四月二日-一時間目・数学-
-テーテーテーレッテテテレテテレッテ…
本鈴が鳴った。ガタガタと生徒達が席に着く音が教室中に鳴り響く。
校長が決めたらしい我が校のチャイムは、アニメソングのオンパレードだった。
今鳴った本鈴は、最近ではパチンコ台にもなっている二十年前の名作ロボットアニメの主題歌。
因みに休み時間が終わる五分前に鳴る予鈴には、あの国民的熱血野球アニメのテーマが起用されている。
「予鈴も本鈴も学生にとっては憂鬱の種みたいなもんだったけど、この本鈴聞くと授業やる気出て来るよなぁ~」
机に突っ伏して大きく伸びをしながら、
隣りに座る
「そりゃあ、アンタみたいなオタクには嬉しいでしょうねぇ」
「あっ、何だそれ、
自分がオタクである事を否定しない翔は、実際自他共に認めるオタクである。しかもその興味の幅は、マンガ、アニメ、小説等に加え歴史や世界・日本の神話、悪魔・妖怪、乗物、動物、実用書に書いてある知識や雑学から錬金術や陰明術などのちょっと危ない分野まで。
とにかくかなりオールマイティーなオタクとして、出身中学校では翔はかなり有名だった。
「何よ、自他共に認めるオタクでしょー?いつも恥ずかしげも無く自分で言ってるじゃない」
「バカかお前はぁ!オタクが何の引け目も無くオタクをさらしてると思うなぁ!」
オタク心は複雑なのである。
「バカはおまえもだろ」
-ゴン。
「いっ!?」
重量感のある音と共に翔の頭に降って来たのは、クラス全員の数学のワークテキストだった。
それを翔の頭に落とした犯人に、クラスのみんなが注目する。翔が頭を抱えて抗議の声を上げた。
「先生、いたーい」
「バカ野郎。日直のくせに仕事サボっといてオタク談義してる一年坊主が」
「え?…あ」
そしてその時に、「明日の一時間目の数学で、ワークを配るから、予鈴が鳴ったら取りに来てくれ」と言われていた事まで。
「あ、じゃねぇ。すっかり忘れてんな」
言った親鸞は、そのまま教卓にまで歩いてドサリと荷物を下ろした。
「じゃあ日直…いや、週直だったか。ワーク配るの手伝えー」
親鸞に呼ばれ日直の初仕事をこなしに、翔は重い腰を上げた。その様子を風菜、
全員の手にワークテキストが渡り、真新しいテキストにサインペンで名前を書く音が全員の手元から鳴った。
鳴った、のだが。
「…おい、
「いいえっ!」
生徒全員が名前を書いてる間、何気なく机達の間を巡回していた親鸞が里良に声をかけると、里良は親鸞の視線の先にあったそれを「もっとよく見て」と言わんばかりに親鸞の目の前に突き出した。
テキストの裏表紙の下の方に小さく設けられた名前を書くスペースを無視して、里良は裏表紙を目一杯に使って、でかでかと自分の名前を書いていたのだ。
しかもどこの五十代書道家だとツッコミたくなる様なワイルドな男らしい癖字。本来名前を書くスペースには「夜露死苦」の文字。更にその読みがなは「4649」。もはや仮名ですらない。
「…お前っ、一体いくつだ!?」
全てを総括して親鸞の口から出て来た的外れなツッコミは、隣りの十川の声で無かったものとなった。
「これまたかっこよく仕上げたな、風月」
その声に、後ろの席の風菜達から注目が集まる。
「うわっ、腕を上げたわねー!全然読めない」
-名前書いた意味ないじゃん。
「しっかしいつ見てもワイルドだなぁー。それで素の字なんだからすっごいわぁ」
-あ、その字は素なんだ。
「それはいかん、風月!いつも思うんだが、お前の作品には女子らしさが足りない!ほれっ、俺の持って来たにゃんにゃんテープシールを使え!」
そう言って翔が猫の絵柄が入った巻きテープシールを里良に渡そうとしている。
-こいつが何でこんな女子感全開なもん持ってんだ。
眉根を寄せた親鸞が翔の机を見ると、彼のワークにはちゃんと名前の欄に収まる様にそれが書かれて-?
取り上げて良く見ると、それは黒マジックではなく、里良に渡した猫絵柄のテープで書かれた名前だった。
「俺、器用でしょ!」
バチコーンと音が鳴りそうな程にウインクをする翔。
「
風菜が呆れ顔で頬杖を着いた。
-この集中力があって、何であんなにやる気満々だった日直を忘れてるっていう…。
親鸞は何も言わずに、ワークテキストを翔の机の上にそっと戻した。
「ま、じゃあ何はともあれ全員名前書いたな?じゃあ授業始めるぞ。教科書開けー」
親鸞の号令で全員の教科書の表紙が一斉に開かれた。
授業を本格的に開始後十分足らず。
「暇だぁ」
親鸞が黒板に書いた説明書きを指差しながら詳しいおさらいの説明をしている最中、里良が言い出した。隣りの十川が呟いた。「もうかよ」
「本っ当、風月は数学苦手だよな…。高校の数学もこれだったら、この三年間の成績も絶望的だな」
中学時代も里良の数学の成績はすこぶる悪く、そりゃあもう「よく受験ができたものだ」と仲間みんなで言い合ったものだ。
「俺が何回教えても分からないし、最終的には数学の課題ほとんど俺にやらせてたもんな?この三年間はそうならない事を願ってたってのに…」
大きく息を吐き、がっくりと肩を落とす十川。しかしその手元はきちんと動き、黒板に書かれている事をしっかりノートに写している。
「何よー、幼馴染みでしょ。いいじゃない、そのくらい」「良くない」
「おい、お前ら。ちゃんと問題できたのか」
完全に十川の方を向いて話していたので背後に親鸞が立っている事に里良は気付かなかった。
咄嗟に頭に浮かんだのは、こちらの背後が見えている十川への恨み事だった。何を見えているのなら、教えてくれてもいいものの。
「初回の授業からおしゃべりとはかなり余裕があるらしいな、風月。答え見せてみろ」
親鸞の言葉に気付いて、里良は慌てて周りを見回した。するとみんな、ノートに向かって問題を解いている。どうやら十川と話している間に、練習問題を解く時間に突入した様だ。
その十川も、ノートに順調にペンを走らせ、問題の(1)の答えが出た所だった。
-くそ、
悪態を口にしなかった里良はしかし、舌打ちも隠そうともしない。
「こぉらー、舌打ち聞こえてんぞー」
口元が不愉快そうに歪む親鸞に、里良の後ろから風菜が一言。
「でもそういう里良の清々しいくらいあからさまな所って、憎めないわよねー」
「せやなぁ」と、笑って同意する光。
-そうか?
親鸞の顔が不思議そうに歪む。何故そうなるのか微塵もさっぱり分からない。
ま、それはさておき。
「…いいから風月、練習問題やれ。この様子じゃ俺が懇切丁寧に分かりやすく噛み砕いた説明も聞いてないな、お前」
「えへへ」ペロッと舌を出して見せる里良。
-うざっ。
「あ、 先生。質問いいですか?」
眉間のしわもそろそろ彫り切れなくなった時に聞こえた声に振り向くと、風菜が小さく手を上げてこちらを見ていた。その授業姿勢に感心し、親鸞は体の向きを変えて正々堂々対峙する。
「おう、何だ?」
「
「うるせぇ、この野郎」
全然授業に関係なかった。期待した俺が間違っていた。
「お前ら…この俺の授業を真剣に受ける気がないらしいな…」
ナメられてばかりでは先生としての瀬が立たない。ここで一発ガツンと言っておくか。
親鸞が若年教師にありがちな熱血指導という名の、自分のプライドを守るための手段に出ようと、決意と拳を固めたその一瞬。
-ヒュン…!
チリ、と何かが頬を掠め、親鸞の右頬に赤い線を引いた。
一瞬後に痛い様な痒い様な、あの切り傷をいつの間にか創っていた時の独特の痛みを感じる。何かがそこを通り過ぎた、その頬に触れてみると、やはり流線が引かれていた。チョークが僅かに着いた指で触れると、また違う痛みを起こす。
何があったのか分からなくて、親鸞が周りを見回した。すると、後方の引き戸の枠に違和感。
よく見ると細いシャープペンが刺さっていた。
「誰だ、俺に向かってシャープなんて投げたのは!」
授業初日から授業崩壊の可能性を危惧した親鸞の頭。しかしそれと同じくらいに、さほど歳が離れてもいない高校生(しかも入学したてのひよっこ)にナメてかかられていると感じた事で、頭に血が上っている。
「落ち着いて下さい」
声は思いもしなかった窓際から聞こえて来た。
そちらを向くと窓枠を背もたれにした
「何考えてんだ
親鸞が絶叫するその言葉は、もはや説教なのか何なのか。その彼をペン先で狙う結樹は、どっちが年上だかわからない程に落ち着いている。
「俺は別にこの授業を崩壊させる気はありません。先生にケンカ売ってる気ももちろん無い…ただ-」
そこで言葉を切った結樹は一つ息を吐いた。息を整えた、と言うより、ため息に近い。
次の瞬間、その目で睨みあげられた親鸞の背筋に、恐怖が走る。
「自分の職務も忘れて、高校生のガキ相手に本気でケンカ吹っ掛けようとする、図体だけデカいガキが嫌いなだけだ」
声も荒げて無い淡々と言われた言葉。しかし親鸞はゾッとして青ざめた。これ以上、色が無くせないというくらいに。
親鸞にはその恐怖に覚えがあった。今となってはほぼ毎日、学校にいる間は逃れられない恐怖である。
「…あ、あらっ、
その場でうずくまって叫んだ親鸞を、全員が目を真ん丸くして見つめた。
---………
-…はっ!!
一瞬の静けさの後親鸞はすっくと立ち上がり、何事も無かった様に黒板の方へとツカツカと歩いて行った。「さぁ、答え合わせするぞー」
しかしその顔は耳まで赤い。
クラスの皆はクスクス笑いを噛み殺して、答え合わせをしなければならなかった…。
答えを合わせ終わって、「何か質問は?」と親鸞が言った時を狙って里良は迷わず手を上げた。
「はい」
「よし、風月。真面目に授業受ける気が出て来た様だな」
そして先生の指名が当たった手を下ろして、里良は今日一番の疑問を口にする。
「嵐後先生って誰ですか?」
「…そうだよな、お前から数学に関する質問が出る訳無いよな…」
「あたぼーよ」「得張るな」
数学教師と生徒のそんなやり取りに割り込んできたのは、風菜と翔が同時だった。
「俺も知りたーい!」
「嵐後ってどんなイケメン先生ですか!?っつか、先生の恩師!?」
「恩なんてあってたまるか、アレにっ!」
叫んだ親鸞にまた生徒達が驚く。
「…ま、初々しい新一年生諸君が何も今知ろうとする事は無い。いずれ機会があるだろうから…」
「「えー!!」」
親鸞の返事に多数の生徒からブーイングが飛んでくる。みんな気になるらしい。
しかし、親鸞は教卓を両手で思い切り叩き、飛び交うブーイングを強制的に鎮めた。
そして一言。
今までに無い迫力を持って、言った。
「…君達は自ら死地に飛び込む気か?」
それは昨日も、-今日でさえ見た事が無い迫力を宿した親鸞の姿であり、その顔はまさに「脅迫する者」ではなく、「される者」の顔だった。
翔がポツリと漏らす。「昔読んだホラー漫画に出てる顔にそっくり」
しぃん…と静まる教室内。やがて親鸞は黒板の文字を消し始めた。
「…なんにしろ、今は知らない方がいい。君達の未来は輝いてるんだ」
何かいい風な言葉を装っているが、要するにその先生が恐くて口にもできない事が、生徒達にはモロバレであった。
その時。
-テー…テレテテッテッテー…
荘厳なメロディが鳴り響いた。授業終了のチャイムだ。因みにこれは某名作RPGゲームのテーマ曲。
「ん…じゃあ今日はここで終わりだ。次の授業では先生に迷惑かけるんじゃないぞー」
教卓の荷物をまとめながらそう言うと、親鸞は重い足取りで教室を後にした。
今日の彼の日記には、どれだけ彼らに振り回されたか克明に記される事となる。
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