四月三日ー二時間目・体育ー

 「ぅーし、お前らー、集合ー」

 体育館に野太い声が響き、それまで思い思いに騒いでいた一年D組とC組の生徒達は、先生の周りを取り囲む様に集まって来て座った。

 体育は、D組とC組との合同授業になる。D組の生徒達にはC組の友達がいる人も多い様で、気付けばクラスごちゃまぜになって座っていた。


 体育の先生は野太い声に間延びしたやる気の無さそうなダルそうなしゃべり方、体育教師にピッタリとハマっているがっしりとした体付きをしていた。黒い髪に、無造作な無精髭がワイルドな大人の男性という感じを醸している。

 風菜ふうな里良りらの隣で、聞いてもいないのに勝手に喋り出した。


 「橘芭蕉たちばなばしょう先生…三十二歳だと聞いてるわ。どこだかの田舎の方の出身なのよね、あの体格にも納得……。大人の男に憧れる女子高生はあーいう感じに弱いのよね…その証拠に全校の女生徒人気はうなぎ上りよ。しゃべり方を聞いて分かる通り、あのルックスで飾らないあの性格も人気の一つのようね」

 「へぇ…。で、風菜」

 「ん?」

 「隣りの女の人は?」

 「知らん。」

 「アンタ……本当にイケメンしか眼中にないのかい…」


 芭蕉ばしょう先生三十二歳の隣りには白衣を来た、セミロングの黒髪の女性が立っていた。姿勢が良く、身長も女性にしては高めで、芭蕉先生より少し低いくらいだ。

 風菜の目測では芭蕉が百八十cm前半くらいだそうだ。やはり体育教師なだけはある。by風菜談。


 女性の目は、これでもかというくらい座っていた。しかも咥え煙草だ。煙草、絶賛蒸され中。

 生徒の多くも煙草を咥えた彼女に目を点にしていると、芭蕉先生が話し出した。


 「え~…おはよう。俺がC組とD組の体育を受け持ちます、橘芭蕉です。よろしく。で、こっちは保健医の嵐後凪あらしごなぎ先生だ。先生には女子の保健の授業受け持ってもらいます。あと、たまに体育の授業も補助してもらうんで…」


 そこまで紹介をされて、嵐後凪あらしごなぎ先生は咥えていた煙草を右手に持つと、フーッと煙を一息。


 「嵐後凪あらしごなぎだ。よろしく。普段保健医やってるが、あんまり下らねぇ怪我で保健室来るんじゃねえぞー。その場合は十割増しで追い出すからなー」


 「あらしご…」風菜の頭の中で、その名前がどうにもひっかかった。


 「…と、言う事だー。特に男は気をつけろー。俺も擦り傷の手当てに保健室に行ったが、骨折して返されたからな」

 芭蕉先生のその言葉にゾッとする生徒達。


 「アレは私の昼休みを邪魔したお前が悪い」

 「て訳で、大変厳しい先生だから、下手な事したら病院通いだからな」


 そんな恐ろしい事を、「なんという事は無い」と、いう顔で口にする芭蕉先生は大物だと、その場に座る生徒達の気持ちが一つになった。

 「見た目は綺麗な人なんだが何せ暴力が…」

 芭蕉が言いかけた時、銃声の様な音と共に凪の左手が…消えた!!

 --ッパァンッ!

 

 全員がどよっとするのと芭蕉が後方に吹っ飛んで行くのは同時だった。豪快に尻餅をついて、眉間を擦りつつ立ち上がる。


 「っ…こういう風に確実に急所を狙って見えないパンチが飛んでくるので気をつけて…」


 あれ、パンチだったんだ…。誰もがそう思った。かなりの光速…いや神速で見えなかった。


 「…下らねぇ事言うからだ。私は保健室に帰るからな」

 そう言い捨てて出入り口に足を向けると凪はそのまま出て行った。芭蕉は凪の背中を見送りつつ生徒にもう一つ忠告。


 「見てるお前らには、かなりすごいパンチに見えただろうが…これで結構手加減された方だからな。この前の三年生男子は気絶した後、二時間は気がつかなかったんだぞー」

 ―うわぁ。

 更に生徒の背筋が凍り付く。全員が、あの先生には下手に近付くまいと誓った瞬間だった。


 「さて、まぁ自己紹介はさておき、ぼちぼち授業始めるぞー。まぁ今日は初日だから…そうだなー。ドッヂボールでもやるか」

 これまた懐かしい響きのスポーツが出た。小学生の時以来聞いた事の無い名前だ。

「じゃ、チーム分けは…面倒臭いからクラス対抗でいいな」

 芭蕉は言いながら、耳の穴を小指でほじっている。なんとも適当な。


 「ほれ。じゃー、今日は晴れてるし、折角だから外でやるぞ、外。お前ら表に出ろー」

 生徒達はわらわらと正面玄関に向かい出した。その最後尾を先生がついてくる。職員玄関は生徒玄関の隣りにあるのだ。

 

 「あらしご…あらしご…」

 「どしたの、風菜?さっきからブツブツと」


 歩きながら1つの言葉を唱え続けている風菜に、里良が訊いた。風菜が唱えているのは保健医の名前。

 「ずっと引っ掛かってるのよね~。どっかで聞いた名前だと思うんだけど…」

 「昨日森谷に怯えたセンセが震えながら叫んでた名前やろ?引っ掛かってる所の話ちゃうわ」

 「え?…あぁ、それだ!」

 後ろから光が入って来たおかげで、昨日の数学での出来事が風菜の頭に鮮明に思い起こされた。


 「ま、確かにあれはね…。カトリンがあんなに泣き叫ぶのも分かるわ…」

 苦笑いの里良。因みにカトリンというのは早々に里良が決めた香取親鸞かとりしんらん先生の愛称である。

 

 「森谷もりやから嵐後先生の恐怖を連想して、あんなに縮こまってたって訳よね…あーいうの、一種のトラウマに対する現象なんじゃないの? 」


 風菜が言うと、隣りに翔がひょっこり顔を出した。その顔色は、少々青ざめている。

 「いや、結城ゆうきの千倍はおっかねぇって!!やっべぇよ、あの目は!!」

 「そーお?でも目の所らへんなんかちょっと似てない?」


 風菜が何の気無しに言うと、前方を歩く結城に無言で睨まれた。他人-特に教職員と似ていると言われる事が、勘に触るお年頃である。

 風菜は要らぬ火種を撒いたかと、すぐさま両手を顔の高さに上げて、結樹に「何でもない」という事を示した。

 結城は少し疑わしげに風菜を睨んだ後、何事も無かったかの様にまた顔を前方へ向ける。風菜は彼に聞こえない程度に胸を撫で下ろした。


 すると、最後尾を歩く芭蕉から声がかかった。

 「あ、そうか。お前ら親鸞しんらんのクラスの連中だもんな。嵐後先生の事、何て聞いてた?」

 「え、いや…何も…。ただ先生が随分嵐後先生を恐がってたんで…」


 突然イケメン教師から声がかかった風菜はちょっと高めなよそいきの声を出した。

 芭蕉は風菜の返答を聞いて耳の穴をほじった。実にダルそうだが、風菜の息は「かっこいい…」と漏れている。


 「まぁ親鸞はあの性格だからな…。何でか嵐後先生の標的になりやすくてな…。ほら、親鸞っていじめられっ子体質だと思わないか?」


 ―ああ、確かに。

 D組の全員が靴を外履きに履き替えながら、コクリと頷いた。親鸞のいじめられっ子具合は、昨日の数学の授業でも大体分かる。





 D組とC組で合わせて七十名近い生徒がいるので、生徒玄関は押し合いへし合いの、まるで通勤の満員電車だった。靴を履き替えた生徒は、我先にと外へ飛び出す。


 他の生徒達に揉まれながら外へ出た十川とがわは、男子とぶつかって後ろへよろめき、足元の感触から、誰かの足を踏んづけてしまった事に、気付いた。


 「あっ、」

 「わっ…ごめん!足元がちょっとおぼつかなく、て…」

 咄嗟に避けながら言い、足を踏んづけられた被害者の顔を見る。一瞬、息が止まった。


 真面目そうな黒髪を持った、女の子だった。意志の強そうな瞳を持っているが、決して気が強くなくむしろ大人しめの清楚な印象を受ける。


 ―C組の子だろうか。自分のクラスには確かいなかった顔に、十川は再度謝罪する。今度は頭を下げて。

 「ご、ごめん、わざとじゃないんだ!…その…」


 「あ、いえ、大丈夫です。顔、上げて下さい」

 十川とがわの思った通り、控え目な印象の振る舞い。喋る声がコロコロと鈴の様だと思った。

 「大丈夫?結構思いっきり踏んじゃったけど…」

 顔を上げながら訊いた十川に、彼女は笑いかけた。


 「全然。そんな事無いですよ。一瞬だけだったし。貴方こそ大丈夫ですか?足を捻ったりとか、しませんでした?」

 寛大な言葉にこの気遣い。笑いかけた後ちょっと心配そうにしてくれるその表情が、ますます十川の心を掴んで放さない。


 「あ、いや、大丈夫…」

 言いながら十川は耳が赤く染まった。少し恥ずかしくもあるが、決して不快な感じはしない。むしろ、微妙なくすぐったさが心地良いくらいだ。


 十川がまさにこの世の春を感じていたその時、幸せな時間は別の声によって遮られた。

 「姉上、どうしたんですか?」

 目の前の彼女の隣りに顔を出した男子は、周りのクラスメイト達より少し幼い顔をしていた。


 「…何かあったんですか?」

 十川をキッと睨む男子。怯む様な凄みは無いが、その純粋さだけは伝わる。

 「やめて、宗祇そうぎ。なんでもないから」

 自分を姉と呼んだ男子をそっと制し、彼女は十川に向き直った。

 「弟が失礼を…ごめんなさい」


 「お、弟?双子…なの?」

 「ええ。私はC組の西行杜甫さいぎょうとほ。こっちは、双子の弟の宗祇そうぎ


 双子という存在は十川の人生の中でも珍しい存在であったため、少し面食らってしまう。

 「あ、ええと、俺はD組の十川。十川涼とがわりょう。-足、ホントにごめん。大丈夫?」

 杜甫はやんわり笑う。

「いえ、本当に大丈夫ですから…-あ、ほら、もう皆集まってますよ。私達も行きましょう」


 二クラスがゾロゾロと集まっているグラウンドを、杜甫とほは指差した。宗祇そうぎも隣で、「そうですよ。急ぎましょう、姉上」と急かす。その一言で二人共から、真面目そうな感じが伝わって来た。


 「あ、うん…あ」

 杜甫とほが指差した方向に歩きだそうとして、十川は自分の足元に気付いた。靴紐が解けている。

 結ぼうとしてその場にしゃがんだ十川に、「どうしたんですか」と杜甫とほが声をかける。まだ知り合って間もないのに、そんな心配をしてくれる事も、何だか心が弾む。

 顔を上げる自分はきっと花咲く様な笑顔だろうと、十川は思った。


 「いや、靴紐が解けちゃって…先に行ってて」

 「はい。じゃあ、お先に」

 笑顔を残して去って行った杜甫(悪いが宗祇の事はもはや眼中に無か った)の背中を見送り、十川は今世紀最大のイイ顔で靴紐を結び始めた。

 と。

 「あれがC組の西行宗祇さいぎょうそうぎ君ね。なるほど…噂より可愛い顔立ちに、風菜さんびっくり」

 「どこからの噂よ…。っつか!っつーか、見た!?今のりょうの笑顔!アイツあんな顔、受験に受かった時でさえ見せなかったわよ!ブハハハハ、ウケる!」

 「春はぁ…人に、恋を…運んで来るんやなぁ…」


 十川の背中に、ひょっこりと姿を現した風菜ふうな里良りらひかるの3人。思わぬ背後からの声に、十川が悲鳴を上げる。

 「キャアァァッ!?」

 「「「乙女かっ。」」」三人のツッコミが、綺麗にハモった。

 声の主達を振り向いた十川が、それが慣れた仲間達だと気付く。同時に、今一番来て欲しく無かった人物達であった。


 「い、今の…見てたか?」

 心臓がバクバク言っている。十川の質問に対する、里良の嘘全開のマジ笑顔。

 「うぅん、なぁんにも見てないよ」

 「どっ…どこから見てたんだよ」

 「ん?どこからって、ずっとアンタ達を取り巻いてたけど?」

 「何ソレ、新手のイジメ!!?」

 風菜の答えに絶叫する十川。つまり自分はこの慣れ親しんだ仲間が取り囲む、その中心で愛を叫んで-いやいや自分の世界に浸っていたのか。


 -入学3日目にしてこんなに絶望に打ちひしがれてる生徒って、俺だけだろうな…。

 今すぐ穴があったら入りたいって程、恥ずかしい十川の肩をグイッと引き寄せてウインクを飛ばして来るのは、翔だ。

 何も言わないその態度、ウザい事この上ない。

 と、そこにクラス長様からの一喝が飛んで来る。

 「おい、お前ら。いつまで他の奴ら待たせるんだ。ふざけるな、グラウンドまでダッシュ」


 「森谷もりや、何でアンタがクラス長みたいな事言っとるのん?」

 「クラス長だからだっ!!誰のせいだと思ってる!!」


 先日のHRで、反対する森谷結城もりやゆうき本人の意見を押し切って、彼をクラス長にと推薦したのは、まぎれもなくこの五人だった。


 「全く!クラス長なんて面倒なだけで、全然メリットが無い!」

 今現在、特に関係無い事で怒り出す結城に、かけるが笑顔で言った。

 「あ、じゃあ呼び名だけでもかっこよく呼ぶってのはどお?今日からクラスマスターって呼んでやるよ」


 「…お前の頭はシュークリームでも入ってんのか…!?」

 「-…!!」

 鬼の空気を醸し出した結城に、その場の全員が一歩退く。翔はもう涙目だ。

 「その頭かち割って中のカスタードを出されたく無ければ、さっさとグラウンドに整列しろ!」

 「「「は…はいぃ!!」」」

 悲鳴が上がるなり、五人はダッシュでグラウンドに並ぶD組の列に入っていった。




 体育の授業は思った通り適当に行われた。

 特にやり方の説明も無いまま、「俺の手本見ながらやれば出来るだろ」と、適当に準備体操をし、適当にクラス対抗ドッチボール対決は始まった。

 審判の芭蕉ばしょう先生が適当なので、ボールがギリギリかすっても、

 「あ~、お前今当たった?…当たってない?ない?…うん、はい。セーフ、セーフ」

 と、よほど大袈裟に当たらなければ試合状況も誤魔化せた。


 「こんなんでいいのか…ドッチボールが…」

 外野で呆然としながら、結城が呟いた。たった今また一人、事実を誤魔化している生徒が出ている。しかも自分のクラスの。

 同じ感想を持ったのか、隣りに立っている光が笑っていた。

 「はは…まぁ、ええのとちゃうん?みんな楽しんどるみたいやから」


 確かに、D組はこのゲームを本気で楽しみながら、当たった数を誤魔化し、C組もゲームを本気で楽しみながら、本気でD組を狩っている様に見えた。C組も曲者が揃っている様だ。

 第一、先生が試合の成り行きにあまり興味を示していないというのは、どういった事だろうか。

 橘芭蕉先生は、生徒が「今のボールが有効か無効か」と聞きに行く時以外、ほとんど空を見ていた。


 その先生に見とれるバカ( ミーハー女子一名)がすぐ隣りにいるのは、さて置いておこう。

 なので、流れ弾に当たる事もしょっちゅうである。

 そしてこの時は、C組の女子が放った豪速球に、みぞおちを一発射貫かれた。

 -ドゴォッ…!

 大砲の様な音を立てて、芭蕉先生の急所を貫くボール。

 先生がその場に踏み止どまれたのは、ほぼ奇跡でしかなく、次の瞬間先生は後ろに真直ぐ倒れた。




 「…お前ら、さっきの私の話を聞いてなかったのかな?それともアレか、耳にケセランパサランでも詰まってたのか?」


 「先生、ケセランパサランって古くないですか」

 「うるっさい!お前らな、私はあの時、よっぽど大した怪我じゃなけりゃ保健室に来んなって言ったはずだぞ!?それを何だ、大の男がみぞおちに豪速球食らって気絶しただぁ!?知るか、そんなもん放置しとけばそのうち気が付くだろうが!」


 保健室で怒り狂う嵐後凪あらしごなぎの前には、担架の上でのびてる橘芭蕉たちばなばしょうがいた。

 担いで来たのはかける結城ゆうきである。その二人に、凪の怒りの矛先は向けられていた。


 「大体、お前も何だっつーんだ!オラッ、芭蕉起きろ!」

 ぐりんと芭蕉を振り向き様に、怒声を浴びせかけると、凪は横たわる彼の脇腹に強烈な足蹴を食らわせた。

 その様子に、芭蕉を連れて来た翔が狼狽する。

 「ちょ、嵐後先生止めてくださいよ!先生が蹴ったら肋骨の一本や二本、軽く折れちゃいますから!」

 「こんなん、小突いたウチにも入んねぇよ!」


 -嘘だ…!絶対嘘だ…!!

 翔がオロオロしていると、その時おもむろに、背後にある保健室の扉が開かれた。


 「意識が無い相手にも暴力か。フフッ、相変わらずの容赦の無さだな、凪」

 

 開かれた扉にもたれ掛かる様にして現れ、言ったのは、男性だった。真っ黒いさらりとした挑発と涼しげな目元がとても美しく、芭蕉とは対照的な意味で気怠そうに着こなした服は、何処かから気品さえも漂わせた。


 いきなり現われたこの男に狼狽したのは、翔と凪が同時だった。

 「え!?何処のヴィジュアル系バンドの人!?」

 「あ…あ、あらし!?」

 「久し振りだね、凪」


 翔はともかく、その男は愛情たっぷりの声色と笑顔で、その場で凪に小さく手を振ってみせた。

 事の成り行きを見ていた結城が声を上げた。

 「…保健医の知り合いか?不審者だったら警備員に通報するんだが…」


 その言葉に振り向いた凪がパッと、今日一日で見せた事の無い、「助かった」という表情をして口を開きかけたのを、男に遮られた。

 男は、何処かの劇団員かと思う程、なんとも大きな美声とオーバーアクション、自分の美しさを引き立たせる表情、ポーズで語り出した。

 要するに全てにおいて役者臭い。


 「僕の名前は氷室嵐ひむろあらし。ここにいる暴力保健医・嵐後凪の唯一無二の初恋の人にして最愛の相手だよ。よろしくねっ」

 投げキッスも妙に慣れた感じがある。それを正面から受けた結城はしかめっ面だ。ウザッ。

 

 「違ぇよ!」

 全力で否定した凪の右手にボグッと殴られたのは、すぐ側に立っていた翔だった。倒れそうになった所を、襟元をふん掴まれ引き戻される。


 「いいかっ、勘違いするんじゃねぇぞ!?この男とは幼稚園が同じで、どうした事か小中学校も同じで、腐れ縁で高校まで一緒で、悪意を感じる偶然で大学まで一緒だっただけの関係だ!変に言いふらすと地の果てまでぶっ飛ばすからな!!」


 そう捲し立てる凪の攻撃に、翔は目を回しながら何度も首肯して見せる。

 「わわわわわ、わかりましたよ先生!わかりましたからちょ、やめ…おぇぇ…」


 「止めたまえ凪。その生徒に罪は無い。そう、罪なのは…俺達の焦れったくも艶やかな、この…関係…」

 「だ・ま・れ!!!!」


 翔の襟元を放さずに嵐を睨み付ける凪の目には殺気が込められた。

 すると、途端にその視線を受ける嵐の目が、冷ややかなものに変わった。

 「…あれれれれ、いーのかなぁ?俺にそんな口利いちゃって…」


 そう言う嵐が懐に手を入れて取り出したのは、ハードカバー仕様の上品な手帳。嵐は適当にページを開くと、子供に読み聞かせる様に内容を読み上げていった。

 「〇月□日。今日も天気が良かった。凪が授業中先生を…」

 「わー!わー!」

 目に見えてうろたえた凪の無闇やたらに振り回した腕が、翔の下顎にクリーンヒットする。


 翔が後ろで泣いてる事など露知らず、いや、一向に構うそぶりなど見せず、顔を真っ赤にした凪は嵐に掴み掛からん勢いだ。

 「お前いつの話してるんだよ!っつか何で日記にしてあるんだよ、っていうか、何で持ち歩いてるんだよ!」

 「はっはっは…落ち着きたまえ…」


 嵐は対象的に実に涼し気な顔をして、凪をひらりと躱す。

 「はぁ…そんな粗暴な振る舞いで、保健医が聞いて呆れるよ。怪我人を放置したまま俺に噛み付きにくるなんて…よっぽど俺の事が好きみたいだね」


 床に横たえたままの芭蕉を指差して嵐が言うと、凪はその一言に噛みつき返した。

 「誰がだっ!大体、こんな丈夫だけが取り柄の奴、水ぶっかけりゃ一発で目ぇ覚ますに決まってんだろうが!」


 そう言いながら、けたたましい音を立てて保健室備え付けのロッカーを開けた凪は、綺麗に巻かれた青いホースを取り出すと、流し場の蛇口に取り付けて何のためらいも迷いも無く開栓した。最大限の勢いでホースを通った水は、そのままの勢いで狙い定まった芭蕉の顔へ。


 「おらっ!起きろ!」

 「-…ぁがっ!?冷たっ…!」

 鼻から入ってきた水にむせながら飛び起きた芭蕉に、凪は容赦無く水を浴びせかけた。


 「ようやくお目覚めか。ご苦労さんだな。そのせいでどれだけこっちが不快な思いをしたと思ってんだ、コラァ!」

 「-っ…ぶぁ…!止めろ!俺が、何したっていうんだ!」


 水から顔を庇いながらそう言う芭蕉だが、ホースを握る凪の手(のもう一方の手が握る蛇口)は緩む気配を見せない。

 芭蕉が何もしてない事を突っ込もうとした翔だったが、その声は嵐に肩を叩かれる形で遮られた。


 「面白いからこのまま…ね?」

 人差し指で口を塞ぎ、ウインクをする嵐。これで男でなかったら、さぞ世の男達が虜になるだろう。…いや、この慣れてるカンジからすると既に親鸞の敵になりそうなカンジではあるが。


 ガラリと戸を開ける音がしたので見ると、結城が呆れかえった風な背中を向けて保健室を出て行こうとしていた。凪と芭蕉は互いに忙しく、それに気付いてもいない。嵐に引っ張られる形で翔も保健室を後にする。

 

 静かに戸を閉めた時に結城が口を開いた。

 「まったく…飛んだ保健医がいたもんだな…」

 「あぁ、全く同感だよ。凪は小さい頃から何も変わってはいないねっ」

 肩を竦めて、嵐は美しく首を横に振る。


 「嵐さんと嵐後先生は小さい頃は仲が良かったんですか?」

 「ああ、それは仲が良かった何てもんじゃないね。僕たちは…」と嵐が翔の疑問に答えようとした時。


 「ありゃりゃ、こちらにいらしたか。氷室君」

 そう言って寄って来たのは女性だった。黒い髪は凪のそれより長く、少々外側に跳ねた感じのあるくせっ毛だ。しかしそれより何より注目すべきはその女性の服装。


 「あぁ、校長先生、すみません。面接の前にどうしても凪に会っておきたくて…」

 「校長先生!?」


 女性にそう謝った嵐をぐりんと振り向き、翔は素頓狂な声をあげる。

 「よっ。うら若き一年生君」

 翔に向かってからからと笑いかける、校長と呼ばれた女性。しかしそのスタイルは、ラフなTシャツにジャージと、およそ校長らしくない。

 女でなくとも校長…といえばパリッとしたスーツを毎日来ている印象が強いが…。


 「お前…入学式の校長挨拶で顔見ただろうが…」

 校長の顔を知らなかった感全開の翔に結城が呆れてそう言うと、

 「俺、実は式の間全部寝てたからさ」と、翔は舌をペロッと出してウインクした。結城はため息を吐く。

 「うんうん。元気が良くってよろしい事で」

 腰に手を当て首肯しながら笑う校長に、枯れた婆さんの様な事を…と思ったツッコミは口には出さず、結城は訊いた。


 「所で、校長がどうしてコイツを探しに来たんだ?どう見ても不審者なんだが…」

 コイツこと氷室嵐ひむろあらしを後ろ手に指差したその質問の解答は、恐るべきものだった。


 「あぁ、そうそう。氷室嵐君は明日から三学年全部の美術の授業受け持つ事になってるからねぇ。氷室君、先に美術室に案内するよ」

 「はい」

 流麗な仕草で礼をして答える嵐。結城の声が詰まる。


 「びっ…び、美術の先生!?こ、コレが!?」

 「こら、森下君。人を指差して、コレとか言わない」

 

 結城の名字は森谷だが、この際間違いはどうでもいい。小学校教師の様な小言もどうでもいい。

 「こ、こんな一挙一動が翔の十倍はウザくて、一言にこんな重みもへったくれもない、適当丸出しの男が!?」

 「俺の十倍って…」「む、あの短時間で俺をそこまで見抜くとは。やるなぁ、青少年」

 結城が校長に問詰める言葉に、翔と嵐の反応が重なった。方や泣きそうに肩を落として、方や腕を組んで感心している。

 

 そして校長からは笑顔の駄目押し。

 「そうそう。あ、一年生はD組の副担任も担当するから、色々と関わる事も多いと思うけど、仲良くするんだぞ」

 そう言って校長は、2人の一年生に氷室嵐先生の経歴書をぴらりと見せた。


 そのA4サイズ用紙の右上には、およそ教職員の経歴書とは思えないくらいに(就職先への履歴書でもまずしないが)ポーズを決めて満面の笑顔を咲きほこらせた嵐がいた。思いっきりその証明写真だけで不安感を扇ぐ、というのに。

 「D組ってウチじゃねぇかっ!!」

 絶叫と共に、隣りの友人を思い切り蹴り飛ばす結城。


その様子を、二人の大人は笑って見送った。

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