める俺の悪友から住所を聞き、家にも訪ねてくるようになった。ホイホイと他人に個人情報を教える悪友は、いつか絞める。

 まあ、春日原については、近所のスーパーが特売をやっていたからという理由で夕飯を作りに来たり、仕事の資料集めを勝手に手伝ってくれたりと、俺の邪魔になることはしない。むしろ助かっているので、電話にも出ることにしている。

「……どうしたの」

キーボードを叩きながら、要件を促す。また夕飯でも持ってきてくれるのだろうか。

 しかし、

『すみません、歌ヶ江さん、これから外に出られるお時間ありますか?』

春日原は、何かから隠れるように声のトーンを落とし、ひそひそと言った。

「うん……、急ぎの仕事はないけど……」

『ちょっと困ってるんです。今から送る地図の場所まで、来てもらえないでしょうか』

嫌な予感はしたが、一方的に施されるばかりなのも気が引けていたところだ。

「……変な勧誘以外なら、いいよ」

優しく親切に近づいてきて信頼関係を築いたところで、逃げられない場所に呼び出して得体の知れない組織に入会させようとしてくるという、学生時代に引っかかりそうになった手口を思い出す。

『そんなことしませんよォ』

アハハと電話口で軽快に笑う声がする。根拠はないが、春日原は何かに傾倒するようなタイプではない気がするので、大丈夫か。仕事のデータを保存して立ち上がった。


*****


 外に出た瞬間雨音が強まり、全身にねっとりとした湿気がまとわりついた。思わず眉をひそめる。梅雨が明けてから久しぶりの雨だが、天気にも加減というものを知ってもらいたい。


 傘を差して出かけたものの、着く頃には雨は止んでいた。

 春日原から送られてきた地図に書かれていたのは、浮草大学から徒歩五分ほどのところにある、学生向けマンションだった。壁に雨垂れの染みがついた、古めかしい七階建て。

 もちろん、来て早々に俺は後悔した。


 まず、マンション前の歩道が補修工事中で、むき出しの土に雨が降りべちゃべちゃだったのだ。靴が見事に汚れた。

「……」

それだけでもテンションが下がるのに、マンションの前にはパトカーと警察官と野次馬。駐車場には黄色の立ち入り禁止ロープ。そして非常階段の下には、青いビニールシート。

「……」

間違いなくこの建物に春日原がいるのだろうという妙な確信を持ちつつも、念のため送られてきた地図を再確認する。残念なことに、マンションの名前まで一致してしまった。

 状況を確認するため、春日原に電話をかける。後から気付いたのだが、俺から春日原に連絡したのは、この時が初めてだった。

『あ、歌ヶ江さん。着きました?』

春日原の暢気な声が、現場の物々しい状況と噛み合わない。彼は慌てたり不安になったりすることがあるのだろうか。

「……何が起きたの……」

『転落事故、だそうです。今のところは』

不穏な下の句を付けるんじゃない。

『警察の方から、しばらく外に出ないよう言いつけられてしまって……。中には入れるそうなので、七階まで上がってきてもらえませんか。七○二号室にいます』

まさか、このオートロックすら付いていない学生向けマンションに住んでいるのだろうか。いや、セキュリティに関しては、俺の住んでいるアパートとそう変わらないけれども。


 野次馬の脇をすり抜け、エレベーターで七階へ。くぐもった電子音と共に、コンクリートの廊下に降りた。

 エレベーターの正面は七○三号室。どうやら、一フロアに五部屋しかないようだ。この規模だと、部屋自体はワンルームか1Kくらいだろう。

 七○二号室は、と廊下を端まで見渡すと、非常階段に一番近い部屋の前に、見覚えのある顔があった。

「あれ! 歌ヶ江さん?」

エレベーターの音を聞いて振り返った飯島刑事が、驚いた顔をしていた。

「どうしてこんなところに」

駆け寄ってきた飯島刑事は、何かを期待するような半笑いで見上げてくる。まさか、また事件を解決して欲しいとでも思っているのだろうか。

「……春日原から、連絡が」

「ああ、春日原くんは七○二号室で待機していただいています。たまたま、お仕事で来ていたそうで」

なるほど、便利屋の仕事。ハウスクリーニングか引っ越しの手伝いか、といったところか。

「……事故って、聞いたんですけど……」

「正直に申し上げますと、まだ事故なのか自殺なのか、はっきりしていないんです」

飯島刑事は困った様子で、にゃはは、と力なく笑った。

「住人の殆どが近隣の学校に通う学生なものですから、まだあまり帰宅していなくて。夕立のせいで目撃者も少なく、在宅していた居住者数名と、偶然居合わせた春日原くんの証言が頼みの綱といいますか……」

そういう事情で、春日原を帰すわけにはいかなくなってしまったらしい。

 立ち話をしていると、背後で鉄製の扉の開く音がした。

「歌ヶ江さん、来てくれたんですね」

警察関係者がいたのとは逆側の、奥から二番目の扉から、春日原が出てきた。今日は淡い水色のポロシャツにスキニージーンズという、地味な格好だ。両手にはパンパンに膨れたゴミ袋を持っている。

「すみません、ゴミを出してきてもいいですか?」

「ええ、それくらいなら構いませんが……。こんな時でも、お仕事されてたんですね」

「お金は前払いで頂いてますからねェ。待機している間、することもありませんし」

床に置いたゴミ袋を持ち上げ、その片方を滑らかに俺に押しつけると、

「歌ヶ江さんもついてきてください」

春日原はにこーっと嬉しそうに笑い、俺が今し方乗ってきたエレベーターに、さっさと乗り込んだ。

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