四月六日-午後零時十五分・昼休み-


 …煙い…。

 故郷のお父さん、お母さん、お元気ですか。都会の教員生活も、慣れてしまえば楽しいものです。

 …が、-大変です。

 僕、からまれてます。

 

 青嵐せいらん高校全学年の数学担当教諭にして、新米一年生D組担任の香取親鸞かとりしんらん。壁際まで追い詰められたその彼に煙草をふかしたまま顔を近付けるのは、保健医の嵐後凪あらしごなぎだ。


 「だぁかぁらぁ、てめぇが私の昼飯を買って来りゃあ円く済む話だろうが。違うか、あ?」

 凪は器用に、煙草を咥えたまま煙を吐いた。プゥーッと吐いた白煙が親鸞の顔にかかり、彼はゲホゲホと噎せながら抵抗の言葉を口にする。


 「…だからっ…なんで俺が、ぇほっ…買いに行かなきゃならない、んでっ、すかっ、ゲホっ!」

 そう強気には言い返してみるものの、継いで来る言葉は無い。いや、継ぐ気にもならない。だって、怒らせると恐いから。


 左耳にピアスを三つ。目付きは鷹か飢えたジャッカルの如く鋭く、男性教師陣に引けをとらない長身。

 そして何より全面禁煙の校内で、校長先生の前でさえも堂々と煙草を蒸す目の前の白衣を来た女性が保健医であるのは何かの間違いだと、親鸞は思わない日は一日たりとて無かった。


 「これが保健医だとか言ってんだから、世も末だよ…」

 「あぁ!?何か言ったか!?」

 ボソリと思わず呟いてしまった言葉に怒声で返され、親鸞は竦み上がった。「ひぇっ、何でもないです!」


 この恐喝の現場を止める者は誰もいない。

 何故って、ここは職員室。そしてこの光景は、もはや職員室で毎日繰り広げられてるからだ。


 最初の内は校長に教頭、他の教員も挙って止めに入ってたのだが、毎日繰り返してる内に段々と誰も親鸞を助けようとしなくなっていた。

 というか、全く誰も助けてくれなくなっていた。みんな-校長でさえも、イライラしている凪が恐い様で、誰も一切口を挟もうとはしない。

 親鸞が助けを視線で求めても目も合わせようとしなかった。


 -唯一、嵐後先生が苦手意識を持っている氷室先生は…アレだし。

 チラ、と親鸞が職員室の隅を見ると、嵐後先生が唯一苦手としている美術教師の氷室嵐ひむろあらし先生はコーヒーを優雅に飲みながらこちらを楽しそうに観察していた。

 -そろそろ人間不審になりそうだ…。


 毎日保健医にはいじめられるし、今年になって受け持ってるクラスは「アレ」だし…。

 香取親鸞・二十四歳・独身・彼女いない歴二十四年は思った。今年分の運気はきっと、トイレにでも流してしまったのだと。


 最近の親鸞の密かな日課が、「全てが夢で、明日には優しくて可愛らしい美人の保健医が、保健室にいてくれますように」と願う事だという事は、日記にも書いてない秘密中の秘密だ。

 バレたら、何をされるかわかったもんじゃない。


 -いや、「美人」ではある事は認める。先生方も、嵐後先生は美人だってみんなが言ってるし、男子生徒だってみんな「あの性格じゃなけりゃ…」って言ってるし。やっぱり性格がなぁ…まず優しくも可愛らしくもないし…。

 そう考え込んでいると、目の前の凪が一喝。「で!?私、腹減ったんだけど!?」

 言外に「私の腹に収まるものを買って来い」と言っているその態度に、親鸞はびくつきながらもムッとした。


 -あ、いや。ここでこんな理不尽な言い分にいつも通りびくついてたら何も変わらないだろ…!勇気を出すんだ、俺!

 「おっ、俺だって…ぃ、忙しぃ、んです、よ!?」

 全然、ヘロヘロの情けない声が口から出て来た。しかし少し言い返せた事で、親鸞は心の中で両手を上げて喜んだ。


 -…よし、何とか言った!ここで終わるな俺!今日こそガツンと言ってやるんだ!

 そう決意したからには、相手が女性である事など今だけ気にしないことにする(尤も凪の場合は、気にする必要性など最初から感じなかったが)。

 しかし、勢いに任せるつもりが-少し任せすぎた。


 「いい加減にして下さい!これ以上こんな理不尽な事続ける様だと、俺も本気で怒りますよ!」

 そう言いながら、彼は彼女の胸ぐらに掴み掛かってしまったのだ。


 親鸞の言葉に、職員室中の先生の視線が集まり、職員室中に、さぁっ、と静けさが訪れた。

 …それはまるで、嵐の前の静けさ。

 -職員達の暗黙の了解その一.保健医・嵐後凪に逆らうべからず。-

 

 一瞬親鸞は、凪をついに言い負かしたのかと思った。

 凪が急に俯いて静かになり、前髪の影になった顔の表情が読めなかったからだ。しかしそれはすぐに間違いだと悟る。


 「…テメェが怒った所で、だからどうした?」

 そして、自分が今までの人生で最大の過ちを犯したのだとも。

 「この私に掴み掛かれるご身分だとは、知らなかった」

 凪の口は愉快そうに歪んでいた。

 そして再び顔を上げた時、その眼光は修羅か羅刹か。

 「随分と偉くなったもんじゃないか、親鸞君?」





 ところ変わって一年D組-ではなく、青嵐高校校舎屋上。

 頑丈な白い鉄柵で囲まれた屋上は、昼休みには生徒達の憩いの場として人気がある。そして、春のうららかな日差しが楽しめる今日の午後は珍しく風菜ふうな達の貸し切りだった。


 「あれっ、今日先輩達いないじゃん!ラッキー!」

 大声が近所に大反響してる事など気にも留めずに、屋上に一番乗りした里良は手早くブルーシートをさっと広げた。

 しわくちゃなブルーシートの上に座り、弁当を心待ちにしている里良りら十川とがわがたしなめる。


 「オイコラ。ここ、まだ皺が寄ってるだろ!そこも、あそこも!」

 皺を延ばし始めた十川の脇をすり抜けて、ブルーシートの上に弁当を広げ始めたのは女子陣-風菜とひかる

 「なぁにをお母ちゃんみたいな事言ってんのよ、十川!細かい事気にしてたら、ハゲるわよー」

 「せやせや!皺の一つや二つ延ばさんでも、死ぬ訳やないやん!適当でええの、適当で」


 仲間内では限り無く真面目な十川は、そう言われても皺が気になった様だ。風菜に席を薦められて座ったはいいが、やはりデコボコが気になって足をモゾモゾさせている。

 そこに、かける結城ゆうきが入って来た。


 「何をモゾモゾやってんだ、十川?」

 結城に訊かれ、「いや、別に…」と返す十川。そこへ里良が「森谷もりや、気にする事無いわよ」と笑って言った。

りょうの奴、昨日のオカズじゃ足りなかったのよ。思春期だからねぇ」


 結城が顔を引きつらせて下手に笑い、涼は顔を真っ赤にして叫んだ。

 「違ぇえぇえ!ってか、今までの会話無視すんなよ風月!」

 光が隣に来た結城に訊く。

 「…?思春期と晩ご飯のオカズって関係あんの?」

 「おまっ、ばっ……ぉ、俺に訊くな!藤森に訊け!」

 「?」


 そんな会話がすぐ近くで繰り広げられてるのも気に留めずに、風菜は持って来た弁当の包みを広げ始めた。

 そして箸を持って構えた時。「…あれ?」

 「ん?どうしかしたか、藤森ふじもり?」


 何かに気付いた風菜に、翔が声をかけた。彼女は、向こう側を指差した。「あそこにいるのってさ…」

 そう口にした時、指差す先にいた彼女がこちらに気付いた。


 視力二.〇の翔も見覚えのある彼女の顔に気付いた。あれはいつかの体育の授業の時の…。

 「でしょ?」風菜が翔に言う。

 「うん、そうだよ。あの時の…」

 「あそこにいるのは紛れもなくC組の癒しboy・西行宗祇さいぎょうそうぎ君じゃないの!」

 「そっちかよ!」

 確かにそうではあるのだが。


 彼女はこちらにいる人物に気付き、せっかく広げた弁当箱を両手で持って立ち上がると、こっちにゆっくりと近づいてきた。姉の後を、遅れて弟が追いかけて来る。

 「えっと…十川さん、ですよね?」


 風菜達を通り越して十川にそう訊く彼女は、西行杜甫さいぎょうとほ

 先日の体育の授業の時、十川が一目ぼれしてしまった相手である。

 いつか聞いた可愛らしい声に呼ばれて、十川の肩がビクッと跳ねた。呼ばれた方向を見ると、その顔がみるみる赤く染まる。


 「あ、やぁ…ぇと…西行、さん」

 (その様子に声を潜めて里良が笑った。)

 挨拶した姉を見て怪訝に思ったのか、杜甫の後ろの宗祇が眉をひそめる。


 「姉上…誰ですか?」

 「宗祇そうぎ…忘れたの?ほら、同じ学年の十川涼とがわりょうさん。この間体育の授業でご一緒したじゃない」

 「そんな…いちいち姉上に言い寄って来る男共の事なんか、覚えてられませんよ」

 「-宗祇!なんて失礼な事!」


 兄弟喧嘩でも始まりそうな勢いだったので、すかさず里良が乱入した。こういう所は空気を読める、頼れる奴である。

 「あぁ、いやいや気にしないで!全然間違って無いしね」

 「風月かざつき!人聞き悪い事言うな!」

 と、しかし里良は幼馴染みに何を言われようが大概へっちゃらだ。


 杜甫とほは一瞬目を丸くしたが、次の瞬間フフッと小さく笑った。

 「面白い方ですね。…えと、十川さんの彼女さん、ですか?」

 十川と里良の両方に杜甫が訊くと、二人共同時に首を横に振った。

 「いや、まさか!ただの幼馴染み!」

 「そうそう、腐れ縁ってやつ。ま、なんの芸も無いつまんない奴なんだけどね?」

 十川が怒るより先にギョッとする。

 「おまっ、どの口がっ…!あ、えぇと、周りのこいつらは中学の時からの友達」


 気を取り直して、十川が風菜や翔達を紹介すると、風菜がここで少し腰を浮かせた。

 「自己紹介も兼ねてさ、今日は一緒にお昼、どう?」

 「え、いいんですか?」

 「お前ただの親切心に見せかけて下心見え見-ゲフッ!」


 杜甫と宗祇に席を薦める風菜に翔が呟いた言葉は、彼女の繰り出した裏拳によって見事に遮られた。

 広げた弁当を真ん中に輪を描き、十川の隣に杜甫が、ちゃっかりと自分の隣に宗祇が来る様に、風菜はスペースを空けた。かくして二人を仲間に率いれ、昼食会は始まったのである。





-『おーぅ。こちら〇〇南警察署~』

 『どんだけやる気ないんですか!こちら巡回中の〇〇です!現在二人組の強盗に遭遇、追跡中!至急応援を願う!』


 『…おぉ?…あー、わかった。周りこませるから現在位置教えろ』

 『現在…ですか?…え~、〇〇町の、ここは…何丁目あたりだろう…』


 『馬鹿野郎、誰が現在位置の住所教えろっつった!周りに何か目立つ建物とか無ぇのか!!』

 『そうはいっても住宅街で……あっ!』

 『何だ、どうした!』

 『この先に青嵐高校があります!』


 『おしっ、やればできんじゃねぇか。了解したっ!』


  -ガチャッ。ツーツーツー…-





 -これで何回目だろう。彼女のパシリは。

 香取親鸞かとりしんらん二十四歳、数学教諭担当。彼女いない歴二十四年、ラブレターの類を貰う事ゼロ回。もはやノンストップゴーゴー状態…。

 そんな彼を人はこう呼ぶ。

 『幸せを待つ新任教師』-。


 「…ハァ~~~~~…」

 重くて長いため息が気付けば口から出ていた。弁当入りの買い物袋を二つ下げて学校へ帰る途中…。気がつけば同じ自問を繰り返してばかりいる。

-大の男が、自分より年下の女性に負けていて、いいものだろうか。


 今日は特大のたんこぶが頭に二つ。脇腹は骨が折れてはいないものの、絶対酷い痣になっていると易々予想がつくくらいに痛む。

 しかもただの買い出しならまだいいが、これで毎日弁当代金を(請求しても)もらえないのは、まぎれもなくパシリでありいじめである。


 親鸞は教員免許を取得後まもなく、青嵐高校で教鞭を取る事になった。

 華の二十代の教員生活…もう少しまともな生活が送れるだろうと思っていたのだが。


 「ここに来てから…嵐後先生の弁当を買いに行かされるのは毎日。煙草を買いに行かされる事はしばしば。あの人が面倒臭がってる見回りを代わられる事は毎度……。あぁ、俺も何で言い返せないんだろう」


 凪に向かって「嫌です」とハッキリ突っ撥ねる事が出来ない自分の不甲斐なさに、親鸞は愕然と肩を落として曲がり角を右折した。ここを曲がればすぐ校門が見えて来る。

 しかし、自分が出て来た時には無かった物々しさに、親鸞は眉を顰めた。

 「…ん?」校門の前に、人だかりが出来ていた。

 「何だありゃ?」


 親鸞は眉を顰めた。通行人で構成されたらしい人だかりの頭越しに、普段見慣れないものが見えたからである。

 青い帽子に制服を身に纏った二人の人間。彼らの背後には、バツ印に描かれた黄色いテープ。

 ドラマでしか見た事無いが、-これって警官ってゆーアレですよね?


 「…なんだよこれ」

 とうとう嵐後先生が人でも殺したか?-そう親鸞が思った時、通りがかりの若い夫婦の会話が聞こえて来た。

 「何これぇ、どうしたの?」

 「強盗だってよ、強盗。生徒人質に立て籠もってんだって」


 「強盗!?」

 いきなり叫んだ親鸞に、夫婦はびくっと肩を震わせて振り返る。親鸞は彼らのそんな素振りにも構わずに、両手に持った弁当入りの袋を投げ捨てて人込みを割って、警官に詰め寄った。

 「ごごごご、強盗って、なな何があったんですか!?」


 「貴方は?」

 「こ、ここの教師です!あの、生徒は…生徒が人質にって…」

 そう震える言葉で警官に掴み掛かった親鸞の耳に、次の瞬間慣れた声が聞こえてきた。

 「あ、先生だ」

 「あ、マジだ。親鸞Tだ」


 -…何?

 親鸞が声の聞こえた方向を見ると、なんと自分のクラスの生徒が普通に校門から出て来るではないか。

 その内、自分のクラスの生徒だけではなく、全学年と思われる数の生徒が続々と校門から出てくる。

 みんな特に走る訳でもなく、普通に下校時のノリで出て来ていた。中にはポケットに手を突っ込んでいる生徒や、歩きながら弁当を食っている生徒まで。


 「…お前ら随分余裕だな」

 警官が張り巡らした規制テープのすぐ中側まで来た生徒に、親鸞は呆れ顔で話し掛ける。

 二人の女生徒は、笑って顔を見合わせた。

 「そんな事無いよねー!超パニクっちゃった、ウチら!」

 「そうそう。全校放送でいきなり『強盗だ!』ってさ!」


 厳めしい顔で口調を真似た女生徒に、もう一人が「似てるー!」と手を叩いて笑った。

 -めちゃくちゃ余裕だな。

 親鸞は、ほっとするやら呆れるやらだ。

 「-ハァ、とにかく無事でよかった…。クラス全員いるか?」


 額の冷や汗を拭った時、

 「そーいえば、風菜達いなかったんじゃね?」

 「そうそう。アイツらいつも屋上で飯食ってるし」

 女生徒二人の言葉を飲み込むのに、親鸞はやけに時間がかかった。


 すると、親鸞の脳がその言葉の意味を理解する前に、

 「おい、ポリ公!こっちには人質がいるんだからな!変な真似すんじゃねーぞ!」

 屋上から、目出し帽をかぶり、包丁を持った男が叫んだ。隣には-包丁を突き付けられている風菜がいた。

 「…よりにもよって、アイツらが人質かよ…」

 女生徒達は「あー、風菜人質にされてんじゃん」とか言ってる。




 その頃、屋上では。

 「いやー、ちょっと!この唐揚げめちゃくちゃ旨いけど!」

 「ありがとうございます」

 「ちょっと嵐後先生、食べんの早すぎ!俺にも下さいってば!」

 「あぁん?お前らは自分の弁当あるだろうが。こちとら出前待ちだ、この野郎」


 「…っ、お前ら自分達の置かれてる状況分かってんのか!?」

 目出し帽の犯人が、一向に箸を止めない人質達に言った。

 「ちょっと、凪ちゃん…あんまり犯人を怒らせる行動は謹んで……あ、藤林さん、このミニグラタンもっとある?」

 「あ、はい、藤森です、校長先生。ありますよ」


 籠城事件の犯人(二人組)に監視されているにも関わらず、人質である風菜達八人は事件発生前と変わらず、昼食会を進めていた。


 これといって変わった事といえば、犯人が連れて来た校長先生と保健医が加わって更に賑やかになったという事くらいだろうか。

 この学校で一番の権力者である校長と、教職員の中で一番抵抗しなさそうで弱そうなイメージの保健医。その二人を人質に選んだ犯人からしてみれば、この生徒八人は全く想定外の誤算だった。


 犯人たちの読みは完璧だったはずだ。

 校舎内だと簡単に警察に踏み込まれてしまうかもしれないし、教職員は校舎の中を知り尽くしているだろうから、簡単に逃げられる事も万が一にも抵抗される事も無い様に、五階校舎の天辺で、武器になりうるものが何も無い屋上に陣取る事にした。

 強盗の現行犯で警察に追われて気が動転していたからとはいうものの、計画も無しの咄嗟の判断としては少々慎重すぎて、逆に自分達も恐いくらいだった。

 ――…恐いくらいだというのに…。


 「最後の一個もーらいっ!」

 「あっ、お前、日向ひゅうが!さっきから唐揚げいくつ目だよテメー!」

 「…うんま~…。すげぇなぁ、杜甫とほちゃん唐揚げ上手だなぁ、…あー、旨かった、ご馳走さま」

 「てめぇぇえ…俺まだ一個も食べてなかったのにぃぃ……」

 「とっ…十川さん、もし良かったらまた明日持って来ますから…」


 「えっ!いや、あの、そんな厚かましいアレを期待していたとかそういう事じゃなくつっ-あ!日向!今お前どさくさに紛れて西行さんの事とっ、とっ、とっ……な、なれなれしく呼びやがったな!」

 「気付くの遅いわよ…ってか、勢いに身を任せても名前が呼べないなんて一体アンタのウブ加減はどんだけなの…」


 里良が肩を竦めて言ったセリフに、仲間達は爆笑していた。その光景は、まるでサラリーマンの宴会風景の様。


 -あっはっはっはっは……

 犯人の一人と風菜の姿が見えなくなった少し後に、屋上から聞こえて来た弾けた様な笑い声に、親鸞は屋上を見上げてポカンと口を開けた。

 「…アイツら……どういう神経してるんだ…?」

 屋上から聞こえて来たのは、この一週間程でもう耳に着いて放れないくらいに聞き慣れた笑い声である。


 親鸞が開いた口が塞がらないまま屋上の方を見上げていると、黄色いテープで封がされた校門の中側からダンディな野太い声に呼ばれた。

 「親鸞。帰って来てたのか」

 警官に塞がれた校門越しに声をかけるのは、体育教師の橘芭蕉たちばなばしょうだった。

 「橘先生。強盗って、どういう事なんですか?」

 「見ての通りだ。今、刑事が…えぇと、何か話し合いしてる」


 いつも通り適当に答える体育教師に肩を落とす親鸞。「生徒が人質になってるっていうのにアンタ…」

 「お前よく知ってるな。…あ、人質といえば-」

 「知ってますよ。うちのクラスの藤森達でしょう?」

 「いやぁ、それもそうなんだが…校長と凪も人質になってる」

 耳をほじりつつ芭蕉が言った言葉に、親鸞の声は裏返ってしまった。「ハァ!?」


 言わば教職員のボスである校長先生が人質にとられたなんて、信じられない事ではあるのだが。

 「あ、あ…嵐後先生を人質にとるなんて、い、命が惜しくないんですか、あの人達!何考えてるんですか!」

 どうやら親鸞の驚きは別の所にあった様だ。芭蕉が頷く。


 「まぁ保健医って弱そうなイメージあるのは分かるんだが…明らかに人選ミスだ」

 「そりゃそうでしょうよ!即刻止めさせなきゃ、死人が出ますよ!?」

 「ああ、生徒達と校長の安全は保障されたが……この強盗籠城事件が傷害殺人事件になるんじゃないかと、俺も気が気じゃなくてな…」

 気が気じゃない割には落ち着いたものだ。


 その時芭蕉の肩を、繊細な指が叩いた。美術の氷室嵐ひむろあらし先生だ。

 「正しく同じ気持ちですよ、橘先生。凪がどんなおもしろ-いやいや、危険な目に遭っているかと思うと、俺も居ても立っても居られなくて…いや、本当ですよ」

 そう言いつつ、彼の顔はおかしそうにニヤニヤと笑っている。その顔は、幼馴染をおもちゃにする風月里良そっくりだ。


 「アンタよくこの状況で楽しめるな!」ニヤニヤしている嵐の顔を、親鸞は怒鳴りつけた。「このままだったら…このままだったら…!」


 青ざめて頭を抱えた親鸞の脳裏に、近い未来が過る。

 新聞の全国紙の一面を飾る「高校強盗籠城事件の果てに」の文字。

 紙面には青嵐高校の姿がでかでかと飾られ、その横に保健医の経歴書写真が使われている。

 報道カメラのフラッシュが校長を追い、ワイドショーで芸能人が卓を囲んで「いくら正当防衛だと言っても、命まで奪ってはねぇ…。しかも命を預かる筈の、保健の先生が…」と渋い面持ちで話し合っている。


 「あああ…!駄目だ!せめて何とか様子だけでも見に行ければ…」

 頭を抱えて唸っている親鸞に、嵐は事もなげに言った。

 「なんだ。様子を見に行きたいのかい?」





 「ふーっ、食った食った。弁当を作って来た女子諸君。君達はいいお嫁さんになるであろう」

 星野鷹ほしのたか校長は満腹の腹を押さえてそう言うと、何処から取り出したのか爪楊枝を咥えて、シーシーやった。


 「あ、ありがとうございます…」

 恐縮しきって杜甫が礼を言った。それを風菜も真似ようと思ったその瞬間を見透かしたように十川が遮る。「いや、藤森。お前は止めとけ」

「え゛っ、な、私が何したっていうのよ!」

 彼の目が、「西行さんの様な清楚は、お前には猿真似でも無理だ」と力強く言っていた。


 「…っ、お前らいい加減にしないと殺すぞ!お前ら全員人質になってんだぞ、わかるか!?」

 赤い目出し帽と、黒い目出し帽の二人組。その赤い方の犯人が怒鳴って、唯一の武器である包丁をちらつかせた。

 包丁をちらつかせ迫る犯人。その切っ先が、一番位置的に近かった杜甫とほの顔に近付く。


 恐いのなんのより体が先に動き、十川は杜甫を犯人から庇う様にして、ズイと前へ出た。一瞬、隣へ来た宗祇そうぎと目が合う。彼も同じ様にして、光る切っ先から姉を守ろうとしていた。

 「おうおう、男二人揃ってカッコいい事で」


 二人の意思を汲み取った赤い犯人が下卑た調子で言う。杜甫を守ろうとする二人の騎士は、無言で赤い悪意を睨み付けた。


 その目付きが気に入らなかったのか、赤い犯人は激昂する。どうやら気は短い様だ。

 「っ…調子ノッてんじゃねぇぞこのガキャァ!」

 包丁が十川に降り下ろされるかと思ったその時、後ろで成り行きを見守ってた黒い方が声を上げた。

 「あっ!兄貴、危な…」

 時すでに遅し。

 

 「ぶへし!」


 上から「降って来た」男の足蹴にされ、赤い犯人はゴロゴロと吹 っ飛ばされた。

生徒達と黒い犯人が呆気にとられる中、上から降って来た橘芭蕉は着地態勢からノソリと立ち上がった。


 「はぁ…誰か蹴ってしまったが……凪、まだ人は殺してないだろうな?」

 真直ぐ保健医に向けられた言葉に、嵐後凪が「あぁ!?」と詰め寄った。


 「私がいつ殺人予告したってんだ、言ってみろ!…つぅか、お前のオマケで付いてるそこの金魚のフンはちゃんと私の弁当持って来たんだろうなぁ、あぁ!?」

 芭蕉の影に隠れていた親鸞が一気に青ざめた顔になった。


 そんな情けない担任に、里良が気付いた。「あ、カトリンだ」

 「ホンマや」

 「俺達を助けに来てくれたんだぁ、ドラマみてぇ!」

 「キャー、見た!?今の芭蕉先生(オマケ付き)の登場!あぁん、カッコ良過ぎ!!」

 「…藤森、少しお前黙ってろ」


 ゲーム好きで特撮好きな女校長も、これを黙って見過ごせなかった。

 「えっ、スゴいスゴい、橘くん!今の一体どうやってやったの!?」

 「おぉ、校長。無事でしたか。いや、なんて事は無くて、ヘリコプターからちょっと降りてきただけですよ」


 「ヘリ!?ヘリなんて何処にあんの!?全然気付かなかったけど!」

 「結構な高度飛んでましたからね」

 会話を聞きながら生徒達は思った。

 -それってスカイダイビングっていうアレじゃあ……。

 

 「ま、凪が人を殺してないならいいんだ。よかった、間に合って…高校で傷害致死事件なんてことになってみろ。みんな路頭に迷う事になる」


 あんぐりと口を開けているみんなの気なぞさしおいて、芭蕉はまるで凪が犯人を殺す気でもあるかのような口ぶりだ。

 「私ゃ、誰を殺す気でも無いが!何を言ってんだよお前は、意味不明だぞ!」と、話は見えないが、何かあらぬ誤解をされてるような事だけは理解した凪が噛みつく。


 「愛やなぁ…」

 その光景を見て、ほう、とため息を吐く光。「へ、何が?」と風菜が訊くと、彼女は頬を染めて空中にのの字を書き始めた。


 「えぇ、だってぇ…橘先生、嵐後先生の事心配して危険も省みず助けに来ちゃったんやで?これを愛と言わずして何と言うのん」

 風菜は「…え、あ…そ、そうねぇ…」と上擦った声で肯定する。


 「橘先生は嵐後先生が犯人を殺さないかが心配だったんであって、嵐後先生本人が心配だったわけじゃないと思う…っていうかさっき自分で言ってたし」なんて真実を風菜が口にすれば、光のあの怪力で「んっもぉ!風菜は乙女心がわかっとらへんなぁ!」とか言って叩かれるに決まってる。彼女の怪力はこの世で避けたいものの一つだ。


 と、そんな騒ぎをしている内にさっき芭蕉に足蹴にされた赤い方の犯人がむくりと立ち上がった。

 「…んっ、だよ…テメェら、センコー共がよぉ…ーっ、鳴いてみるか、オラぁ!」

 再び包丁を構えて芭蕉に斬りかかった時、親鸞や翔が声を上げた。

 「芭蕉先生!あ」

 -ぶない、と言うより早く、赤い犯人は宙を舞っていた。

 「へ?」


 訳が分からない、という顔をしたのは当の犯人の方。芭蕉は斬りかかって来た腕を素早く捕らえて、背負い投げの要領で犯人を投げ飛ばしたのだ。

 しかも。

 「私を人質にとったのが間違いだったな、コノヤロウがっ!空腹の恨み思いしれ!」

 嵐後凪がその後を追いかけて来て、空中コンボをお見舞いするのだから。


 宙を舞う犯人の元まで跳び上がり、右足上段、からの回し蹴り、更には着地寸前に相手の鳩尾目掛けて両の掌底、なんてコンボ、格闘ゲームでしかお目にかかれるものではない。

 「おぉっ…おぉぉぉおっ!!」

 翔が目を輝かせて感動する。まさかこんな奇跡が、目の前で起こりうるなんて!


 しかしそれ以外の生徒、親鸞までもが呆然としてその光景を見ていた。

 例外は、校長・星野鷹一人だけ。

 「ああ、そういえば凪ちゃんって、何だか言う道場の師範代なんだっけか」

 「し、師範代って…あんなことまでできるもんなんですか…?」


 当然の言葉が親鸞から出たが、校長は「いやぁ、知らないなー。生憎私は格闘技の経験が無いものでね」と頭を掻いて笑った。

 「あ、兄貴ぃ!」

 投げ飛ばされても屋上の柵を越えなかっただけ、ありがたいものだ。赤い兄貴は力無くドサリと屋上のコンクリートに背を叩きつけた。


 黒い犯人が倒れた兄貴分に駆け寄ろうとしたその時。

 -ザッ…

 そこに立ちはだかった白い姿。空中コンボから着地した時に咥えた煙草が、プカプカと白煙を吐いていた。


 「お前らさぁ、どぉんだけ頭悪いか知らんけど、こういう可能性とか考えなかったわけ?ダメだなぁ、あらゆる可能性考えないと。特にお前みたいな奴は、犯罪に向いてないよ」

 ニヤニヤと、嵐後凪は笑った。犯人が戦慄する。親鸞も戦慄する。あの笑顔は、堪忍袋の緒が切れた時の笑顔だ。


 「んじゃ、身をもって思い知ってもらおうかね。」

 恐らく空腹によりマジギレしている彼女と対等に渡り合える人間など、いるはずもない。

 食べ物の恨みは恐ろしいとはよく言うものだが、彼女の場合はそれが二倍になるから更に恐ろしい。


 「なぁ?一年D組の諸君」

 ザッ、と音を立てて凪の背後に立ち並んだ風菜、光、十川、里良、結城。イレギュラーとして西行宗祇。

 六人のクラスメイトと保健医を遠巻きに見守るのは翔と西行杜甫だ。


 -職員達の暗黙の了解その二・暴力保健医嵐後凪と、一年D組の問題児達に手を組ませるべからず。-



 故郷のお父さん、お母さん、元気ですか。

 僕は教師として、どうすれば良いのでしょう?

 これは俗に言う、集団リンチ?


 暴力保健医と自分の愛しい教え子達が、ほぼ無抵抗の犯人に殴る蹴るの暴行を加えているその光景を遠い目で見守るしか術が無い香取親鸞二十四歳独身は、ただただ途方に暮れるばかりだった…。

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