2-2.
エレベーターの扉が閉まるなり、春日原は喋り出した。
「事件が起きたのは、三十分くらい前のことです。亡くなったのは、七○五号室に住んでいた浮草大学の学生さん。名前は今井さんと仰るそうです」
七○五号室というと、先ほど飯島刑事たちが立っていた側の部屋だ。話すうちにエレベーターは一階に着き、歩きながら更に続ける。
「死因は、高所から転落した際に頭を強く打ったことによる、脳挫傷の可能性が高いと聞きました。警察は、事故か自殺と見ているようですね。倒れていたのが非常階段の側だったので、足を滑らせたか自分で乗り越えたのではなかろうか、という感じでした」
「……春日原は、違うと思ってる?」
警察は、という言い方は、自分とは見解が異なると言っているように聞こえた。
「うーん、わざわざあの雨の中、非常階段に行く理由がわからないんですよね。……飛び降りるなら、ベランダでいいじゃないですか」
不謹慎なことを話しながら野次馬の脇を再び横切り、歩道沿いのゴミ収集所へ。警察車両が出入りするため補修工事は再開できないようで、撤収作業が行われていた。
「その時間に在宅していた他の方の話が聞ければ、何かわかるかもしれませんが……。何しろ、僕は一般市民ですから」
飯島刑事から上手いこと聞き出したのだろうが、一般市民がよくも、事件から三十分足らずでそこまでの情報を仕入れたものだ。
「……ところで……。どうして俺を呼んだの……」
まさか掃除の手伝いをさせるためではあるまい。
「実は、この後もう一件仕事が入ってるんです。早く帰らないといけないんですよ」
しかも、わざわざ春日原を指名してくる馴染みの客だという。愛想が良いので、スタッフの指名ランキングでも上位にいるらしい。自分で言うか。
「僕が早く帰れるように、歌ヶ江さんに協力してもらおうと思って」
そんなことを言って、勧誘よりもよほどたちの悪い男は、ニヤリと笑ってみせたのだった。
*****
七階に戻ると、廊下に人が増えていた。厳めしい顔でスーツのシャツを腕まくりした男性と、他数人。
「あんた、死神か何かか」
久しぶりに会った権藤刑事は、相変わらず眉間に皺を寄せていた。
「権藤さん、会って早々に失礼なこと言わないでください!」
開口一番にぶつけられた質問に、飯島刑事が慌てる。
「歌ヶ江さんは、僕が呼んだだけですよォ。人死にに出会う頻度で言えば、僕のほうが死神に向いてると思いますね」
冗談でもないことを言うな。
「いつの間に、身元引受人になるほど仲良くなったんだ、あんたら」
「春の事件がご縁になったそうですよ」
答えるのは飯島刑事。
「チッ、ろくでもねえご縁もあったもんだ」
全くだ。
「お前も、いつの間にそんなこと聞いた」
「暑くなる前に、実家の倉庫の掃除をお願いしたんです」
「しっかり営業されやがって」
権藤刑事は、もはや怒りを通り越して呆れていた。
「もしかしてそちらの皆さんが、事故が起きた時にマンションにいた方たちですか?」
「はい、そうですが」
刑事と親しげにしている謎の少年を怪訝そうに見ていた人々が、警戒心を滲ませたまま会釈する。
「と言うか、結局、事故だったんでしょうか」
「その可能性が高くなりました。部屋にも遺書みたいなものはありませんでしたし」
「じゃあ、僕ももう帰れますね」
俺が春日原の企てに協力させられることはなさそうだ、と安心したのも束の間、権藤刑事の顔は浮かない。
「? 権藤刑事、どうしたんです」
「……いや……」
煮え切らない態度の権藤刑事の隣で、飯島刑事が言う。
「転落現場が、まだハッキリしないんです」
「お前はまた勝手に」
声を遮り、春日原が食い気味に訊ねた。
「非常階段の踊り場じゃないんですか?」
「おそらくそうだとは思うんですが……」
「だから、四階ですって!」
急に、手にビニール傘を持った男が、飯島刑事に唾を飛ばしながら吠えた。肉のない体に痩けた頬、重い一重の目に分厚い眼鏡を掛けていて、学生と言うには少々老けて見える。
「刑事さん、さっきから言ってるじゃないですか! こいつが犯人だって!」
飯島刑事はほんの少しだけ顔に嫌悪感を滲ませ、一歩後ろに下がった。
「国枝さん、落ち着いてください」
国枝と呼ばれた男は、あまり身嗜みに気を遣うタイプではないらしい。シャツには皺が寄り、色あせたジーンズは丈が合っておらず、擦り切れた裾を引きずっている。元は白かったはずのスニーカーもぼろぼろだ。――春日原の影響で、初対面の人間の服装を観察するようになってしまった。
「いちいち俺たちを連れ回して確認なんかしなくても、人が落ちてきた時、こいつが四階の踊り場から見下ろしてたんですよ! こいつが突き落としたんだ!」
国枝の興奮状態は、尚も収まらない。どうやら、彼が遺体の第一発見者のようだ。
「何もしてないって言ってるだろ!」
こいつ呼ばわりされたのは、まだらな茶髪を一つ結びにした青年だった。タンクトップにぶかぶかのジーンズ、足元はビーチサンダル。国枝と対照的に童顔だ。春日原には劣るが。
「非常階段にいたのは本当だけどさ。外で変な音がしたから、様子を見に行っただけだし」
腰で穿いているジーンズが濡れているようで、腿に張り付く布を不快そうにつまんで剥がしている。
「伊崎さんの部屋は、四○一号室でしたよね。非常階段から離れているようですが……。あの雨の中、わざわざ?」
訝しむように、上目遣いで顔を覗き込む飯島刑事。
「ちょうど帰ってきたばっかりで、ドアも開けっぱなしだったから。遠いつっても、大した距離じゃないじゃん」
そのまま騒ぎに巻き込まれ、雨で濡れたジーンズを着替え損ねたようだった。一応最重要容疑者となるため、あちこち連れ回されていたのかもしれない。
そしてもう一人。
「村岡さんは、この階の一号室にお住まいでしたよね。そのような音は聞きましたか?」
「ヘッドホンで音楽聴いてたんで、外の音は全然」
村岡は、健康的に日焼けした体育会系の男だった。首も腕もがっしりと太く、俺や国枝くらいなら簡単に折ってしまいそうな、逞しい青年だ。しかし、その右足はギプスで固定され、松葉杖を突いている。本人がずっと部屋にいたと言う通り、厚い胸板がわかるTシャツとスウェット地のハーフパンツは、完全に部屋着のそれだ。
「足、どうされたんですか?」
一瞬静かだった春日原が、ちゃっかり口を挟み、権藤刑事が睨んだ。
「部活の練習中に折っちゃって。全治六週間」
村岡はうんざりした様子で、短い茶髪をぐりぐりと掻いた。
この三人が、当時マンションにいた人間らしい。そして四人目、春日原を見ると、口元にいつも通りの何を考えているかわからない微笑みを浮かべ、三人をじっと見ていた。
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