明日も昨日も今でこそ

星野 驟雨

ポラロイド写真

 此処が何処か、などどうでもいいことだ。

 仮に説明を加えるとすれば、図書館。あるいは書斎。

 時間という煩わしい概念すべてを取り除いた場所。


 私の視界には一人の人物が映る。

 それは私の馴染みであり、気まぐれにやってきては喜びを与えてくれる。

「ねえ、何を読んでいるの」

 彼女の問いは常にそこから始まる。私がずっと読書ばかりしているからだが。

「簡単に言えば人間が虎にメタモルフォーゼ、そっから思い出話をして帰る話だ」

「ああ、私もその話好きよ」

「そりゃ良かった」

「それにしても、やっぱり読む速度はおかしいのね」

「眺めてるみたいだとよく言われるよ」

「誰に」

「君に」

 この会話だって普段と何ら変わらない。

 そも、こんな会話をするのは彼女をおいて居ない。

 まあ、私の知人などきわめて少数だから話し相手は限られるというのも付け加えておかねばならない。

「何回目の会話かしら。これ」

「知らない。だが私は心地いいと感じているよ」

 嬉しそうに微笑む彼女をぼやけた視界の外に認める。

「生産性のない会話ほど安らぐものはないと思うわ」

「同意する。もっとも、生産性のある会話がないというのも困りものだが」

「生産性って何かしらね」

「哲学かい?身になれば生産性のある会話だろうさ」

 こうやって会話で遊ぶのが私たちの慰みであり、関係だった。

 こうしている間は、あらゆる煩わしさからは解放されている。

「生産性のない会話ほど覚えてるものだから、きっと生産性のない会話は生産性に富んでいるのかもしれないわね」

「回りくどい言い方をするね。素直に『あなたとの会話はすべて、とても大切なものです』って言えばいいのに」

「その物言いさえなければね」

「ごもっとも」

 ここからはこちらのターン。先程よりも気取った風に。

「だが、それは日常の聖域だと思うのだがね」

「いいえ、それは哲学の領域だと思うの」

「というのは」

 理由を聞き出す。相手の手札は見ておくに越したことはない。

 理由なき発言ほど空虚なものはない。手札云々は単なる言い訳だ。

「言葉を交わさずとも済む。それこそが日常の美学だと思うわ」

「言葉を交わし合う事こそが人間だと思うが」

「非言語領域でも通じ合えるわ」

「言葉で伝え合わないと心細いじゃないか」

「友達少ないくせによく言えるわね」

「自分の世界は小さいのがいいんだよ。灯台下暗しともいうじゃないか」

「年老いたわね、あなたも」

「そりゃあ君とは違うんだから」

 ――そう。私と君とでは違う。

「そう言ってくれるのはあなたぐらいかしらね」

 しんみりとしたかんばせを晴らす術など持ち合わせてはいないから、私は軽口をたたき続ける。

「光栄なことで」

 それ以降の返答はない。

 しばらくはそのままにしていたが、次第に気になってしまう。

 私だって人間なのだ。それは当たり前の事だろう。

 ましてや好意的な人間と顔を突き合わせているのだ。

 誤解のないように言っておくが、Likeだ。

 偏執的ともとれる恋愛感情などではない。

 それは慈愛と言うべきかもしれない。

 恋が許される時をとうに過ぎたのだ。

 ――それに、私たちはもう結ばれることはない。


 痺れを切らして彼女の方を見れば、慈しむような表情だった。

 その双眸は私の瞳を真っ直ぐに捉えている。

 つられるようにして私も微笑んでしまう。

 そして、それは私たちの約束の合図。

「次はいつ来るんだい」

「さあ、わからないわ」

「じゃあ最後に質問をいいかな」

「これも何回目かしらね」

「いいじゃないか」

 二人して笑う。

 

 落ち着いてから、ゆっくりと言葉にする。

「ねえ、君」

「はい」

「君は、ここに存在すると思うかい」

「ええ」

「君という存在は、明日以降も続いていくと思うかい」

「『今の私』は今だけよ」

「君は、今にしてようやく、ある重大な事実に私が至ったとして、それを聞く気があるかい」

「ええ」

「それが生産性のないものだとしても、聞いてくれるかい」

「ええ」

「それが、過去の君を傷つけてしまうことになったとしても、かい」

「ええ。人生は小さな物語の連なりだもの」

「君は、これが最後だとしても受け入れられるかい」

「ええ。明日も過去も今でこそ、よ」

 それに、と彼女は続ける。

「言ったじゃない。非言語領域でも通じ合えるって」

「ああ、それもそうだな」


「ねえ、君」

 それ以降の返答はない。

 それもそのはずだ。彼女は気まぐれなのだから。

 それもそのはずだ。彼女はもう居ないのだから。

 それもそのはずだ。彼女は今にのみ存在するのだから。


 時の流れ、その線をシャッター1つで切り取っただけのものなのだ。

 それが『今』、この瞬間という写真。そして永遠。

 それが彼女。

 何処にでも居て、何処にも居ない。

 私の瞳が瞬きのうちに捉えた亡霊でしかない。

 私を認める彼女と、彼女を認める私。

 世界だって、誰かに認められなければ存在しない。

 だから、次の瞬間には世界がないかもしれない。

 私が認めるからこそ世界は存在して、誰かに認められるからこそ私が存在する。

 たったそれだけの事。

 

 さて、今日は何月何日だっただろうか。

 連続的な『時間』へ戻ろうじゃないか。

 今までの私を紐づけて、私は生きているのだから。

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明日も昨日も今でこそ 星野 驟雨 @Tetsu

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